三十の詩

12:There is no chora”L”e ready

 アヤシシの背に乗り、天冠の山麓へと足を運んだ。切り立った崖の多いこの場所において、二人で穏やかに歩ける陸地はそう多くない。ウォーグルを呼ぶか、オオニューラの力を借りて崖をサクサクと上ってしまうか、そうした手段を取った方がアンノーンとの隠れ鬼も随分と捗るはずだ。けれども彼女はそうせず、敢えてこの山麓における険しい山道をウォロと共に歩くことを選んだ。
 こちらを見つける度に襲い掛かって来るパラセクトやヤンヤンマの群れを、ウォロが面倒だなと思いながら手持ちのポケモンで退けている間に、彼女は繰り出したダイケンキに「れいとうビーム」を指示して、オヤブンのメガヤンマをあっという間に撃退してしまう。相変わらず見事な手腕だ。

「これでしばらくは安全に進めそうですね」

 ダイケンキをボールに戻して笑う彼女の背後、崖と崖の隙間から見える空は既に赤色へと染まり始めている。日が落ちる前に洞窟か何処かへ入らなければ今度は夜に出現するポケモン……この辺りだとゴルバットたちの猛襲を受けることになりそうだ。

「ですが少し急いだ方が良さそうです。ゴルバットに囲まれると厄介ですよ」
「えっ? ……あ、もうこんな時間ですか? 大変! 急ぎましょう!」

 ぴょんぴょんと跳ねるように川沿いの道を駆け、彼女は迷いの洞窟に足を踏み入れる。松明が凡そ規則正しく洞窟内に配置されているおかげで、足元への不安は特に感じることなく奥へと歩を進めることができた。かと思えば泉のある開けた場所でオヤブンのクロバットが飛び掛かってくるなど、やはり油断のできない場所には違いなかった。

 分かれ道が幾つかあったのだが、彼女は洞窟を抜ける方ではなく、敢えて行き止まりに向かうルートを選んで先へと進んでいく。野生ポケモンのいない静かな行き止まり、そこの壁に張り付くような形で「L」のアンノーンは彼女の訪れを待っていた。確か「好き」を表すエイゴの頭文字がこれだったか、と思い出しながら、ウォロはボールにアンノーンを収めて満足そうに笑う彼女を横目に、メモ帳ではなくキャンプ道具を鞄から一式、取り出した。

「ポケモンの姿も外に比べれば随分と少ないようですから、出口の近く、風通しの良いところで今日は夜を越しましょう」
「そうですね、分かりました! これだけ大きな洞窟で眠れると、テントを張る手間も雨に濡れる心配もしなくていいので、ちょっと楽ですね」

 出口ならこっちですよ、と彼女は軽い足取りで駆けていき、ウォロを手招きする。急ぐ理由もなかったので、はいはい分かりましたと適当な相槌を打ちつつ、ゆっくりと歩く形で彼女に付いていった。夜の涼しい風が僅かに吹き込んでくる位置に火を起こし、温まりながら携帯食料を適当に噛み下す。彼女の食事もおにぎりではなく、保存の効く乾物タイプのものに変わっていた。

「これ、しばらく遠出をするって話したら、ムベさんが用意してくれたんです。喉に詰まらせるなよって何度も言ってくれたんですけど、その意味が今、分かりました。確かにこれは水をいっぱい飲まないと、口の中がカラカラになっちゃいますね」
「へえ、あのイモモチを作る方が直々に……アナタ、信用されているんですね」
「あはは、そうですね。一時期ムラから弾かれていたとは思えないくらい、皆さんとても親切にしてくださいますよ。寝袋も、医療班のキネさんが譲ってくださったんです。開いていた穴まですぐ繕ってくれて……本当に、頭が上がりません」

 ギンガ団の食糧補給を任されているあの老人が、ギンガ団の調査隊員である彼女の食事を用意するのは至極当然のことである。同様に、医療班が彼女の野宿を案じて防寒具を用意するのも自然な流れだろう。組織に属し、貢献を続けていることへの恩恵、妥当な報酬。彼女はそれをただ受け取っているに過ぎない。

「……」

 けれども今回の旅路を含め、何もかもの調査や探索の準備を一人で済ませてきたウォロにとっては、頼んでもいないのに携帯食料から寝袋からを用意してくれる彼女の環境が、随分と恵まれ過ぎた、生温いものに思われてしまう。そんな風に考えること自体馬鹿げていると分かりながらも、そうした気持ちが込み上げて来ることを抑える術をウォロは知らなかった。本当に馬鹿げている。そうした道を敢えて選ばなかったのはウォロの方で、彼女が受けている恩恵は、これまで彼女があのムラやギンガ団へ懸命に尽くしてきた結果の産物に過ぎないというのに。

「今度、ウォロさんの分の携帯食料も用意してもらえるよう頼んでみましょうか?」

 あははと軽快に笑い飛ばしてから、ウォロは「馬鹿なことを言うんじゃない」とやや鋭い声音で彼女を咎めた。彼が本気で嫌がっていることをすぐ察した彼女はさっと顔色を変えて口をつぐむ。眉がいつかを思い出させる下がり方をした。おかしい、アナタがそんな風に傷付く必要など一切ないというのに。

「ムベさんは慈善活動をしている訳じゃありません。アナタだから用意したんだ。間違ってもワタクシの名前など出さないように。いいですね」
「……そ、うですか。分かりました」
「ええ、ですからこの味をワタクシが知っていることはくれぐれも内密に。いいですね」
「ああっ、それ明日の朝の分だったのに!」

 彼女の鞄から携帯食料を一つだけ取り出し、口に運ぶ。ケムリイモの水分を限りなく飛ばして生地にしていると思しきそれは、確かに喉が渇く代物でこそあったが、それ以上にとても美味しかった。食堂のイモモチが恋しくなる味だ、とも思った。上手に作られている。

「ご馳走様です。この美味しさには及ばないでしょうが、明日の朝にはこれをどうぞ」

 リュックから自作の携帯食料を取り出し、彼女へ投げて渡す。静かな洞窟の中でぐっすりと眠れた翌朝、彼女はその携帯食料を「美味しい!」と何度も口にしながら、昨日の食事よりもずっと嬉しそうに頬張りあっという間に完食してみせたので、ウォロは多少なりとも誇らしい気持ちになれてしまったのだった。

2022.2.18
【讃美歌の用意はない】

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