11:Fanta”S”ia and awkward love
彼女がぽつりと「因縁の相手がいますね」などと呟くものだから、何事かと思い視線をそちらに向けたところ、瞳を赤くギラつかせたオヤブンのビーダルが、川岸を我が物顔で闊歩しているところだった。 「こちらに気付いても襲ってこなくて、逃げ出すこともしなかった、穏やかで可愛いビッパたちをそれまで沢山、見て来ましたから。まさかその進化系が目を光らせて襲い掛かって来るなんて思わなかったんです。赤い目に睨まれた時は流石に怖くて震えました」 六匹連れていた手持ちがほぼ壊滅状態に追い込まれ、唯一動けていたフタチマルと一緒に全速力で逃げたのだという。懐かしいなあ、と目を細めて笑った瞬間、その気配を察知したのかビーダルはくるりとこちらを向いて目をギラつかせた。けれどもこの地域に住処を構えるオヤブンのポケモンなど今の彼女のポケモンたちにとっては些末な相手である。ウォロの予想通り、彼女の繰り出したダイケンキが、ものの数十秒であっという間に「因縁の相手」を撃退してしまった。 ウォロが「秘技・背面取りの術」で彼女を驚かせていた、あの平和な頃とは比べ物にならないくらい、彼女の初めてのパートナーであるミジュマルは強くなった。図鑑を充実させるため、彼女は連れ歩くポケモンをかなり頻繁に入れ替えているようであったが、このダイケンキだけはずっと手持ちから外したことがないらしく、彼女のポケモンの中でも圧倒的な強さを誇っていた。この地域のオヤブンポケモンのみならず、大抵の野生ポケモンなら彼の繰り出す豊富な技で容易に撃退できてしまうのだろう。 「いた! 君、大丈夫? 枝に刺さって怪我したりしてないよね?」 近くのビーダルやビッパたちが枝を集めて作ったと思しき川辺のダム、そこに埋もれるようにしてSのアンノーンはいた。ボールに収め、確認を済ませてから、次は何処へ行こうかと悩みつつ調査メモを取り出す。次は天冠の山麓で三匹くらい見つけられそう、と呟く彼女の隣でウォロは自らのメモ帳を取り出し、彼女の元いた世界で普及しているエイゴとローマ字の情報を集めようと、調査そっちのけで矢継ぎ早に尋ねていった。 「強い、は?」 「強い……STRONGですね。今捕まえた『S』が使われています」 「水、は?」 「WATERですよ。これも『E』の付く単語ですね」 「枝、は?」 「枝……BRANCH、だったかな? 木はTREE、花はFLOWERって書きます」 物や状態の名前をしきりに尋ねるウォロに対し、彼女は大抵の場合、沈黙を挟むことなくさらりと返してきた。これだけの知識がこんな子供の小さな頭に詰め込まれており、しかも彼女の元いた世界では「誰でも習うこと」だと言うのだから恐れ入ってしまう。 自らのメモ帳に知らない言葉が次々と書き込まれていく様はひどく痛快だ。好奇心そのものを生きる原動力としているウォロにとって、何も知らないところに次々と知識や情報を注ぎ込まれることほど楽しく心地の良いものはない。折角なのでもう少し情報を回収していこうと思い、ウォロは彼女のポケモンボールを指差して尋ねた。 「ダイケンキ、は?」 「え、っと……ごめんなさい、分からないです」 「おや、アナタにもポケモンに関して分からないことがあるんですね」 「あはは、そりゃあそうですよ! 分からないこと、知らないことだらけです」 おそらく今、このヒスイ地方で誰よりもポケモンに詳しいであろう彼女にそう言われてしまったところで、皮肉あるいは嫌味にしか聞こえない。けれどもそんな彼女にさえそう言わしめる程に、ポケモンというものが奥深く、未知の要素をまだまだ多分に含んだ生き物であるという点についてはウォロにも納得のいくところだった。 ただ彼女には、そうした知識や経験の差と、ポケモンの奥深さが与えてくる理解の難しさ以上に、何かポケモンというものに対する大きな「溝」が、あるような気がした。それは他者によって為されたものではなく、彼女自身が作り上げたある種の「線引き」で、……それこそウォロはおろか、ポケモンを捕獲した経験のないムラの人にさえ及ばない「潜在的かつ致命的な不利」が……彼女の目には見えているような気がしてならなかった。その決して埋まることのない溝こそが彼女に「ポケモンのことが未だに分からない」と言わせているのではないかと、そんな風にウォロは考えてしまったのだった。 「ポケモンを捕獲し、連れ歩き、戦わせることに対してアナタには一切の躊躇いがなかった。アナタの世界では、ポケモンは恐れの対象ではなかったのですよね」 「ええ、ポケモンを怖いと思う感覚はほとんど持ち合わせていませんでした」 「ですが、近しい存在でもなかった? アナタはこちらに来るまで、ポケモンのことを、ただ遠くから見ていることしかできていなかった?」 バタン、とメモ帳がひどく乾いた乱暴な音を立てて畳まれて、筆と共にウォロの手の中へと戻ってきた。半ば押し付けられるようにして返された、その強引さに驚くウォロを彼女は真っ直ぐに見上げた。自らの心臓が跳ね上がる様を、こんなことで、とウォロは呆れた心地で笑ってやりたくなった。 これは知らない。これは全く新しい表情だ。彼女がこんな風にこちらを見上げてきたことなど一度もなかった。睨み上げる以上に凄みのある「見上げ方」があることをウォロは初めて知った。瞬きを忘れたように大きく見開かれたままの彼女の目は、輝きを失っている訳でもなかったものの、底知れぬ深みを感じさせる「色」をそこに作っていた。いつかの未来、ウォロが死後の地獄を見たとき、そこに広がるのはこんな色であるのかもしれなかった。 ああ、ワタクシはいつかこの色のもとに堕ちるのだなと、そんな風に自然と、極自然とそう思われてしまったのだった。 「貴方が私から、元の世界の全てを取り上げたこと、忘れるものかってずっと思っていたんです」 「!」 「でもこの世界にはポケモンがいる。大好きなポケモンたちが私の傍にいてくれる。それだけで貴方のしたこと全部、全部、許せてしまいそうになるんですよ」 怒っている? 悲しんでいる? あるいはワタクシを責めているのか? もしくは八つ当たりか? どんな理由で? 彼女の表情に宿された本心も、絞り出すように告げられた言葉の意味も、ウォロには分かりかねる。彼女を「分かってやれた」ことなどほとんどなかったので、これに関してはまあ、今更であるのかもしれないけれど。 「……」 地獄の瞳が大きく二回、思い出したかのように瞬きをする。それを合図とするように彼女の表情は一気にほぐれた。いつもの間の抜けた、へらっとした笑い方に戻っている。それでもその小さな口から紡がれる声音は先程を思わせる芯のある響きのままで、少し混乱させられてしまう。 「ポケモンが好きなんです。本当に、大好きなんです。だからちょっとだけ、困っているんですよね」 ウォロは慌てて、メモ帳と筆を押し付け返した。自らの手が僅かに震えていることには気付かない振りをした。これ以上、彼女の言葉を聞き続けることが怖かったのだ。今、致命的なことを言われてしまえば、ウォロは今度こそ二度とは立ち直れなくなりそうだと思ったからだ。 「好き、は、どう書くんです」 「……」 「ね、教えてくださいよ」 祈るように恐々と微笑んでそう告げれば、彼女は困ったように笑いながらパラパラとメモ帳を捲り、新しいページにスラスラと書き付けてくれた。 「LIKE、LOVE……両方とも『好き』を表す英語です。でも人や生き物を好きだって言いたい時は、LIKEよりLOVEを使うことが多いですね。意味としては『愛している』に近いかもしれません」 愛、と呟いたその音は、ウォロにはどうにも上手く馴染んでくれなかった。そんな彼を柔らかく見上げて笑った彼女は、メモ帳を先程よりもずっと丁寧な所作で畳み、「私も愛なんて言葉、滅多に使いませんよ」と照れたように付け足したのだった。そうですか、と間の抜けた相槌を打ちつつ再びメモ帳と筆を受け取る。手はもう震えていなかった。 2022.2.17 【幻想曲とぎこちない愛】