前日譚:我思わずとも泣いてゆけ
「アナタには夢があるのか?」 その言葉を受けて、彼女の表情が一変した。世界の終わりでも見たかのような形相だった。憤りにか、恐怖にか、傍に寄らずとも分かる程にガタガタと大きく震え出したその目から、勢いよく水の粒が転がり出てきた。赤い西日に照らされたそれは宝石のようにも真珠のようにも見える。頬をするすると滑り、丸い顎へと集まるそれは意思を持った生き物のようにも魔法のようにも思える。彼女が本当に泣いているところを見たのは初めてのことで、ウォロは少なからず面食らってしまう。 このような質問に、何故そこまで動揺するのか。コトブキムラを追い出された時も、ウォロが自らの目的を開示しプレートを奪うためバトルを仕掛けてきた時も、ギラティナと視線を合わせた時にさえ、彼女は驚愕し、困惑し、泣きそうになりこそすれ、決して絶望はしていなかったというのに。 彼女の目に宿る光は、どのような苦難にさえ掻き消されることなどなかったというのに。 「勿論ありましたよ。貴方の知らない『みんな』と一緒に、叶えたかった夢が沢山。貴方にこちら側へ連れてこられたことで、全部、取り上げられてしまったけれど」 時空を超えてこの世界に落ちてきた少女。その元凶となったギラティナをけしかけたのは他でもないウォロである。つい先程開示したばかりの情報を噛み締めるようにして、その言葉はゆっくりと、彼女の小さな口から紡ぎ出された。 ウォロに取り上げられた多くの夢を思って彼女は泣いている。にもかかわらず、その大粒の水はウォロを責めてはくれない。叱責の色も諦念の気配も感じられない。恐ろしい程の勢いでさめざめと泣きながらも、その目や声から彼女の覇気は微塵も失われていない。 「でも、何もかも取り上げられた世界で私、新しい夢が沢山出来たんです。貴方とギラティナに勝ったことで、その夢のひとつが叶いました」 彼女のめでたい夢。アルセウスの力を借りて世界を再構成するという、ウォロの野望を阻止すること。すなわちヒスイ地方をこの喪失の危機から守ること。ウォロに勝利し、ギラティナの心を折ったことでその夢が叶ったと彼女は言う。以前にディアルガやパルキアと対峙したのもおそらくは彼女の夢のためだ。彼女はきっとそうやって、これからもこの世界に幾多の夢を見て、ポケモンと共にそれらを叶えていくのだろう。 「私は貴方に沢山のものを奪われた。でも同じくらい沢山のものを貰った」 「……」 「貴方が導いてくれたおかげで、ヒスイ地方と、そこに住む人やポケモンを此処まで好きになれたんです。此処は私の全てを賭して守るべき世界だって、迷いなくそう思えたんです」 疎ましい程の光は相変わらずそこにあって、ウォロは思わず目を逸らしたくなる。いつもの饒舌さで彼女を押し黙らせることさえ、この異様に乾いた喉では最早叶わない。 「でも、貴方がここまで私を疎ましく思っているのなら、私も頑張って、貴方を嫌いにならなきゃいけないかな」 「は? ワタクシを嫌う?」 「嫌いな相手に慕われるのって、嫌でしょう? これ以上嫌われたくないから、私も貴方を嫌いでいた方がいいのかなと思って」 「……」 「それとも私、まだ貴方のことを好きでいていい? ありがとうって、お世話になりましたって、一緒に過ごせて楽しかったって、これからもずっと、思っていていい?」 在り得ないことのようにも思えるが、もし……もし「そんなこと」が、彼女の語る「新しい夢」のひとつに含まれるのだとしたら。ポケモンと共に叶えていくはずの幾多の夢、そこにウォロだけが鎮座できる領域が変わらず残っているのだとしたら。 この存在が、大きすぎる裏切りをもってしても尚、彼女の中で揺るがぬもので在り得るのなら。 「それはワタクシが是非を決められることではありませんね」 乾いた喉で吐き出した言葉は想定以上に掠れていて、ウォロは慌てて咳払いをする。その間も目を決して逸らさない彼女の度胸に免じて、ウォロもまた、憎らしいこの相手を見つめ返してやることにした。ふっと鼻で笑ってから、目を細めて笑い掛けてみたりさえしてみせた。そう、あの時のように。トゲピーとミジュマルを互いに繰り出して戦った、決して戻ることのない、楽しかったあの日のように。 「アナタの心はアナタだけのものです。誰にも書き換えることなどできない。ワタクシの望みも、アナタの気持ちも、否定されるべきものでは決してない」 この言葉は果たして、餞別となり得るだろうか。近いうち、神の笛をこの場所で奏でることになる、神に選ばれ、神の加護を受けた彼女への。 「貴方の、望みも……」 「そうとも、いつか、いつの日か、ヒスイ地方のポケモンすべての神話、その謎を解き明かし、アルセウスに会ってみせる! いや従えてみせる! 何年……何十年、何百年かかったとしても!」 血走った目で、大声で、そう張り上げるウォロの宣誓。それを聞いて彼女の涙はようやく止まった。少しばかり嬉しそうにはにかみさえした。その場違いな笑顔のおかげで、ウォロは再び彼女への疎ましい気持ちを思い出し、一刻も早くこの場を去るべきだと思い直して、彼女へと背を向けた。 「見ていて! ウォロさん!」 彼女は、待って、とは言わなかった。わっと泣き崩れるようなこともしなかった。ただ先程のウォロの宣誓に負けないくらいの大声で、今一度彼の名前を呼んだ。 ウォロの足が、止まる。 「私に二度と会わなくてもいいから、憎んだままでもいいから、これからもどうか、私を見ていて!」 情けないことに、恥ずかしいことに、ウォロは僅かな震えを覚えた。だって、ああ、在り得ない。一体、あの華奢で小さな体の何処から、これだけの大声が響き出ているというのか。山を揺るがし天にさえ届きそうな程の、こんな声が。 「ポケモン図鑑、必ず完成させます。すべてのポケモンにであいます。そしてもう一度此処へきて、アルセウスにも会います。貴方の夢さえ叶えてみせます!」 最後の言葉を受けて、ウォロは思わず振り返った。神の笛を両手に抱えた彼女は、一度は泣き止んでいたはずの彼女は、けれども再び泣いていた。大きく見開かれた目から飽きることなく零れ続ける大粒の涙が、まだ幼さの残る丸い顎の先から滴り落ちて、先程までの苛烈な戦いの場に小さな水溜まりを作っていた。 「この夢、もう二度と奪われたりなんかしません」 小指の先程の僅かな水溜まり。そこに映っているであろう彼女の姿。水溜まりの向こう、裏側の世界からこの光景を見ていると思しきギラティナは、この姿に、勝利者の涙に何を思うのだろう。悔しがっているのだろうか、あるいは感服している? それともある種の崇敬さえ抱いている? いや……もしくはただ単に、その涙を綺麗だと思っているだけなのかもしれない。そう、今のウォロと同じように。 2022.2.5