2(タイトル未定)

 チャンピオンの冠をダンデさんより受け継いだ、その翌日。見知らぬ人から声を掛けられる回数を数えつつ、その全てに簡単な挨拶で返して足早に立ち去ることを選び続けた私は、やっとのことでシュートスタジアムの控室に転がり込んだ。勿論、ポケモンバトルをするためなのだけれど、バトルの開始時刻にはまだ2時間ほど早い。今更、精神統一に膨大な時間をかける柄ではないし、控え室でできることなど限られている。けれど今日はどうしても早めに訪れておく必要があった。指導を乞う側の人間が、教える側よりも遅れて到着するのはマナー違反であるように感じられたし、何より私の心持ちとして、もうじっとしてなどいられなかったのだ。

『有名人のいろはを教えてやる。明日のトーナメントバトル開始1時間前、シュートスタジアムの控室に集合だ。遅れるなよ?』

 昨夜、パーティ会場の隅、カーテンと夜空のちょっとした隙間での遣り取り。面白いおもちゃを見つけたような子供っぽい笑みでキバナさんはそう告げた。フィールドを挟んだ向こうにいる彼の、どんな凶暴なポケモンよりも荒々しい有様の印象が強すぎるだけに、普段の穏やかで陽気な彼が為す屈託のない笑顔は、ひどく珍しいものとして私には映った。
 彼が穏やかに、ただ楽しそうに笑う。それだけで私は少し、不穏な心持ちになってしまう。

 私はあの荒々しい有様の彼にはきちんと勝利を収めている。どれだけ凄んだとしてもあのバトルコートではバトルが全てだ。だから彼の荒々しさは私の恐れるところではない。あの長身でどんなに高らかに咆えようと、それは私と私のポケモン達に何の影響も及ぼさない。私を揺らがせるものではないと分かっているから、あの彼のことは怖くない。
 けれども彼がただ穏やかに、楽しそうに笑うだけのとき、私はにわかに怖くなる。この状態の彼に勝てた試しがないからだ。攻撃こそ最大の防御、といった風に攻めの姿勢を貫く彼はこの穏やかな姿の何処にも見当たらず、ただ鋭さと熱さを失った乾いた砂がくるぶしの辺りをやわく撫でるばかりといった風で、彼はバトルでの勢いをほとんど削いでしまっている。にもかかわらず彼は強く、揺るぎない。何もかもを譲って差し上げているようで、その実、何ひとつ譲っていなさそうな、あの綺麗な笑顔がおそろしい。勝負など挑んでいないにもかかわらず、こちらが何故だか「負けた」という気分にさせられるのだ。強すぎる、と心中で膝をつきたくなってしまうのだ。

 私はその強さの秘密を知りたいと思った。その「秘訣」めいた何かを我が物として己の強さに変えることができれば、ある程度の誇りをもって「私はガラルの新しいチャンピオンだ」と言えるようになる気がした。14歳という、ダンデさんよりは確実に見劣りする中途半端な幼さでその冠を奪い取ってしまった身として、私なりに強くなるための知恵を得ることが叶うなら、それはこの人を介するのがもっとも確実で、有意義であるように思われたのだ。

『ダンデがチャンピオンでなくなった世界を寂しいと思うのか、オマエも?』
『……まさか! オレの寂しさをオマエに知られたところで、そんなもの、弱みにも何にもなりゃしねえよ』

 そんな彼が昨夜、カーテンの裏で見せた、本音とも冗談とも取れそうな何かは、けれどもそれまでのただただ圧倒的かつ不気味な強さとは一線を画した、どうにも人らしいものだった。嬉しくなった私はその言葉を「本音」であると都合よく解釈し、勝利を宣言するかのように楽しく目を細め、その弱みに付け込む形で、ひどく馬鹿げたことを言った。

『私の我が儘を叶えるために有益となり得るような知恵を、もしお持ちならご教授いただけないかな』

 捨て身の提案、無謀な懇願。知ったことかと笑ってあしらわれてもおかしくなかった。勝率などないに等しかった。トップジムリーダーであるキバナさんが、私に、ポケモンバトルで勝利を勝ち取る以外の執着を見せる理由などあるはずもないのだから、断られるのが自然な流れであることは確実だった。

『ほら、喜べよチャンピオン』

 けれども彼は、頷いてくれた。きっとあの時、私は泣きそうな顔をしていたに違いない。
 だって、嬉しかった。本当に嬉しかった。嬉しくて、嬉しくてうれしくて! どうにかなってしまいそうだった!

 何もかもが変わってしまったあの一戦。私のような中途半端な子供がチャンピオンになったことよりも、ダンデさんがチャンピオンでなくなったことの方に誰もが注目していたあの夜。そんな中、逃げるようにカーテンの裏に隠れた私を見つけ、寂しさというものを私と共有し、弱音とも取れる発言を笑って受け止め、運が良かったとまで告げて私が師事することを呆気なく許したのが、よりにもよって、彼だった。ダンデさんの10年来のライバルであり、誰よりも彼の「チャンピオンタイムイズオーバー」を「寂しい」と思っていたはずの彼が、よりにもよってダンデさんではなく私に、情けをかけたのだ。
 この、信じられないような事実に、浮かれた私は「奇跡」以外の言葉を当て嵌めることができそうにない。それが、キバナさんの単なる気紛れに過ぎなかったのだとしても、私はその気紛れを彼に起こさしめた「何か」に、跪いて祈るように感謝したい。

 この奇跡がもたらした、たった一つの事実。
 それは私が「寂しくなくなった」ということだ。

「うおっ! ……ええ? ユウリ、今何時だと思って」
「こんにちはキバナさん。今は午後1時だね。……ごめんなさい、驚かせたかな」
「いや、だってオマエ、1時間前に集合って言ったはずだろ? トーナメント開始は3時からなのに、いくら何でも早すぎる」
「それは分かっていたよ、でも待ちきれなくて」

 浮かれた心地のままにありのまま、そう告げる。約束の時間には早すぎる。そんなことはよくよく分かっていながら、敢えて過剰な時間前行動を取ったのだ。この控室でポットデスと一緒に待ちぼうけを楽しむつもりであったのだけれど、まさか彼の方も来ているとは思わなかった。

「キバナさんは? 貴方は、待ちきれなかった……ということではないはずだよね?」
「ああ、オレはマスコミから逃げるため、普段から時間をでかくズラして動いてんだよ。オマエにもあいつ等から上手いこと隠れて動く術を追々教えようと思ったんだが、すげえな、既に実行していやがったとは!」
「時間をずらして動く……」
「おかげで取材からは逃げおおせたが、偶然とはいえオマエに捕まるなんてな。流石はチャンピオン、運も一流だ」

 頭の後ろで手を組みつつ、楽しそうに、嬉しそうに、けれども少しだけ悔しそうに笑っている。毒気を完全に排した、大柄な男性に似合わぬ人懐っこい笑顔である。同じように笑おうとしたけれど、そもそもの笑顔の彩度が彼と私とでは段違いであったため、きっと拙く情けないものにしかなっていないのだろう。少し悔しい。いっそ笑い方からこの人に教わってしまおうか、とさえ思ってしまう。

「さて、それじゃあ早速、講義といくか?」
「……それは願ってもないことだけれど、キバナさんの予定は? 私が来るまでの1時間に、何か大事な予定を組み込んだりしていない? 貴方の邪魔をしたくはないんだよ」

 私が待ちきれなかったがために、ほぼ同時に来たが故に鉢合わせただけの話で、本来ならキバナさんはこの控え室で、私のいない1時間を過ごすはずだったのだ。彼の口ぶりからして、このように時間を大きくずらして動くことは日常茶飯事なのだろう。時間の潰し方、あるいはそのずらした時間にすべきことというのは何かしら予定されていて然るべきだ。故に彼自身の予定を優先してほしいと告げたのだけれど、彼は呆れたように笑いながら私の頭に大きな手を置いた。ニットベレーに付いたボンボンがその指につつかれているらしく、フェルト生地の引っ張られるような感覚が伝わり、何故だか少し楽しくなる。

「おいおい、ベンチと筋トレマシーンしかないこの場所でどんな大事な予定をこなすってんだよ。別に何もないから安心しろって。仮眠でも取ろうかと思っていただけだ」
「仮眠? それは大事な予定じゃないか! 私は静かにしているから、どうか予定通り眠ってほしい。2時になるまで物音を立てないようにするよ」

 私はそう告げて、背中の鞄から小さめのタオルケットを取り出そうと手を差し入れた。勿論、キバナさんの仮眠の足し、枕にでも使ってもらえればと思ってのことだった。白とグレーのチェック柄のそれを勢いよく引き抜いて渡そうとしたのだけれど、相手の動きの方が僅かばかり早かった。彼はすかさず私の手首を掴み、少しだけ真剣な視線の作り方をして、私がタオルケットを差し出すことを無言のうちに拒んだのだ。
 ああ、これは間違いか。私は相応しくない行いをしたのか。
 そうしたことを私は悟る。血の気がさっと引く。少しだけ寒いと感じる。そして私が悟った、という事実を認めるや否や、キバナさんはその真剣な視線を砂の城の如くさらさらと崩していく。あとにはふわふわとした、陽だまりのような三日月形の青い目が二つ、いつもの穏やかさで私を見下ろすばかりだった。強いなあ、と思う。敵わないなあ、とも思う。その圧倒的な立ち振る舞いを目の当たりにするのは単純に心地が良い、とても。

「ははっ、なるほどなあ。そこからか」
「……キバナさん、眠らないの?」

 彼はもう、私の前で眠る気などないらしい。分かっていながらそう確認せずにはいられなかった。くつくつと楽しそうに笑いながら私の手首が解放される。あれだけ大きな手で掴まれていたにもかかわらず力加減は絶妙で、私の肌には跡など少しも残っていなかった。

「いいかユウリ、オマエはもうすっかり有名人だ。知名度はダンデに並ぶと言っていい。そんなオマエは今後、スキャンダルの『でっちあげ』ってやつを食らってダメージを受けないよう、細心の注意を払う必要がある」
「そんな技は聞いたことがないな。『つけあがる』とどう違うの?」
「ポケモンの話をしているんじゃねえんだなあこれが! 人の話! オマエが、オレとのよからぬ噂を立てられて勝手に騒ぎ立てられたりしたら困るだろって話だ!」

 人の話。私と彼との間に立ち得るであろう良からぬ噂。それに思い至らない程のめでたい鈍感さは持ち合わせていない。大人であるキバナさんとまだローティーンの私ではそのような恋愛沙汰の「でっちあげ」にも無理があるのでは、とも考えたけれど、何とかしてスクープを世に送り出したい側の人間からすれば、年の差など問題にはならないのだろう。
 この控え室には今、私とキバナさんだけ。マスコミの取材陣からは逃れているけれど、プライベートな空間ではない以上、何処に誰が隠れていたとしてもおかしくない。監視カメラが置かれている可能性だってある。その気になれば「それっぽい」写真を撮影することなど、プロの方々にとっては造作もないのだろう。
 そのような場所で「寝具」を連想させるタオルケットを異性に手渡して眠るように促すことは、きっと「危険で」「軽率な」「避けるべき」行為なのだ。

「それなりに有名な男と女が並んで歩いているってだけで、世間サマは大ごとにしたがるんだよ。オマエはこれから、誰かと一緒にいることに関して、これまでとは比べ物にならない程の注意を払わなきゃいけないワケだ。分かるか?」
「……それは、そうだね。なんとなく分かるよ」

 顔を強張らせ、さっとタオルケットを引っ込め乱雑に鞄へと突っ込んだ私に、キバナさんは「流石はチャンピオン、理解がお早いことで!」とおどけたように称賛の言葉を投げてくれる。私の軽率な行動に怒っている訳ではないと分かり、安心した。
 ニットベレーの上から頭をぽんぽんと叩かれる。この程度の触れ合いなら安全圏。でも私からキバナさんにタオルケットを渡す姿を他の誰かに見られてしまうのは致命的。その加減が私には難しい。でもキバナさんは完全に心得ているようだった。

 私も早くそうなりたい。昨日、唐突に訪れたこの劇的な変化に、早く順応してしまいたい。

「お前がそのタオルケットを渡していい相手は、家族、年端もいかない子供、ポケモン、その程度のもんなんだ。覚えておけよ」
「……ホップやマリィにも、控えた方がいい?」
「より『安全に』過ごそうと思うなら、控えるべきだろうな」

 そんな窮屈、非合理的だよ。
 馬鹿げた抗議を喉元で押し潰しつつ、私は「ではそうしよう、私のために」と従順性を示した。非合理だろうと窮屈だろうと、それがこの変化に適応するための最適解であるならそうするべきだ。
 その非合理に慣れてしまえばいい。受け入れて、取り入れて、我が物とすればいい。今は違和感ばかりであったとしても、しばらくすれば私だって、キバナさんのように屈託のない笑顔でいられるようになるに違いないのだ。そのために私はこの人に教えを乞うたのだから。

「でも、逃げ回ってばかりもいられないよね? それなりに有名になってしまった私が、完全にプライベートを秘匿することはきっと不可能だ。隠れたり逃れたりすればする程、人は探りを入れたくなってしまうものだよ。きっといつかは、暴かれる」
「ああそうだな、オマエの言う通り。だから適度に世間サマのご要望を満たして差し上げなきゃならねえ。オレやオマエの許容できる範囲内で、な」
「……世間に出す情報のコントロールは、私達自身で行わなければならない、ということ?」
「そういうこった。コツとしては先手を打つことだな。情報を暴かれるより先に、情報を予め開いておくんだよ。見せてもいいと思えるものだけ上手く選んで、曝け出していくんだ」

 そこまで説明したところで、キバナさんは口笛を吹いた。
 私には音感がないからそのコードが楽譜で言うところの「何」なのかは分からない。でもその音は彼の愛用する電子機器を想起させた。砂嵐の吹き荒ぶフィールドにおいても、いつだって彼と一緒にいる、戦いとはまた別の意味での、かけがえのない相棒。あの子の鳴き声によく音を似せたその口笛は、きっとその相棒を呼ぶための音なのだろう。
 果たしてキバナさんの背中から飛び出してきたスマホロトムは、得意気に私の周りをくるくると踊ってから、彼の大きな手の中にぴたりと納まる。それを高く掲げた彼は、スマホロトムにそっくりの得意気な笑みをつくる。

「今からそのやり方を教えてやる」

2020.8.1

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