呼び出しが掛かった。場所は、レンリタウンの大きな滝の傍にあるカメラスポットだ。
カメラマンは相棒の一眼レフのカメラを携え、会社を飛び出す。見事な音を立てて流れ落ちる水、それを司る大きな滝を、写真に収めておこうとする人間は少なくない。
今回の観光客も例に漏れずそうだったようだ。駆け寄った彼に少しだけ驚いた素振りを見せた二人は、どうやらこのシステムを知らないらしい。
美しいカロスには、多くの観光客が訪れる。
町や道路の随所に備え付けられたこの看板は、そうした観光客の写真撮影を手伝うためのサービスを提供するという印なのだ。
気のいい観光客は「ありがとう」の言葉と共に少量のチップをくれたりもする。それはそのままカメラマンの小遣いになった。
もっとも、この取り組みは、観光地としてのカロスを盛り上げるために作られた慈善事業の一環に過ぎない。参加しているカメラマンは全てボランティアだ。
仕事の合間、このベルが鳴ると直ぐに最寄りの看板に駆けつけるようにしている。気のいい会社はそれを許してくれる。
カロスという町はどこまでも、観光客とそれを支援する人物に優しいのだ。
今日というこの日に駆けつけたこのカメラマンも、普段はごく普通の出版業界で仕事をしていた。
不定期なこの呼び出しにより、外に出ることになった彼は大きく深呼吸をする。やはりカロスの、特に大きな滝が流れるこのレンリタウンの空気はいい。
「空気が美味しいでしょう、この町は」
「……ああ、そうだな」
「カロスは美しい町ですからね。お二人はどちらから観光に?」
カメラマンはそんな常套句を紡いでにっこりと笑う。
「カロスは美しい」……それは観光客が下す評価だけではなく、この地に住まうカロスの人々が自負するものでもあったのだ。そしてそれはそのまま彼等の誇りになった。
美しいカロスに恥じない振る舞いを。それはカロスに生まれ育った者なら誰もが言い聞かせられたであろう文句だった。
それに強い反発を覚える若者も少なからず存在したが、多くはその教えを誇りとして胸に抱き、成長する。そして大人になり、その美しさを守ることを心に誓うのだ。
無論、観光客の為に美しい景色と共に彼等の一瞬を切り取るカメラマンが、その道を歩んできたことなど想像に難くない。
「イッシュから、あの列車で来ました」
「イッシュ地方からですか。長旅、お疲れ様でした。あの列車から見える景色はなかなかのものでしょう」
カメラマンは女性の言葉に頷き、三脚を用意しながら、二人をそっと観察する。
一人は高い背をやや猫背にした、恐ろしい程に肌の白い男だ。マイセンの食器を連想させるその白に、暗い色をした目が二つ、ついている。
荷物は宿に預けているのか、小さなショルダーバッグが提げられているだけだった。身に纏っている服は謀ったかのように黒一色で、少しだけ威圧感を感じさせる。
色素の抜けたような、透明感のある白い髪は肩程で切り揃えられている。風が吹く度にその白はふわふわと所在なく揺れる。
彼の背中から、ケタケタと笑いながらジュペッタが顔を出す。カロス地方ではあまり見かけないそのポケモンが彼のパートナーであるようだった。
リンリンと涼しげな音に視線を逸らせば、女性が小さなポケモンをそっと撫でていた。
その瞳は慈悲深く細められ、やわらかな色を湛えている。クスクスと笑うその声は、その見慣れないポケモンと同じように、鈴を鳴らすような音を立てていた。
男と同じく肩上で切り揃えられたピンク色の髪には少しだけ癖があるのか、それとも髪質の違いなのか、風に揺られるその様子が男のものとは少しだけ異なる。
ロングスカートと長袖から覗く華奢な四肢は、しかしその見かけに似合わずかなりの力を持っているらしく、写真を拒む男を撮影場所まで引きずってきた。
「お姉さん、珍しいポケモンですね」
「ええ、ホウエン地方に住むポケモンで、チリーンというそうです。彼が預けてくださったの」
「可愛いですね、お姉さんにぴったりだ」
あら、と少しだけ驚いたような顔をして、女性は柔和にクスクスと笑った。
お世辞がお上手ですこと。と柔らかな声で紡いだ彼女に、しかしカメラマンは世辞を紡いだ自覚など毛頭なかった。
事実、この女性は美しかった。そしてその女性に腕を強く引っ張られている男もまた、整った顔つきをしていたのだ。
血の通っていないのではないかと思わせる程の、陶器のような白さは多少の恐ろしさを醸し出していたが、それがまた、男の端正な顔によく似合っていると言わざるを得ない。
「マイセン磁器をご存じですか。カロス産ではありませんが、透き通るような白さが特徴の綺麗な陶器なんですよ。お兄さんの白い肌によく似ています」
「……そうか」
こちらが一を問えば一かそれ以上を返してくれる女性とは異なり、この男は必要以上の会話を苦手としているらしい。
しかしそうした観光客が相手でも、気まずくなるような下手な真似はしない。カメラマンはこの道のプロだった。
商売ではないものの、美しいカロスに美しい思い出を残していってほしいと願い気持ちは本物だったのだ。
カメラマンは楽しそうに笑い、少しだけからかうように尋ねてみる。
「お二人は新婚さんですか?」
「そうではない、ただの知り合いだ」
間髪入れずに否定の言葉を紡いだ男にカメラマンは苦笑する。
「いやあ、それは失礼いたしました」
解っている。「ただの知り合い」がイッシュから二人で観光に訪れたりはしない。
この寡黙な男が嘘を吐くようには見えなかったが、結婚こそしていないものの、この二人が互いにとってどのような存在であるかということくらいは察することができた。
野暮なことを聞いて申し訳ない、とカメラマンが続けると、男は小さな溜め息の後でそっと口を開いた。
「ずっと、働いてきた」
「……」
「初めての休暇だ」
絞り出すように男が紡いだその言葉には、カメラマンが完全に拾いきることのできなかった重みがあった。
初めての休暇。……一体、彼等はどれ程の長い時間、身を粉にして働いてきたのだろう。
その苦悩を推し量ることは簡単なことではなかった。そこにはその苦悩を長い間、共有してきた二人にしか踏み入ることのできない不可侵の領域があったのだ。
だからこそカメラマンは、「そうですか」とただ静かに相槌を打つことにしたのだ。
「お二人は幸運です。その初めての休暇の舞台にカロスをお選びになった」
すると男は僅かに頷き、微笑んだ。「……そうだな」と、その整った口から静かな肯定が零れ出たのだ。
カメラマンは満足そうに頷く。いい笑顔だ。隣で微笑む女性に相応しい、彼の後をついて回るジュペッタに相応しい、後ろの大きな滝に相応しい、カロスに相応しい、笑顔だ。
その笑顔が消えてしまわない内にと、カメラマンは二人を並ばせる。
一番の笑顔をお願いしますよ、とは言わない。そんなことを言わずとも、二人はとても幸せそうに笑っていたからだ。
カメラマンはその場で、撮った一枚を現像する小型の機械を取り出す。
「そんな小さな機械で写真ができるのね」と、女性が小さなポケモンと共に現像の工程をじっと覗き込んでいる。
彼女と世間話をしながら、カメラマンはそっと、少し離れた場所にいる男を盗み見る。
ずっと彼女を見守っていたらしく、カメラマンと目が合ってしまった男は、きまり悪そうに慌てて目を逸らした。
なんと微笑ましい二人だろう。こんな二人の初めての写真に力添えできたことを、カメラマンは心から幸福だと思えたのだ。
写真を二人にそれぞれ1枚ずつ渡せば、お礼のチップが返ってきた。
恐れ入ります、と返して、最後に看板の説明をする。
「カロスには、この看板がいたるところにあります。このボタンを押せば、近くにいるカメラマンに写真を撮ってもらえる仕組みですから、是非、これからもご利用ください」
恭しく礼をしてから、大きく手を振る。
「お二人さん、よい旅を!」
女性はそれに答えるように高く手を挙げてから、それを恥じるように少しだけ控え目に振って笑った。
男は小さく頷くだけで、カメラマンにさっと背を向けてから女性の手を引いた。
しばらく、その後ろ姿に向かって手を振り続けていたカメラマンだが、手を付けかけていた仕事のことを思い出し、慌てて会社へと走り出した。
2015.2.10