※50万ヒット感謝企画、参考曲「ロストバタフライ」、後編と番外編の間にあったであろう話
羽ばたき続けることが貴方であると心得ていた。
少女は16小節程の短い旋律を、時に軽快に、時にスローテンポで、ある時は弾むように、またある時は子守唄のような緩やかさで、歌っていた。
アクロマが声を掛けさえしなければ、いつまでも、自らが海底遺跡で読み解いたそのメロディを、「花の歌」と彼女が呼ぶそれを、紡ぎ続けるのであろうと信じられた。
「シアさん」
けれど彼は少女の名前を、おそらくは彼にとって最も幸福な形をしたその音を紡いでしまった。
彼女ははっと振り返り、その顔にぱっと花を咲かせてから、船の甲板から海へと投げ出していた両足をすっと引き上げて、一歩、二歩と駆け寄ってきてくれる。
歌を中断させてしまって悪いことをしただろうか、と気付いたのは、彼女がふわりと地に降りるように足を止めた後のことだった。
「邪魔をしてしまって申し訳ありません」と紡ごうとした彼の言葉は、しかし少女の「誘い事」により呆気なく遮られた。
「一緒に歌いませんか?」
「……歌、ですか?」
「アクロマさんの歌う声、好きなので」と微笑んで紡がれた、その言葉に他意の全く含まれていないことを知っていたから、彼は苦笑しながらも了承の意を示す。
「自分では歌声の良し悪しというのは判断しかねますが、貴方が好きなのであれば、喜んで」
そうして彼は自身のテノールを、少女は彼女自身のメゾソプラノを、それぞれ、プラズマフリゲートの眼下に広がる海へと押し放った。
波の大きな音がその殆どを飲み込んで、なかったことにしてしまったが、そんな「響かない」音すらも楽しいのか、少女はメロディの合間に楽しそうな笑みを浮かべる。
海を映したような、深く青い目がすっと細められる。彼も同じように、少女が「太陽の色」と呼んだその目を細めれば、波が弾いた陽の光が眩しく視界を穿った。
二つの音の余韻は眼下の海に飲まれていた。故にその音は遠くへ広がらない、響かない。けれど確かに共鳴していた。二つの音があることへの喜びを噛み締めるように歌った。
しばらくそうしていたのだが、不意に少女は何の前触れもなく、メロディを紡ぐのをぴたりと辞めてしまった。
波の音が大きすぎてそのことに気付くのが少しだけ遅れたアクロマは、自分だけが歌ってしまっていたことへの羞恥を誤魔化すように笑おうとしたのだが、
隣で首を捻る彼女があまりにも困り果てたような、深刻な顔をしていたものだから、その苦笑をなかったことにして、同じように首を捻った。
「やっぱり、難しいですね」
どうやら彼女が「歌って」と頼み込んだのは、単にアクロマの声を気に入ってくれているから、というだけではなかったらしい。
けれど今更、彼はそのようなことで気分を害したりはしなかった。寧ろ、こうして真剣に考えを巡らせる「いつもの」姿に、安堵さえも覚えているような節があった。
彼女の呟いた「難しいですね」という言葉に続きがあることを知っているから、続きを聞かせてくれると信じていたから、
アクロマは「どうしたのですか?」と尋ね、続きを促すようなことはせずに、ただ沈黙して次の言葉を待っていた。
案の定、彼女はやや躊躇うような素振りを見せてから、しかしその声音ははっきりとした形を取り、アクロマを真っ直ぐに見上げた。
「これは、愛したポケモンを想う歌だと思うんです。「とても愛していた」って、書いてあったから」
風が吹いた。
彼女の短く切られた、それでもセミロング程度の長さを持つ茶色い髪は、潮風にふわふわと踊るように揺れた。
腰まで長く伸びていたツインテールは、彼女の示した覚悟によって殺ぎ落とされてしまっていた。
アクロマは彼女の短い髪に、そろそろ慣れて然るべきだと解っていながら、それでも自身の中では、まだ動揺が勝っているように思えた。
クロバットに乗って空を駆ける最中、そのツインテールは規則的に空を舞い、まるで二翼を羽ばたかせているようにさえ見えていた。
爪のように、髪は切ってもまた伸びるものであると解っていながら、それでもあの長さに戻るにはどれ程長い時間が掛かるのだろうと、考えずにはいられなかったのだ。
彼女が、彼女でなくなったのではないかと疑うための要素は、その短すぎる髪に全て揃えられていた。
だからアクロマは、少女が自分の知る、聡明で真面目で真摯な姿を取ってくれると、少しだけ、安心する。
此処にいるのは髪の短くなっただけの、いつもの少女なのだと、言い聞かせることができる。
彼女の長すぎた「空に舞う翼」が、今の「潮風に溶ける羽」に置き換わっただけのことなのだと、安心することができる。
「愛するってどういうことなのか、いくら歌っても、どんな風に歌っても、解らなくて。……貴方と一緒に歌えば解るかもしれないと思ったんですけど、やっぱり、難しいですね」
故に、アクロマの知る少女なら口にする筈のない「愛」という単語を、そのメゾソプラノが紡ぐと、彼は少しばかり、狼狽せざるを得ないのだ。
彼女はまだ子供で、幼かった。故に成長していく過程で彼女に変化が訪れるのは当然のことだった。
故にこうした言葉を操るようになったとしてそれは何も不思議なことではないのだと、解っていながら、驚かずにはいられない。
「アクロマさんは、あの絵画に書かれた言葉の意味を、紐解くことができますか?」
「……いいえ、わたしもよく解らないのですよ」
「……ふふ、そっか、よかった。貴方が解らないような難しいことを、私が幾ら頭を悩ませて考えたところで、解る筈がなかったんですね」
どこまでも同じで在ることが嬉しい、というように少女は笑う。
アクロマはそんな少女に安堵しつつも、そこから一歩だけ手を引くことが自らの役目だと心得ているから、彼女に思考するための言葉を投げる。
「では一緒に考えましょうか」
ひどく驚いたような顔をした彼女、その見開かれた海の目に「貴方はどんな風に考えていたのですか?」と尋ねれば、
「やっぱり難しいですね」という言葉をなかったことにするかのような饒舌さで、彼女は「愛」についての考察を幾重にも積み上げていった。
「私はイッシュが好きですし、こうしてプラズマフリゲートで過ごし毎日も好きです。ポケモン達のことも好きですし、貴方のことだって好きです。
これら全てを「愛している」と言い換えることは、その、できない訳じゃないのかもしれませんが、でも少しずつその意味は、違っているような気がするんです」
「トウコ先輩はNさんのことを愛しているんだと思うんです。でもその想いが大きければ大きい程に幸福である、という訳でもないように思えて」
「大切だという想いが過ぎて、たまに皆の足を掬ってしまうんです。私、そうした姿をこれまで沢山、見てきたんです」
「我を忘れる程の大きさが愛である、っていうのも、愛の全てではないように思えるんです。でも、幸せや喜びをくれる、キラキラしたものだけが愛だとも、思えないんです」
この子はこうして、その小さな身体に抱えた沢山の思いを、こうして言葉を使って躊躇わずに、饒舌に、伝えてくれる。
私はこんなことを考えているのだと、これだけの思考を展開し、このような問題にぶつかっているのだと、誤魔化さず、恥じることなく真っ直ぐに開示してくれる。
今、この時にこそ「彼」は「愛」を見ていたのだと、これは少女の「愛」を受け取る行為なのではないかと、しかし彼は思うだけで、いよいよ口にすることはなかったのだ。
「アクロマさんは、どう思いますか?」
「わたしですか?……それはまたの機会にとっておきましょう。それまでにわたしも、貴方がくれた考察に見合うだけの考えを用意しておきます」
ぱっと笑顔になった彼女は、「ありがとうございます!」と上擦ったメゾソプラノで感謝の言葉を紡いだ。
その後で「でも、こんな風に色々と捻くれた考えを持つことって、あまりいいことじゃないのかもしれないなあ」と、少しだけ不安そうに零して、眼下に広がる海を見据える。
その、おそらくはただの独り言であった、あまりにも小さな声音で紡がれたその言葉を、しかしアクロマはそっと拾い上げる。
「きっとそれは「答えのない問題」なのでしょう。わたしを含め、大人はそうした問いを避けがちです。けれど貴方は真摯に向き合い、考えている。素晴らしいことだと思いますよ」
「……でもこういうこと、あまり皆には言えないんです。考え続けることを否定されるのが、怖いのかもしれませんね」
「では、その相手にわたしを選んだ貴方は運が良かったのでしょう。少なくとも、わたしは貴方のそうした思いを聴くことのできるこの時間を、楽しみにしていますから」
え、と小さく声を上げた彼女は、しかし数秒遅れて眉をすっと下げ、困ったように笑った。
それは彼女の溢れる感情が、混沌としたままに現れる時の顔だと知っていた。その泣き出しそうな顔を彼はよく知り過ぎていた。だから少女の頭をそっと撫でた。
風が吹く。少女の短くなった羽が海の潮に溶ける。
「大丈夫ですよ、シアさん。貴方は間違っていません。仮に間違っていたとしても、わたしが支えます」
少女は彼の示したその愛に、見えない羽を瞬かせて微笑む。
2016.3.6
きゃらしゅさん、素敵な曲のご紹介、並びに企画へのご参加、ありがとうございました!