※曲と短編企画2、参考BGM「遠征~炎~」
モノクロステップからアピアチェーレまでの空白の1年にあったであろう話
この少年は確かに世界を変えたいと願っていたのだ。
「N……?」
夜中に誰かが階段を駆け下りる音がして、私は目を擦りながらベッドを下り、部屋のドアを開ける。
それと同時に、玄関のドアが特徴的な音を立てて開く。ああ、またかと私は思いながら、ブランケットを引っ掴んで階段を下りる。
リビングの時計は午前1時を指していた。私も夜更かしの常習犯ではあるが、流石に日付を跨ぐと睡魔に負けてしまう。
あいつはずっと、寝付けないままだったのだろうか。
冬の風が肌を突き刺し、私は思わず身震いしてブランケットを羽織った。
今日は月明かりがとても眩しく、雲もかかっていないために星がよく見える。
冬の星空の方が、澄んでいて、星を沢山見つけることができる。それを以前Nに告げたところ、天体の話を長々と続けられたので聞くことを放棄してしまっていた。
Nはこの星空に、難しい天体の運動や星の明るさといったものを見るのかもしれない。
けれど私は違う。ただ星を見て「綺麗だ」と思う、それだけ。私の見る星空はとてもシンプルで、それ故にとても美しいのだ。
そして、私はそんな風に思える自分が嫌いではない。
しばらく歩いて、町の外れにようやく彼を見つけた。海の近くの木の下で、コロモリと親しげに話をしている。
私の姿に気付くと、彼は少しだけ驚いたように微笑み、手を振る。
それは私とトウヤが彼に教えたアクションの一つだった。親しい人間には遠くからこうやって挨拶をするのだと、Nはこの町での生活で学んでいた。
それに驚いたのか、コロモリが慌てたように飛び去ってしまう。私は芝生を蹴って彼の元へと駆け寄り、呆れたように睨み上げる。
「毎回、こうやって探しに来る私の身にもなってほしいわ」
「君のせいでトモダチが逃げてしまったのだけれど、それに対する謝罪はないのかい?」
「あら、言うようになったわね。あんたが私の睡眠を妨害さえしなければ、間違いなくそうしたと思うわよ」
私は羽織っていたブランケットを剥いで、マフラーをかけてあげる要領でNの背中にばさりと回した。
Nは笑顔で「ありがとう」と紡ぐ。この挨拶が身についたのも最近のことだ。
何かしてもらった時に「感謝」の気持ちを持つという習慣が、Nには恐ろしい程に希薄だった。
これだから箱入りの王様は、と憎まれ口を叩きながら私はNに「ありがとう」の意味を教えた。
Nは旅先でもその言葉を使っていたらしいが、その意味は悉く理解していなかったらしい。恐ろしいことだ、と思った。
そんな彼は1年前、ポケモンの解放を訴える「英雄」として、イッシュの全ての人に知られ、畏れられていた。
伝説のポケモンを引き連れ、ポケモンを解放することで人とポケモンは完全な存在になれるのだと謳った彼は、さぞかしご立派に見えたことだろう。
けれどその実態は、自分で洗顔もできない、ありがとうの意味も知らない、夜に眠るという観念すらない、ただの世間知らずのお子様だった。
この箱入りの英雄を居候としてこの家に住まわせたのは、去年の冬のことだ。
家事を手伝うことを条件に母は彼の居候を認めてくれたが、正直、家事どころではなかった。
自分の身の回りのことすらもできない彼が、家のことにまで手を付けられる筈がなかった。手を付ければそれこそ大変なことになるのは目に見えていた。
『トウコ、お湯が熱すぎる!』
そう言って、風呂から裸で飛び出して来られた時には心臓が止まるかと思った。
『こんな水を顔にかけたら肺に入ってしまうじゃないか!』
洗顔を怖がるNの顔面に、私とトウヤで思いっきり水をかけたこともある。
こういった調子で、私とこの世間知らずの王様との生活は難航していた。その苦難は収まるところを知らない。
彼が普通の生活の中に完全に溶け込んでくれるのはいつのことなのか。
そう思いながら、けれど私は時折、果たしてこれが本当に正しいことだったのかと考えてしまう時がある。
Nの純粋な目はどこまでも危険だった。その目でじっと見つめられてしまうと、ひょっとすると間違っているのは私の方なのではないかという風に思えてくる。
そしてその目は私を、1年前のあの日に引き戻す。
『異なる考えを否定するのではなく、異なる考えを受け入れることで、世界は化学反応を起こす。これこそが、世界を変えるための数式……。』
私達は正しかったのだろうか?
袋小路になっていた運命とやらを切り開く方法は、本当にこれしかなかったのだろうか?
「今年の冬は暖かいらしいね」
ぽつりとNが呟いた言葉から、いつものように他愛もない会話が始まる。
Nは私が後を追ってきても、すぐには家の中に入らないのだ。だから私も、それに付き合うことにしていた。
夜に眠るものだという観念を知らないNは、長時間の睡眠を取ることを苦手としていた。
長く眠れて3時間が関の山、あとはこのように家を抜け出して、夜行性のポケモンとお喋りをしている、という訳だ。
結構なことだが、これでは社会に出た時に困ってしまう。
彼や私が共に生きていかなければならないのは、あのコロモリではない、その他大勢の「人間」だ。だからこそ、私は彼に人間としての生活を教えようとしていた。
それが、彼のこれまで積み重ねてきた思想や時間を否定するものだと、知っていた。知っていながら、私は彼に「人間」としての生活を教え続けた。
誰よりも本気で、真摯にポケモンと向き合い、彼等のために世界を変えようとしていたNの想いを私は知っている。認めている。
けれど、彼に普通の生活をさせるには、どうしてもポケモンよりも人間の方に生活のウエイトを置かなければならない。
私はそのことに時折、強い罪悪感を抱くことがある。
私の得意とする強情と豪胆とで、彼に普通の生活を学ばせていた。それは同時にポケモンを中心にした彼の今までの生活を否定することに繋がった。
それが彼の望んでいることではなかったとしても、私にはそうすることしかできなかった。
私はNに、人間として生きてほしいのだろうか?ポケモンに合わせた生活を送ろうとする彼を律しているのは、そんな思いがあるからなのだろうか?
確かに、そうだ。私は彼と一緒に生きていたい。この時間はそのために必要なものなのかもしれない。
けれど、無理強いするつもりはなかった。Nが人の生活にどうしても馴染めないのなら、強い抵抗感を示すのなら、それでもいい。
私はNが生きていてくれさえすればそれでいい。
「トウコ、一緒に眠ってくれないか?」
「……は?」
思いも寄らぬNの頼みに、私は素っ頓狂な声を上げてしまった。こいつは一体、何を言っているのだろう。
Nは困ったように笑って、私の顔色を窺うように続きを紡ぐ。
「誰かの体温がないと眠れないんだ。あの城にいる時は、愛の女神にそうしてもらっていた」
「……」
「人の体温じゃないと、ダメなんだ。近くに同じ体温が欲しい。誰かが傍にいると、確信させてほしい」
「だから今まで眠れなかったの?」
頭を殴られたような衝撃が走った。これはどういうことだろう。
ポケモンに囲まれて過ごしてきた筈の彼が、人の体温を求めていた。それも、ずっと前から。
その事実を、私は長い沈黙の中で噛み締めていた。噛み締めて、そして笑いが止まらなくなった。Nが不思議そうに私を見上げる。
「誰かが傍にいないと眠れない」という事実が、少し恥ずかしいものであるという認識すら持っていないこの王様は、しかしそれでも「人」を求めていたのだ。
沢山のポケモンに囲まれて過ごしていながら、それでも眠るときは自分と「同じ」体温が必要だと言ったのだ。
それは本能に近いものだったのだろうか。人に育てられるのは人であるという当然の摂理が、Nにもしっかりとプログラムされていた。
だからこそ、抱きかかられて眠るその時の体温は、同じものでなければならなかったという、ただそれだけのことだったのだろうか。
それともNは、本当は寂しかったのだろうか。彼はずっと、人恋しさを抱えて生きていたのだろうか。
解らない。この箱入りの王様のことは、解らないことが多すぎる。
けれど、彼がとてもアンバランスな造りをしているということは解った。そして私はその歪な彼すら愛しいと抱き締める覚悟ができていた。
「いいわよ、明日から一緒に眠ってあげる。でも、私は寝相が悪いからね。ベッドから落ちて怪我をしても知らないわよ?」
花を咲かせるようにぱっと微笑んだその顔から一転、途端に青ざめた彼に私は益々笑いを堪えられなくなってしまった。
この際だ、日が昇るまでここで喋り続けていよう。風邪を引いたなら、それはそれでいい。
するとNは何かを思い出したかのように、私の手を強く引いた。
何?と尋ねる間もなく、彼は背中にかけられたブランケットの半分を私の肩に回してみせる。
そういう気遣いはもっと先にするべきだったわね、と冷え切った身体で悪態を吐く。さあ、箱入りの愛しい王様、今度はどんな風に言い返してくるの?
2015.3.17
風見楓凛さん、素敵なBGMのご紹介、ありがとうございました!