※二人の結婚から2年半ほど、「躑躅」第一章から1年半ほど経った頃の話
いつものように目を覚まし、いつものように窓を開けました。
冬の朝にはまだ日が昇っておらず、ジョウト屈指の大都市といえども、やはりこの時間帯では静かなものでした。
今は2月、寒さの最も厳しい頃でした。故に彼女が2階の窓から寒空に息を吹きかければ、まるで魔法を操っているかのように、その空は白く染まるのでした。
冬の息は白い。そのようなこと、誰だって知っていることです。殊更、取り立てて驚いたり、喜んだりするようなことではない筈です。
けれども彼女はそうした驚きや喜びをいつまでも、いつまでも手放しませんでした。わあ、と子供のように歓声を上げて、クスクスと肩を揺らしながら、息の在り処を眺めるのでした。
彼女は冬の寒空を、凍る息を、あと30分もすれば昇ってくる朝日を、今も昔も変わらず愛していました。
彼女は世界を愛せることを喜んでいました。彼女は世界に愛されることを喜んでいました。そうした人だったのでした。
近くのフラワーショップからやって来たのでしょう、手の平よりも小さなその虫ポケモンは、2階の窓から顔を出した彼女を見つけるや否や、そこへ一斉に飛んできて、
まるで彼女の、いつもよりもずっと浮ついた心地を歓迎するかのように、その周りをくるくると回って祝福しました。
「あら、私がとっても嬉しい気持ちでいるってこと、解ってくれるの?」
人差し指をそっと伸ばして、虫ポケモンの頭を優しく撫でました。ポケモンは透き通る黄金色の羽をぱたぱたと揺らして、つぶらな瞳でじっと彼女を見上げていました。
ただそれだけのことが嬉しいらしく、彼女はクスクスと肩を震わせて笑うのでした。彼女が笑えば、虫ポケモン達は更に近くへと寄ってくるのでした。
人の気持ちの浮き沈みに呼応してやって来るこのポケモン達は、この女性がいつもに増して「嬉しい気持ち」でいるということが分かるのです。
それはこのポケモンが持っている生得的な能力であり、彼等にしてみれば、感情の揺らぎの大きな人のところへ飛んでいくのはごく自然なことなのです。
そこに彼女の喜びを推し測り、祝福する気持ちが備わっていたかどうか、そんなことは、ポケモンの声が聞こえるような人物でないと解らないことであったのでしょう。
けれどもこの女性は「そう」だと信じているようでした。彼女は日常の、何気ない些末な出来事に「素敵な意味」を見出すのがとても得意でした。
彼女の心にかかれば、「明日、雨が降ること」だって、喜びに違いないのでした。そういうものなのでした。
「……もう起きたのですか、相変わらず早いですね」
「あ、ごめんなさい。起こしちゃいましたか?」
深く被った布団の下から聞こえてきた、くぐもった声に彼女はぱっと振り向きます。
途端、その周りを飛んでいた黄色い虫ポケモン達は、一斉に2月の寒空へと散っていきました。
まだ薄暗い冬の空へと、虫ポケモン達がその透き通った黄金色の羽を瞬かせて飛び去って行く様は、まるで夜の闇に消える星のようでした。星が走っているかのようでした。
彼女は今一度、窓の外へと視線を移し、その10cm程度の小さな星を見送ってから、冷たい風の入り込む窓を閉めて、
盛り上がった布団の中の人物へと話しかけるために、膝を折って身を屈めて、シーツと布団の間に出来ている僅かな暗がりへと声を投げました。
「つい嬉しくて窓を開けてしまったんです。貴方が寒がりだってこと、解っていた筈なのに……本当にごめんなさい」
すると布団の中から、彼女と同じ色の髪をした男性がぬっと顔を出しました。
眠そうな目を少しばかり擦ってから彼女を見上げます。瞳の中に在る空がすっと細められます。
おやおや、随分とおかしなことを言うじゃないですか。そう告げて嬉しそうにおかしそうに笑ってから、布団から左腕だけを出して、身を屈めた彼女の頭をぽんと、叩きます。
「いつもの貴方なら、私の眠気のことなど全く気にせずに、笑顔で叩き起こしてくれていた筈ですよ。得意の奔放とマイペースは何処へ行ってしまったのですか?」
そうですね、そうでしたねと彼女は歌うように告げて、眉を少しだけ下げました。
布団の中、眠そうな目で彼女の次の言葉を待つこの男性は、たまに遠慮というものをしてみるこの女性を、少しばかり陽気な調子で許すのがとても得意でした。
そんなことを気にするなんて貴方らしくない。もっと奔放に振る舞っていなさい。好きなように生きなさい。そしてその傍には私を、置いてください。
……そういった具合に、彼は多くを望みませんでした。出会った頃からずっとそうでした。
彼女が朝、窓を開けるだけで幸せになれるように、彼もまた、奔放な彼女にこうして起こされてしまうことだけで、幸せだと思えてしまうのでした。
「でも、今日で1年になるんですよ。私だってもう「1年生」のお母さんじゃないんです。だからそろそろ、落ち着いた淑女のような人になるべきなのかもしれません」
「母である前に貴方は貴方でしょう、クリス。確かにそうした配慮は母らしいですが、貴方らしくはない。落ち着いた淑女らしい貴方など、本を読んでいるときだけで十分です」
彼女の目が大きく見開かれました。その空色には、やはり空色の彼が映っているのでした。
髪の色も、目の色も、まるで血を分けているかのように二人はそっくりです。二人の青は今日も同じところで瞬くのです。
その「奇妙な偶然」を「運命」という都合のいい響きで呼んだのが、数年前のこと。その「運命」を「永遠」のものにするために、揃いの指輪を嵌めたのが、2年前のことでした。
そして1年前の今日、その「青」を共有できる相手がまた一人、増えました。
「それに貴方の笑い声を目覚まし時計代わりにしている私としては、貴方が静かになってしまうとかなり、困るのですよ。
貴方が奔放に笑ってくれなければ、私は定刻に起きることさえできないのですから」
貴方がいなければ、私はまっとうに生きることさえ叶わない。
それは彼が、この女性の罪を、この女性が罪だと思い込んでいるものを奪い取るために、幾度となく繰り返していた、子守歌のように優しい響きをした文句でした。
そうした、彼にとっては至極当然の真実を声に出せば、この女性はひどく安心してくれるのだということを、彼は彼女との時間の中で、察することができるようになっていました。
彼は言葉を惜しみませんでした。彼女を理解するための言葉、彼女の心を軽くするための言葉、それらを怠ることなど考えられませんでした。
彼はそうした人であり、彼にとってこの女性はそうした人でした。同じ色をした彼等が「家族」の形を取り続ける理由など、それだけで十分でした。
「そうですね、貴方が起きてくれないと私も困ります。貴方が寝坊してしまうと、一緒に朝食を食べることができなくなってしまうもの。
……それじゃあもう少しこのままでも、いいのかしら?貴方を起こしてしまう私でも、いい?」
「ええ、もう少しと言わず、いつまででもどうぞ。いつまでも、貴方は貴方らしくいればいい。きっとそれが、貴方に最も相応しい在り方です」
「ふふ、アポロさん、優しくする相手を間違えていますよ。今日は私の日じゃないんです。今日の主役はあの子なんですよ」
そう告げて、立ち上がって、大きく伸びをしてから、彼女はすぐ隣にある小さなベッドへと視線を向けました。
そこには、奔放でマイペースな、笑顔の絶えないこの女性を「母」にし、ベッドの中からのそりと這いずり出てきている、朝に弱いこの男性を「父」にした、
小さくて弱くて無力で、それ故に愛らしく、かけがえのない命が、その小さな瞳を閉じて寝息を立てている筈でした。
今日はその子の、1歳の誕生日でした。
「あら」
けれどその子は、起きていました。空色の目を大きく見開いて、まだぎこちない瞬きを、遊びのように何度も何度も繰り返していました。
その空の目に、同じ色をした「母」が映るや否や、小さな命はにわかに元気になって、短い両手をぐいと彼女の方へと伸ばし、拙い母音を細く長く並べて、彼女を呼び始めました。
母親に似て早起きなことだ、と彼は微笑ましく思いましたが、すぐにその細めかけた目を大きく見開かなければならなくなりました。
「……」
何故なら雨が、降っていたからです。まるで空が気紛れに雨を降らすかのような軽い心地で、彼女の頬を涙が一筋だけ、つうと滑り降りていったからです。
その、安堵なのか歓喜なのか高揚なのか解らない「一滴」は、けれど彼女の少し尖った顎の先からぽたりと落ちて、小さな「青」の鼻先を濡らしました。
小さな青は、その一滴に驚いてぴたりと動きを止めましたが、わっと泣き出すようなことはしませんでした。ただ静かに「母」を見上げていました。視線は、逸らされませんでした。
その一滴のみを降らせたことに満足したのか、彼女という空はもうすっかり雨を忘れ、太陽のように笑うばかりでした。
おはようと、今日もきっといい天気よと、もうすぐ朝ご飯にするからねと、いつもの調子でそんな風に、ニコニコと微笑みながら語り掛けるのでした。
「今日は特別な日なの。貴方が生まれてきてくれたことをお祝いする日よ。だから今日は貴方に、ありがとうって、おめでとうって、大好きって、いつもより沢山、伝えなくちゃ」
……彼女の空色に雨雲がかかることは、そう珍しいことでもありません。
他の誰も知らないことであったのかもしれませんが、彼女はとてもよく泣くのです。
安堵や歓喜、期待や興奮、不安や恐怖、絶望や希望。大きすぎる感情の波は、容易く彼女に雨を降らせました。
まるでそれが呼吸であるかのように、彼女は少し、ほんの少しだけ泣いて、また笑うのでした。
この男性は、彼女のそうした呼吸の雨を見逃さない位置にずっといました。
彼女がとても高い頻度で「一滴」を降らせる人物であることを知り得る距離に、彼は出会ってからずっといたのでした。
彼女のささやかな一滴に気付き、それを拭うのは、いつだって彼だったのでした。
「貴方の好きなプリンを昨日、作っておいたのよ。きっと美味しく出来ているから、あとでお父さんと一緒に食べましょうね」
伸ばされた小さな手を取って、頼りない背中に腕を差し入れて、抱き上げて、白桃のようなその頬をつんと指でつついて、笑って、
ほらお父さんも抱っこしてあげて、と笑う、その頬にはもう、雨は残っていませんでした。
彼はやれやれと溜め息を吐きながら、その小さな青を代わりに抱きました。赤ちゃんの抱き方をもう彼は心得ていましたから、躊躇う理由など何処にもありませんでした。
右手で小さな青をしっかりと抱え、左手の親指で彼女の頬をそっと拭えば、彼女は少しだけ顔を赤くしました。それを見て彼はいよいよ満足そうに微笑みました。
小さな青は二人の間に見えた晴れ間を喜ぶように、高い声で笑いました。
「1歳のお誕生日、おめでとう。貴方のことがずっと大好きよ。私達のところに来てくれて、生まれてきてくれて、本当にありがとう」
窓の外は明るくなり始めています。日が昇ろうとしています。雨はもう止んでいます。
今日は小さな青の、お祝いの日です。
2017.7.11
(彼女の一滴は、愛されることと愛せることを喜ぶために、落ちる)
ハッピーバースデー、ゆきのさん(魅珠さん)!この二人をリクエストしてくれて本当にありがとう!