Custom-made Flapping

「ちょっとゲーチスさん!」

 ノックもなしに扉を開けて入ってきた少女は、そのままコツコツと靴音を立てて、執務室の奥に座する主のところへと真っすぐに向かう。手元の資料から顔を上げた男の、赤い隻眼が愉快そうにすっと細められた。
 きっと彼を睨み付けた海の両目に、どうしたと無言で問う。彼女は握り締めていたチャコールグレーのスーツをバサッと男の前に掲げて「これ!」と叫んだ。

「貴方、私のこといつまで子供だと思ってるんですか!? 140cmのスーツなんてもう入りませんよ!」
「おや失礼? お前の背丈はまだ私の肘くらいだったとばかり」
「いくらなんでも記憶のアップデートを怠りすぎです! 何年前の話ですかそれは!」

 6年と3か月前だな、と正確に説明しようか迷ったが、そこは今回の話の本筋ではないだろうなと思い、男は言葉を引っ込めてくつくつと笑うだけに留めた。

「というかこれ、明らかにプライマリースクールの卒業式に着るタイプのスーツですよね。デザインが可愛らしすぎます。ゲーチスさん、これを買うときにおかしいとは思わなかったんですか?」
「さあ? 女性モノの服など誂えたことがないもので」
「じゃあどうして今回、私のスーツ選びに名乗りを上げたりしたんです!」

 普段はカットソーやTシャツなどのラフな出で立ちばかりを好み、公の場でも比較的カジュアルなジャケットの着用で済ませていた彼女が、今回スーツを用意することになった理由は二つある。一つはいよいよ彼女が18歳になり、名実ともに「大人」の振る舞いが求められる年齢になったから。もうひとつは今回呼ばれる場所が、イッシュのバトルの最高峰とでも呼ぶべきポケモンリーグであるから。
 次のポケモンリーグの四天王に、彼女の名前が候補として挙がったらしい。誰からでも自由に挑戦できる形式から、他地方の、順番を定めた形式に切り替えたうえで、彼女を最終の四番手に置きたい、とのこと。その話し合いの場に、18歳になった彼女がTシャツ姿で向かうのはあまりにも、ということで急遽、スーツを用意することになったのだった。

「あれでもないこれでもないと散々悩んでいただろう。決められないなら私が適当に見繕ってやると言ったまでのことで、お前もそれに同意したはずだが?」
「もちろんそうですしそう言ってくださるのは有難かったですよそりゃあもう! でもセンスとかは問わないのでせめて着られるものを用意してくれませんか!」
「お前があと15cmくらい縮めば着られるだろうな」
「無茶言わないで! というか『適当に』っていうのは謙遜のための枕詞みたいなものでしょう? 本当に適当に選んでくるなんて……流石に、予想できませんって」

 男を責める口調を崩さないながらも、珍しいやり取りが面白くなってきたらしく、彼女はスーツを握ったままの手をお腹に当てて笑い始めた。背中が少し曲がり、身長が少し縮んだように見える。
 あの日の彼女はこれくらいだったか? いやもっと小さかった気がする。あの日、男の全てを奪っていった憎き子供の姿はもっと、もっと。

 時が流れた。男も彼女も随分と変わった。記憶だって新しく積み重ねた分、古いものは相応に薄れた。けれども互いにボールを構えて対峙したあの日のことだけは、何年経っても鮮明に思い出せる。
 同年代のポケモントレーナーの中でも彼女は一際小さかった。どんな子供より子供らしい見た目をしていた。長い髪を翼のように翻してちょこまかと駆ける姿で、自身の姿を少しでも大きく見せている、そんな努力のやり方だってひどく子供っぽかった。
 もっともその長い髪が「小柄な自分を少しでも大きく見せるための努力」であるというのは男の誤った推測で、その実彼女は「髪を切るのが怖かった」というだけの理由で、小さい頃から髪をずるずると伸ばし続けていただけだったらしいのだけれど。

「未だに貴方にこのサイズだと思われていたのはちょっとショックですね。はぁ、今からでも用意してもらえるスーツ、あるかなあ」
「なら代替品としてこれを使うといい」
「え……」

 デスクの引き出しを開けて第二のスーツを取り出せば、彼女は「ええっ!?」と大声を上げた。深海を思わせるネイビーカラーのスーツは、現在の彼女の背丈に合わせてサイズ調整を依頼した一点ものである。袖と裾に僅かながら遊び心のあるデザインだが、まあフォーマルな場でもこれくらいなら許されるだろうとの判断だった。
 男は唖然とする彼女の手から140cmサイズのスーツを取り上げて、代わりにその手に新しいスーツを持たせる。恐る恐るといった様子でそれを広げた彼女は、瞬きを忘れてじっくり見つめ、十数秒の沈黙を挟んでから。

「綺麗……」

 出会った頃より少しだけ大人びた声で、そう口にした。
 想定していた以上の反応を得られて気をよくした男は、開示するつもりのなかった情報を、にっこりと微笑みながらつい付け足してしまう。

「一点ものですよ、感謝するといい」
「いっ!? オーダーメイドってことですか? え……ゲーチスさんが?」
「私がやったのはデザインの指定だけだ。サイズの調整はお節介なお前の先輩がやったのでしょう」
トウコ先輩が!? 全然知らなかった……」
「あと、あのやかましい科学者が、そこのフラワーホールを飾るラペルピンを見繕っているようでしたよ」
「アクロマさんまで!?」

 彼女が先輩と呼ぶあの女に関しては、あちらがしゃしゃり出てきたのではなく、男の方から頼み込んでのことである、という事実は黙っておこうと思った。男からの依頼を受けた奴は、先日、嬉々としてプラズマフリゲートに飛び込んできた。こちらの指定したデザインに納得の意を示してから、じゃあここからは私が引き受けましょう、とにっこり快諾しつつ。

「殊勝な判断だわゲーチス。あんたが勝手にあの子のスリーサイズの情報を握ったりしていたら、私とアクロマさんがあんたの息の根を止めるためにあらゆる手を尽くしたでしょうから」

 などと、予想よりも二回りほど凄みの効いた声音で告げたのだった。

 かくして出来上がったオーダーメイドスーツを、彼女は感極まったような笑顔でぎゅっと握り締めた。
 これは彼女と出会ってから男が働かせてきた数多の気紛れの中の、ほんの一つに過ぎないことではあったのだが……これまでの中でも、トップクラスにいい反応が見られたような気がして、男はたいへん満足していた。これならまあ、いけ好かない奴の力を借りた甲斐もあったというもの。あと単純に、もう随分と長い付き合いになってしまった彼女の節目に相応しいものを贈れたことは、ほんの僅かながら誇らしくもある。

「ありがとうございます、ゲーチスさん。大事にします」

 さらに言うなら、彼女はこうして何歳になっても、取り繕うことを知らない、そのままの愚直な感謝をありったけ口にするのだ。今回の男が為した気紛れの報酬としては、もう十分すぎるほどだろう。
 そうしてひどく満たされたように微笑んでいた彼女だが、しかしはっと我に返って「待ってください!」とツッコミの姿勢を取った。

「こんな立派なものの用意があるならどうしてそっちを先に送ってきたんです!」
「万が一この140cmサイズがぴったりだったら面白いだろうなと」
「急にいたずらごころ発揮するのやめてくださいよ!」
「実に残念だ、お前はもうすっかり大きくなってしまったようで」
「いや感動的な話に持っていこうとしてます!? 騙されませんからね私は」

 チッ、とわざとらしく舌打ちをすれば、彼女のツボに入ったのか再びお腹を抱えて笑い始めた。
 ほら、いつまでもこうして、こんな男のすることに屈託なく笑ってしまうものだから……その度に、ああこのゲーチスとかいう男の人生も、そう悪いものではなかったなと思えてしまうのだった。

 ただしその楽しげな笑いは長くは続かず、彼女はスーツを綺麗に畳んで抱え直してから、困ったように眉を下げた。

「ただ、こんな立派なものを用意していただいてくださったのはとても、とても嬉しいんですけど……」
「四天王の誘いを断るつもりなんでしょう」

 驚かせるつもりで口にした言葉だったが、彼女の肩は跳ねなかった。ただ見抜かれたことを恥じるような、けれどもどこか安心しているような、そうした複雑な笑顔を浮かべて、口を開く。

「……ね、そこまで分かってくれているのなら、こんなものの用意なんて」
「そんなものにかこつけて、それなりに立派になったお前のことを祝いたかっただけだ、と言ったら?」

 いよいよ顔を赤くした彼女を見て、そろそろ悪戯はこの辺にしておこうかと思い至る。男は視線を書類に戻して、ふっと息を吐きながら小さく笑った。

「お前が本当にそれで後悔しないなら私は何も言いませんがね? ただお前はもう少し、お前の価値を正しく見積もれるようになった方がいい」
「と……いうと?」
「ポケモンリーグにとって、お前のような強くて立場にも箔のあるトレーナーは、喉から手が出るほど欲しい存在だということです。しかも四番手、チャンピオンへの最終防衛ラインだ。お前を逃せば、きっと向こう数年、イッシュリーグの格は大きく下がるでしょうね」

 それは言い過ぎでは、と言うように、海の両目が訝し気に細められる。目を細めただけで口に出さなかったのは、そこを謙遜することが男の審美眼にいちゃもんを付けることと同義になると分かっているからだろう。
 男ほど、彼女の本気を知る人間はいないはずだ。もう6年も前の話にはなるが、あのジャイアントホールでのポケモンバトルは、文字通り、命を取り合う戦いだったのだから。
 少女は殺されかけようとしていた。男は生きる意味を奪われようとしていた。死闘の結果、命を繋いだのは少女だ。命の取り合いを制したのは、彼女だった。

 あのバトルの記憶が濃すぎたせいだろう、男の中での最強は、あれ以来ずっとこの少女だ。それは手痛い敗北を叩きつけられた男の、主観の入りすぎたものだと心得ていたつもりだった。しかし6年が経った今でもポケモンリーグからこうして声が掛かることを踏まえると……彼女のバトルの実力は衰えるどころか、益々上がっている、と見ていいのだろう。

「ああもしかして、今お前が抱えている、ポケウッドやジョインアベニューの経営、ここでの業務、その他諸々……これらが四天王を担当することで疎かになるのではと考えている?」
「正直、一番の理由はそこです。今でさえ、いろんな方の力を借りてなんとか回している状態なのに」
「なるほど、毎日のようにポケモンリーグへ顔を出さなければいけないと思っているのか。四番手に置かれたお前の出番なんて、どうせ月に一度か二度あれば良い方だというのに」
「え、そんなに少ないんですか!?」
「リーグ挑戦者のほとんどは一戦目で負けを叩きつけられるものですよ。十年以上リーグの地下で息をひそめて暮らしていたプラズマ団を代表して証言します。間違いない」
「っふふ……急にそんな面白い話を混ぜないでくださいよ」

 唐突な冗談に肩を震わせながらも、四天王を引き受けることによる負担が思った以上に少なそうであることに安心したのか、彼女の表情が一気に柔らかくなった。

「それでも今やっていることとの両立に不安を覚えるようなら、無理なくやれるように、お前からポケモンリーグへ色々と配慮を要求してみては?」
「いやそれは流石に、厚かましすぎませんか?」
「なに、18歳なんて我々からしたらまだひよっこです。堂々と厚顔でいればいい。使えるものはすべて使って、欲しいものはすべて求めて、お前がやりたいように世界を作り変えてしまえ」

 彼女が息を飲んだのが分かった。男は6年前を思い出させるような尊大な顔つきをわざと作って、再度彼女の方を真っすぐに見て、告げた。

「私は、お前がその野望のままに羽ばたく様を見ていたい」

 6年前の彼女が長く長く伸ばしていた髪は、翼のようにはためいていた。すっかり短くなった今の髪は翼にはなり得ないが、それでも彼女の翼は6年前よりずっと、ずっと大きくなった。

「全力でやれるポケモンバトルが好きなんでしょう」
「……はい、好きです。大好きです」
「その舞台を、忙しさを理由に切り捨てるのは、あまりに惜しいことだとは思わないか」

 その羽ばたきを特等席で見られるというのは随分と気分がいいものだ。その娯楽を享受し続けるためなら、彼女のため、これからも大抵のことはやってみせよう。

「もし……ポケモンリーグでのお話合いが上手くいったら、その時は」
「もちろん。お前の好きにしなさい」
「あ、そうじゃなくて」

 彼女の背中を押すための二つ返事だったのだが、男の意に反して彼女からは否定の言葉が返ってきた。どういうつもりだろう、と眉をひそめた男に、彼女は悪戯っぽく笑いながら告げる。

「私がこれを着ているところを見に来てくれますか?」
「は?」
「それとも、もう今のゲーチスさんじゃ、私のところまで来られない?」

 海の両目をすっと細めて挑発的に笑っている。そこには、貰ったスーツを最高の場所で披露したいという健気な心地など微塵も存在しない。ただただ熱いポケモンバトルを求める強者のそれだ。相手の闘志に火をくべるためには、もう行儀の良い言葉など選んでいられない、ということなのだろう。
 まあ……売り言葉に買い言葉でこの海がより高く羽ばたけるのなら安いものだ。

「愚かなことだ。このゲーチスの力量を見誤るとは」
「じゃあ来てくれるんですね!」
「いいだろう、私を呼んだことを後悔させてやる」
「はい! 是非! 私待ってますから!」

 四天王を三人打ち負かした先で待つ、深海を映したようなネイビーブルーのスーツを着こなす彼女。きっと最高にヒリつくバトルになる。それこそ、命を取り合うようなあの日の衝撃を呆気なく塗り替えてしまうような。
 どうせ挑むのなら、あの日のリベンジさえ果たして、イッシュの新チャンピオンにもお目通り願いたいものだ。

「でもこの、どう頑張っても私が着られないスーツはどうしましょう?」
「ああそれはお前を怯ませるためのレンタル品なので明日返却します」
「レンタル!? 本当にただふざけたかっただけってことですか!?」
「ああ実に残念だ。袖も通せなくなっていたとは」

 くつくつと笑いながら、ゲーチスは半ば小突くようにして、彼女の頭に左手をのせる。

「いい顔の大人になれたじゃありませんか」

2025.9.19
(10年以上、ずっと彼等を覚えていてくださった貴方に、応援の気持ちを込めて)

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