勢いよく彼の腕を引っ張ったせいでバランスを崩した私は、ゲーチスさんもろとも浅瀬に倒れ込む。
水を飲んでむせる。塩辛さに喉が焼ける。上半身を起こしかけた彼の胸倉を掴み、再び浅瀬に勢いよく押し倒した。
長身の彼が、背の低い私の力で呆気なく倒れてしまうことに私は一瞬だけ恐怖したが、しかしそれよりも怒りが勝っていた。
左手で胸倉を掴み、右手で彼の顔を盛大に平手打ちした。グーにすればよかったのかもしれない。
手加減などしてやるものか。もう一度お見舞いしようと振りかぶって、しかし狙いが定まらない。
視界が、揺れる。
「……」
「勝手に死のうとしないでください……!」
彼の頬に雨が降る。
それは浅瀬に勢いよく転んだ私の髪から滴る海水なのか、それとも、もっと別の雨だろうか。
私は訳の分からないままに叫んでいた。呆気に取られるゲーチスさんを置き去りにするくらいの勢いでまくし立てた。止まらなかった。
このやるせない気持ちは何処から来るのだろう。私は何が許せないのだろう。どうして泣いているのだろう。
「許しません、絶対に許してあげない。ゲーチスさん、貴方はまだ死んじゃいけない。死なせてなんかあげない!」
「……シア」
「貴方は生きるんです! どんなに多くの人の手を煩わせても、どんなに生きることが苦しくても!」
生きてください。それは懇願だった。
そこに辿り着くまでの過程はどのようなものだったのだろう。
会わないといけない。そうしないと私は前に進めない。そう思ったのが始まりだった。
私は私が振りかざした正義の責任を取らなければならなかった。
誰かが必ず苦しまなければならないようになっている、この理不尽な世界に甘んじることがどうしてもできなかった。
その世界を覆したかったけれど、私にその力はなかった。だからこそ、自分が奪ったものに対する責任くらいは自分で取らなければならなかった。
私が何もかもを奪ってしまった彼を、どうしても死なせなくなかった。
私は結果的に彼の居場所と心を奪ってしまったけれど、取り返しのつかないことをしてしまったけれど、
今まさに失おうとしている彼の命なら、私が繋ぎ止めることができるかもしれないと、傲慢にもそんなことを思っていたのだ。
そして、死んでほしくないと思う反面、彼はまだ死んではいけないとも思う。
私は彼を許せない。イッシュを危険に陥れ、Nさんを道具のように利用し、私を殺そうとした彼のことを、許せない、許せるはずがない。
彼が世界にしたこと、その重いものを放り投げて一人死ぬなんて許さない。
ポケモン達との未来を望んだ私にこのような感情が浮かび上がったのは必然だったように思う。
これは、私が振りかざした正義に対する責任を取ることであると同時に、彼に責任を取らせるための一歩を踏むことでもあったのだ。
このまま逃げるなんて許さない。彼はまだ、死んではいけない。この恐ろしくて悲しい人を、悲しいままで終わらせてはいけない。
慈悲だなんて傲慢で綺麗なものではない。利己的で片付けられる程の浅さではない。
これらの言葉を総括して表せる言葉は何処にあるのだろう。
「ゲーチスさん、貴方が統べようとした世界を見捨てないでください。その世界で生きる人達を見限らないでください」
「……何故?」
「分からないですよ。私にだって分からないです。でも私は貴方に死んでほしくない。
貴方は生きるんです。誰を踏み台にしてもいい。私でもいい。生きてください」
理屈ではない。もっと別の拙くて鋭い何かが悲鳴をあげている。
積み重ねた建前は本音になった。吐き続けた嘘は真実になった。境界はあやふやになって、自分でも訳が分からなくなった。
理論では説明がつかない。だからこそ私は、自分の中に湧き上がるこの感情を信じたい。
「貴方が何をしたのかを覚えていない程、私は馬鹿な訳じゃありません。許さないです。許してなんかあげない」
湧き出る言葉を頭の中で反芻することなくそのまま吐き出す。
彼の紅い目が揺れている。
「それでも私は、貴方を一人にしたくない! 傍に在りたい!」
吐き出した言葉がコトンと音を立てて落ちる。
ああ、そうか。そうだったんだ。分かってしまえば実にありふれた理由だった。たったそれだけで言い表せてしまえる程の拙い動機だった。
私はこの人の傍に在りたかったのだ。この人との時間を重ねていたかったのだ。
そうすることで、何かが変わるはずだと信じていたのではなかったか。だからこそ私は、あの日の恐怖に嘘を吐き続けて、彼の元へ通ったのではなかったか。
私はこの人から、その悲しさを奪い取りたいと思ったのではなかったか。
「……」
小さく吐かれた溜め息は、私の下にいる彼のものだった。
瞬間、胸倉を掴まれる。あまりに突然で素早いその動作に息が詰まる。
初めて出会った時を思い出させるような気迫に、一瞬で血の気が引いた。射るようなその赤い目は私を映していた。
「なんと傲慢なことだ、お前ごときが私の踏み台になれると本気で思っているのか」
しかしその言葉は、あの日の恐怖に重ねるにはあまりにも柔らかな音で紡がれたのだ。
だから私は、頷くことにした。
「ゲーチスさん、貴方がその命を捨てるのなら、私が奪います。だから私を利用してください。私を使って、生きてください」
私はその目を、しっかりと見据えた。
すると彼は思いもよらない言葉を紡ぐ。
「先程の馬鹿げた台詞を、もう一度聞かせなさい」
時が止まったような気がした。
それはいつもの、皮肉が混ぜられた彼の言葉であるはずだったが、しかし今までとは明らかに違った。
それは彼の懇願だった。私が彼に生きてくださいと願ったそれと、同じ質量を持つものでは決してない。
けれどそれは彼の小さな、初めての懇願だった。
そして傲慢な私は、彼の指している言葉を正確に、忠実に選び取る。
「貴方を一人にしたくない。貴方の傍に、在りたい」
彼はしばらくの沈黙の後で、小さく紡いだ。
「私の踏み台には些か小さいが、お前で手を打ちましょう」
「!」
「……愚かなことだ」
最後の言葉が意味するところに、私は気付けずにいた。
私の行動は彼の言うように愚かなのだろうか。私の行動はやはり愚行以上のものにはなり得なかったのだろうか。
だとするならば、そんな愚かな私の手を、どうして彼は取ってくれたのだろう?どうしてそんな愚かな私を踏み台にすると、僅かに笑って紡いでくれたのだろう。
分からなかった。私はこの人を理解できない。しかしそれでいい気がした。今は、これくらいでいいのだと思えた。
浅瀬は引き潮になり、砂浜となっていた。私は立ち上がり、ゲーチスさんに手を伸ばす。
彼は左手を伸ばそうとして、しかしその手が宙を切る。
激しく咳き込み始めた彼に血の気が引く。私はその冷たい身体を抱き起そうと努めた。
怖い、と思った。私はまだ、無力な子供のままだ。私は何も変えられていない。何もかもを奪った彼に、まだ何も返せていない。
冷たい太陽が顔を出そうとしていた。
2012.11.27
2014.12.14(修正)