12月1日。おそらくこの船に乗っている全ての人間にとっての「特別な日」だ。
「乾杯の音頭はどうする?」
「そりゃあ、今回のために一番走り回ってくれた奴がすべきだろうよ。なあ、シア」
そんな声が団員の中から上がり、おそらくこの中で最も背の低い女の子が食堂の奥へと押されて来る。
その手をぐいと掴み「ほら、行ってらっしゃい」と声を掛ければ、彼女は恥ずかしいのか頬を赤らめ、肩を竦めた。
13歳の彼女のグラスの中身は、当たり前だが、サイコソーダだ。
大人が殆どを占めるこの組織において、アルコールの入っていないこの飲み物をグラスに注いでいるという、ただそれだけのことが彼女の異質さを際立たせていた。
そう、このお酒も飲むことのできないような少女が、その背の低さから10歳程度に勘違いされてもおかしくないような少女が、これだけの人数をこの場に集わせたのだ。
しかしそんな少女がいきなり「乾杯の音頭を取る」ことを強いられても、そうそう上手い文句を思い付く筈もなく、「えっと……」と有り体な言葉を紡ぎ、悩むように首を捻った。
「本日をもってプラズマ団は正式に再興し、一企業の形へと変わります。仮の形として、組織の代表はしばらくの間、私が名乗ることになりました。
今は名前だけの状態ですが、不服があればいつでも仰ってください。皆さんの信頼に足るよう、できる限りのことをします」
言葉を慎重に選びながら、彼女は年相応の声音で、少し不安気にそれらを紡ぐ。
そんな彼女の言葉に私は吹き出しそうになった。……不服があれば、なんて、この少女は食堂の皆の顔をちゃんと見ていないのかしら。
プラズマ団再興のために文字通りその身を捧げた彼女を、誰よりも幼い体で誰よりも必死に走り回っていた彼女を、誰が一体「相応しくない」などと言うだろう。
手伝いしかしていない私が見ても解ることなのに、緊張に飲まれかけているシアは彼等の表情を読むことができずにいるらしい。
しかしそんな彼女も、団員達のからかうようなブーイングでようやく気付いたようで、赤らんだ頬を更に赤く染めて困ったように笑った。
「プラズマ団は皆さんで造り上げた組織です。皆さんの居場所です。この場所を守るために、これからもどうか、力を貸してください。……か、乾杯!」
やや上擦った声で発せられた乾杯の音頭の直後、あちこちでグラスのぶつかる音が聞こえた。
ほっとしたように大きな溜め息を吐いてこちらへと駆け寄ってきたシアに「上出来よ」と告げれば「証言台に立った時と同じくらい緊張しました」と返ってきた。
……まったく、何処の世界にこれだけ多くの団員を統べる13歳がいるというのか。
「ほら、早くあいつ等のところに行ってきなさい。シアを待っているわよ」
そう言って、その華奢な背中をゲーチスとアクロマが座っているテーブルへと送り出す。
アクロマの向かいに座ったシアは、早速彼と話を始めた。その隣でゲーチスが静かにお酒を飲んでいる。白ワインとは、なかなかに洒落た趣味だ。
私は視線を手元に落とし、缶のカクテルを開ける。向かいに座ったNが「キミは未成年だろう?」と苦笑したけれど、思わぬ方向から助け舟が入った。
「まあいいじゃないですかN様。トウコも今まで頑張って来たんだ。今日くらい大目に見てやってください」
そう言ってNの背中を叩くのは、私がヒウンシティの路地裏で知り合った男性だ。
専ら、住む場所を失くした団員達の元を訪れる役割だった私は、ここ1、2か月で彼等と親しくなっていたのだ。
おかげで私の周りにはそうした団員達が集まっており、まるで友達のように接してくれる。彼等に敬語を遣うことなく接していた私にとって、その扱いはとても居心地がよかった。
「ゲーチス様が戻ってきてよかったなあ。シアもこれで少し楽になるんじゃないか?」
「しかし俺達ならともかく、ゲーチス様が13歳の子供にそう易々と従うか? シアは1年前、ゲーチス様の計画を潰した張本人だぞ」
「あれ、あんた達、まだそんなことを気にしていたの?」
そんな彼等の会話がおかしくて、私は思わず口を挟んでいた。
口当たりのいいカクテルを一気に半分ほど飲んだからか、頭がふわふわする。ああ、これがアルコールの力かと思いながら、私はこの気分の良さに乗じて口を開いた。
「だってあのゲーチスが、プラズマ団もNもポケモンも、道具みたいに扱っていた奴が、たった一人の女の子のためにその身を警察に投じたのよ?
今のゲーチスなんて、所詮はその程度。あいつもただの人間だったってこと」
「え、……ゲーチス様の出頭って、シアのためだったのか!?」
彼もお酒が入っているのか、驚いたような大声でそんなことを言った。
どうやら、かなりの音量だったらしく、食堂にいる殆どの視線が私達のテーブルに集まる。異様なまでに静まり返った空間の中で、しかし私は臆することなく口を開いた。
「あれ、言っていなかったかしら?」と肯定の返事をすれば、周りはざわめく。シアは、ゲーチスは、どんな顔をしているのだろう。見ることはできなかった。
「ゲーチスはもう自分の都合のいいように人を使えない。裏切ることも、騙すこともできない。そういう呪いを彼はシアにかけられたの。
イッシュを統べようとしたあの男は、たった13歳の女の子に絆されたのよ。だから安心していいわ。ゲーチスがあんた達を裏切ることは、二度とない」
それでもゲーチスを許せないのなら、あのすました顔にピザでも投げつけてみる?
そう付け足せば、その団員は「そうか、そうだったのか!」と高らかに笑ってみせた。その笑い声は食堂中に広がっていく。私はアルコールの回った頭で彼等を見渡した。
驚愕と安堵、愉悦と歓喜、そんな感情が人々のざわめきに乗り、この空間を飛び交っていた。
その中で誰よりも楽しそうなアクロマが、ゲーチスのワイングラスに白ワインを注ぐ。それを渋い顔で受け取ったゲーチスは、しかし否定することなくグラスに口を付けた。
私は息を飲んだ。もう私には、あの男を憎むだけの理由など何も残されてはいないのだと気付き、おかしくなって笑った。
ゲーチス様はシアに頭が上がらないらしい、とか、シアはゲーチス様さえも手駒にしたのか、とか、つまり恋仲ってことなのか、とか、
合っていることも間違っていることも混ぜこぜになって、食堂という空間に一気に放たれてしまった。
詳しく話を聞こうと、シアとゲーチスの周りには人が集まり始めていた。
狼狽えるシアと、沈黙を貫くゲーチスの対比を観察していると、Nが呆れたようにこちらを見て笑う。
「皆の不安を取り除いてあげたいのなら、素直にそう言えばいいじゃないか。どうしてキミはゲーチスを挑発するような物言いを敢えてするのかな」
「だって、単純にあいつの後ろ盾になるなんて、つまらないじゃない」
そう言って、私はチーズサンドに口を付ける。Nも本気で私を咎めるつもりは微塵もないらしく、私が一言そう返せば彼はそれ以上の叱責を止めた。
「美味しいね」と零しながら私と同じチーズサンドを食べるNに、私は少し前から考えていたことを話してみることにした。
「私、此処で働こうと思うの」
「……へえ、奇遇だね。ボクもそう思っていたよ。でも、ボクは元々プラズマ団にいたからいいとして、キミはそれでいいのかい?」
「ええ、だって私はとくにやりたいこともなりたいものも思い付かないんだもの。それなら此処でシアやNの手伝いをするのもいいかなと思って」
私はもう17歳だ。いずれはあのカノコの家を出て、独り立ちしなければいけない。
Nの世話役という名目でずっと家に引きこもっていたけれど、その生活もそろそろ終わりにすべきだ。
何より、私より4歳も年下の少女が、私の何倍もの労力を費やして、プラズマ団のために走り回っているのだ。
その隣で何もせずにそれを見ていられる程、私の矜持は薄っぺらいものではない。
働く場所は正直、何処でもよかった。見知った顔の多いこの場所でなら、それなりに楽しくやれるのではないかと思った。それだけのことだ。
けれどNはそんな私の揚げ足を取る。
「嫌いなイッシュで、嫌いなプラズマ団に属して、嫌いなゲーチスの下で働くのかい?」
「あはは、そうよ。私は大嫌いな奴等と一緒に働くの。悪くないでしょう? ……それに、此処でなら何だってできる」
何だってできる、などという夢のような言葉は、しかしこの一言に限っては真実だった。
ジョインアベニューに建設された店舗の数はもうすぐ片手で数えきれない程になる。居住空間でもあるこの船の中にも、あらゆる技術力を持った人間が必要とされている。
文字通り、この場所でなら、やろうと思えばなんだってできるのだ。まだ始まったばかりであるこの組織は、しかし計り知れない程の可能性を秘めているのだと確信できた。
だってシアの、たった13歳の立てた夢物語がこうして現実になったのだから。私達はそうした組織の実現のために、こうしてあくせく走り回っていたのだから。
「そうだ、トウヤも此処へ引きずって来ましょうか。あいつ、コンピュータの扱いに長けているから、割と役に立つんじゃないかしら。外には出たがらないでしょうけれどね」
「ああ、それもいいね。楽しそうだ」
私のそんな提案にすら、Nは笑顔で相槌を打つ。彼もアルコールに当てられてしまったのだろうか。
その目がとても楽しそうな色を含んでいたので、少しだけ怪訝に思い「どうしたのよ」と尋ねれば、彼は私の手に握られていたカクテルを指差し、今日一番の笑顔で笑った。
「キミは酔ったつもりでいるのかもしれないけれど、それ、ノンアルコールカクテルだよ」
「……は!?」
「随分前にアギルダーを連れたダークがやって来て、すり替えていったよ。気付いていなかったんだね」
その言葉に私は慌てて缶の表示に視線を落とす。色も名前も似ているが、確かにそこには「アルコール0%」の文字があった。
つまり私は、アルコール飲料など全く飲んでいないにもかかわらず、それをお酒だと信じ込み、酔っていた気になっていたということだ。こんな恥ずかしいことがあるだろうか。
……ダークトリニティが単独で私にちょっかいを出すようなことをする筈がない。誰の差し金かは言うまでもないだろう。
多くのプラズマ団員に囲まれているゲーチスを睨み付ければ、「やっと気付いたのですか」とでも言わんばかりの皮肉めいた笑みがこちらへと向けられる。
……やられた!
2015.8.26