コトネさんは「シア、アクロマさんを研究所まで送ってあげたら?」と言って、そっと私達を送り出してくれた。
私達は顔を見合わせて、どちらからともなく笑った。何故だかは解らないけれど、心のままに任せるとそうなったのだ。
「少し、海の傍を歩きましょうか」
彼はそう言って私の手を引いた。私は頷き、彼の隣に並んで歩きだした。
もう沈みかけていた日が最後に一際大きな輝きを見せ、地面に私と彼との影を落とした。背の高い彼と、背の低い私の影は、その差をさらに伸ばして地面を黒く染めていた。
この一年半で、私の背は少しだけ伸びたけれど、それでも13歳の平均身長には程遠い。まるで親子のようなその身長差に私は少しだけ恥ずかしくなった。
繋がれた手の影は、二人の間に小さな橋を架けていた。
「こうして繋いだ手を影として見ると、吊り橋が伸びているようですね」
私の思ったことをそのまま代弁したような彼の言葉に私は息を飲んだ。その瞬間、彼のあの言葉を思い出していた。
『では、きっとわたし達は似ているのですね。ですからこう考えてください。貴方がわたしを思っているのと同じように、わたしも貴方を思っているのだと』
私達はとてもよく似ていた。私は彼のその言葉を、もう一年半も前に紡がれたその言葉を、ずっと大事に持っていたのだ。
その言葉は、一年半という、彼と過ごしてきた長い年月を経て真実になった。
私と彼は、驚く程に似ている。
「一度、貴方と二人で海に来たいと思っていたんです」
数日前と全く同じ言葉に、私は目を見開いた。
彼は確かに、私が記憶を失っていた時にそんな言葉を私にくれたけれど、全てを思い出した私の前でも同じようにその言葉を紡いだことに驚いてしまったのだ。
「本当に、そんなことを思っていてくれたんですか?」
「……おや、シアさん、貴方は肝心なところを忘れているようだ」
彼は私の手を握っていない方の指を立てて、少しだけ得意気に笑った。その仕草に私は思わず見入った。
それは彼が私の質問に答えてくれる時に、たまに見せてくれる仕草だった。私はそれを覚えている。
「わたしが吐いた嘘は一つだけです。貴方に偽りの言葉を告げたことは、あの嘘以降、ただの一つもありません」
「あ……」
「それに、わたしのことを貴方が忘れていたとしても、貴方は何も変わらない、貴方のままでした。あの頃と同じように、私に嘘を吐かず、どこまでも誠実で勤勉で、正直でした。
だからわたしも、同じようにそれに応えた。それだけのことだったのですよ」
その言葉で私は、ここ数日の彼との遣り取りを思い出す。思い出して、それを一年半前のあの春の日々と重ねた。
全く同じだったのだ。私の心の遍歴も、彼に抱いた感情も、私が科学に示した興味も、全て、全て同じだった。彼の名前を除けば、何も異なっていたところなどなかった。
私達は失われた一年半を、もう一度繰り返していたに過ぎなかったのだ。
私は思わず、彼の手を握る手に僅かに力を込めた。彼はそれに気付いてくれた。
どうしました?と尋ねてくれる彼を私は見上げた。彼の太陽の目には、その私が映っていた。
「私、「忘れている」方の私でも、アクロマさんのことは信じられました。この人は嘘を吐かないと解っていました。貴方が優しい人だと思っていました。
それは、「覚えている」方の私がずっと思っていたことと全く同じでした」
私は真っ直ぐに彼の目を見上げた。どうしても、これだけは尋ねておきたかったのだ。
それが何を意味するのかは、今の私には解らなかった。けれどどうしても知りたかった。この不思議な現象の正体に、辿り着いておきたかったのだ。
「それは、私が全てを思い出せるようにと、アクロマさんが手引きしてくれた感情ですか? それとも、全くの偶然ですか?」
その言葉に彼はふたつの太陽を見開いた。
日が沈み、私達の間に架かっていた吊り橋も消えてしまったけれど、私達は手を離さない。
彼は長い沈黙の後で、困ったように肩を竦めて笑った。
「シアさん、わたしは不器用な人間です。この理不尽な世界で上手く生きられなかった人間です。
そんなわたしが、人の心の向かう場所を自在に操れるだなんて、買い被りもいいところだとは思いませんか?」
ぱちん、と何かが弾けるような音がした。
足を止め、完全に動かなくなってしまった私の手を、彼は優しく握り返して笑った。私は、どうしても笑うことができなかった。
その「正体」に辿り着こうとしたけれど、結論はもう直ぐそこまでやって来ているのだけれど、私の頭はそれを上手く形にしてはくれなかった。
「ありがとう。貴方はわたしを二度も慕ってくれたんですね」
私は「忘れている」間に、「覚えていた」時と全く同じ過程を踏んで、この人と関わっていた。
大人が嫌いで、理不尽な世界を敵視していた私は、彼に出会って信頼と主体性と自尊心を取り戻した。
それは一年半前の春に起こった出来事であると同時に、つい数日前に起きた出来事でもあったのだ。一年半も前に揺れていた心が、数日前も、全く同じように揺れ動いていた。
思い当たることは幾つもあって、私はその全てを、一年半前の記憶と繋いで回想することができるようになっていた。
全ての記憶が私の中に戻って来たのだ。もう私は躊躇わない。
本が好きだと言う私に、彼は「日常から見る物理と化学、中級編」という本を渡してくれた。その本に覚えがあって当然だったのだ。
何故ならそれは私が一年半前の春に、彼から同じタイトルの「初級編」を譲り受けていたからだ。
彼はあの時と同じように、私に本を差し出してくれた。一気に開けた世界に眩暈がするような感覚を、私は同じように味わっていたのだ。
それに、誠実な彼は、私に「嘘を吐いている」と告白してくれた。その苦しそうな告白には覚えがあった。
「人間を信用していない」と紡いだ、あの時の彼の声音と同じ温度をしていたからだ。そこには私への躊躇いと覚悟が含まれていた。
彼はどこまでも正直で、誠実だった。それは一年半前も、今も、変わらない。
対等な立場から交わされる言葉の尊さに、私の心臓が大きく揺れたことも、
真実を隠し、嘘を重ね続けた彼等に対して疑心暗鬼になっていた私が、最後にもう一度だけ、人を信じてみようと思えたことも、
私に沢山の事を教えてくれる、この優しくて誠実な人に相応しくなりたいと心から願ったことも、
全て、全て、数日前に経験したことで、けれど一年半前にも全く同じように経験していたことだった。
私は二度も、この人を大切に思うことができた。
「私は、……「忘れていた」方の私も貴方を慕っていました。それに、「覚えている」方の今の私だって、同じように貴方のことが好きです。
だから貴方の名前が貴方の嘘で塗り替えられたとしても、その心が変わってしまう筈がなかったんですよ」
「……シアさん」
「だって、私もアクロマさんも、私達の時間も、変わらずに此処にあったじゃないですか」
そう、私達が再びこの時間を愛するには、ただ私達が出会うだけでよかったのだ。
私はそう言って、彼のように得意気に笑おうとしたのだけれど、できなかった。
日は暮れて、辺りは薄暗かった。だからもう、いいんじゃないかな。みっともなく泣いたっていいんじゃないかな。
此処には私と彼しかいない。そして彼は、私の涙を咎めない。嗚咽は、きっと波の音が消してくれる。
もう息は苦しくなかったけれど、彼は私の肩をそっとあやすように抱いてくれた。私は彼に縋り付き、声をあげて泣いた。
一年半前、出会った時には素直に彼の白衣に縋ることができなかった。あの雷の音さえなければ、私が彼に縋ることはきっと永遠になかった。
けれど今は違う。私はこの人と、愛しいと表現するに足る時間を重ねている。全ての記憶も私の中にある。もう私は躊躇わない。
「シアさん、おかえりなさい」
彼は同じ言葉をもう一度紡いだ。あの時は声にならなかったけれど、今ならみっともない泣き顔を暗闇に隠して紡げる気がした。
「ただいま」
2015.2.23
Thank yon for reading their story!