驚くべきことが起こった。
泣いているのはゲーチスさんの方であった筈なのに、何故か私の涙が止まらなくなってしまったのだ。
嗚咽を噛み殺すように涙を海へと落としていた彼は、私のみっともない嗚咽を拾い上げてしまったらしい。はっとしたように顔を上げて、私の顔をそっと覗き込んだ。
彼の金色の目が少しだけ腫れていた。その目が驚きに見開かれていた。ぐらりと視界が涙の膜で揺れた。
ああ、彼の目は太陽のような色をしている。
「ごめんなさい」
何をしているのだろう。私は益々恥ずかしくなって、けれどどうしても止まらなかった。
彼がどうして泣いているのか、全く解らない。私は彼のことを、こんなにも優しい彼のことを、何も知らない。
歯痒い、悔しい、苦しい。
「私、何も、解らないんです。貴方のことを、何も、何も知らない……!」
「シアさん」
「ごめんなさい、私が、悪いんです。私が、何も思い出せないから、私が、貴方を忘れてしまったから、だから、」
私の嗚咽は止まるどころか、益々酷くなっていた。涙の主導権を彼から奪ってしまった自分が恥ずかしくて、早く泣き止まなければ、と私は慌てて息を吸おうとした。
けれど、上手くできない。この数日間の「思い出せない」ことへの悔しさは、徐々に私の心を圧迫し、締め上げていたらしい。
取り払われた蓋の隙間から溢れだした悔しさと苦しさは限界に達していた。どうしても止めることができなかった。
でも、それなら一体、どうすればよかったというのだろう?
だって、誰も真実を教えてくれないのだ。トウコ先輩は、全てを話してはくれない。ジュペッタのダークさんの言葉は、此処に在る手紙の事実と噛み合わない。
では、拠り所とする記憶を持たない私は、誰の言葉を真実とすればいいのだろう。私は一体、誰を信じればいいのだろう。
誰も、私が最も知りたいことを、何も教えてくれない。だからその真実は、私だけで見つけなければいけないのだ。
そしてそれは私の記憶の中にある筈なのに、私はそれをどうしても思い出すことができない。どうしても、思い出せない。
私はどうすればいいの?私に何ができるっていうの?
私は最低な人間だ。こんなにも優しい人を泣かせて、こんなにも優しい人の前で、みっともなく泣いている。
私は自分を責めながら、嗚咽の合間に息を吸い続けた。ひゅう、という自分の頼りない嗚咽が耳にこびりついて、離れない。息が上手くできない。胸が痛い。
早く、早く泣き止んで。早く。お願い。もうやめて。
「……っ、」
「シアさん、それ以上吸わないで!」
瞬間、私の口が塞がれた。かなり強い力で、彼の白い手が私の口に押し当てられていた。
驚きと息苦しさとに私は焦り、慌ててその手から逃れようとしたけれど、できなかった。ぐらりと揺れる視界は、きっと涙のせいではないのだろう。
立っていられなくなって、私は膝を折った。そのまま浅い波に沈む筈だった私の体を、しかし彼はそっと支えて抱き上げた。
またしても焦って息を吸い始めた私に、彼は落ち着いた声音で言い聞かせるようにその言葉を紡いだ。
心臓を握られているような痛みが徐々に大きくなっていった。あまりのことに頭が追い付かず、私は恐怖でパニックになっていたのだろう。
痛い、苦しい。
「落ち着いてください。ゆっくり息を吐いて」
「いた、痛い……」
「大丈夫ですよ。息を吸い過ぎないで。ゆっくり吸って、吐いてください」
彼の靴が波を蹴って進む音が聞こえた。やがてその音が消えた頃、彼は私をそっと浜辺へと下ろした。
力が抜けて倒れようとした私の背中を、彼は右腕で支えた。全身が大きく震えたようになっていた私の肩が、その右腕にそっと抱かれた。
それから彼はポケットから青いハンカチを取り出し、私の口元へそっと添えた。
何故だかは解らないが、このようになった時には口を塞いだ方がいいらしい。だから先程も、彼は自分の手で私の口を塞いだのだ。
私はそのハンカチを自分で持ち、口へと押し当てた。その間も、ぼろぼろと涙が溢れて止まらなかった。苦しい、……くやしい。
「大丈夫ですよ。わたしは此処にいますから」
『大丈夫ですよ』
その言葉は私を安心させた。あれは確かにこの人の言葉だったのだ。私はいつか、彼の前でこうして泣いていて、彼はそんな私の頭をあやすように撫でてそっと微笑んだのだ。
あれは、いつのことだったのだろう。本当にそれは、この人の記憶なのだろうか。
けれどこのテノールを聞き間違える筈がなかった。この柔らかなテノールは間違いなく、目の前で真剣な表情をしている彼のものだった。
「……」
私は、この人を知っている。知っているのに、思い出せない。こんなにも優しくて悲しい笑顔を浮かべる人のことを、私は思い出すことができない。
その上、唯一思い出せたのが、この優しい人の首を絞めた記憶だなんて。
ゲーチスさん、と呼ぼうとして、私はその言葉を飲み込んだ。彼に「呼ばないで」と拒絶されたその言葉は、まだ鮮明に私の脳裏で響いていた。
代わりに出てきたのはやはり「ごめんなさい」という、嗚咽混じりの謝罪だった。いつの間にか、ちゃんとした言葉を紡げるようになっていた。
心臓を握り締められるような痛みも弱まり始めていた。私はそのことにひどく安堵した。
「……よかった、落ち着いてきましたね」
「ごめんなさい……」
「まだ喋らないで。少し、静かにしていましょうか。……一緒に」
彼はそう言って、私の体を強く抱き締めた。
強く、強く抱き締められて、私は心から安心した。安心して、そしてやはり涙が止まらなくなった。
けれど、もうあの不思議な嗚咽が零れることはなかった。私は彼の腕の中で泣き続けた。彼は私をあやすように、左手で私の頭をそっと撫で続けた。
静かになったその空間に、波の音が寄せては返す音が響いていた。その合間に一度だけ零れた、私のものではない嗚咽を、私はきっと忘れることはないだろう。
「……さて、もう大丈夫ですね」
彼は抱き締めていた腕の力を弱めて、私の目を覗き込むようにして確認を取った。
私が小さく頷くと、彼は心から安心したように微笑んでくれた。
「過呼吸になったのは初めてですか?」
過呼吸、という知らない言葉に私が首を傾げると、彼は少しだけ考え込む素振りをした後で説明してくれた。
……この遣り取りも、私は知っている。難しい言葉を尋ねた時、「誰か」はいつだって丁寧に答えてくれた。
その「誰か」は、彼のことだったのだろうか。私はこうした遣り取りを、以前に彼と交わしていたのだろうか。
「息を吸い過ぎることによって、血液中の二酸化炭素が減ってしまう現象のことです。二酸化炭素は酸性なので、吸い過ぎによりそれが減ると血液はアルカリ性に傾いてしまいます」
「それは、いけないことなんですか?」
「ええ。人間の体内のpHは、特定の臓器を除けば7.4前後の中性に保たれています。この値から少しでもずれると、体内環境が狂ってしまいますからね。
先程、手足が痺れたり、心臓の辺りが痛くなったりはしませんでしたか?」
そう言われて初めて、先程まで胸を締め付けていた痛みが完全に消えていることに気付いた。
あれは過呼吸の症状で、私の体内のpHが変化したことにより起きたものだったのだ。
彼のそんな説明は、私の心を軽くした。
何が起こっていたのか全く解らず、パニックになっていた私にとって、その説明は先程の息苦しさと痛みに対する答えを提供してくれるものだったのだ。
「確かに、心臓を握り潰されているような感じがしました」
大袈裟ではなく、本当にそのような苦しさだったのだ。私は心の底から恐怖していた。
もう二度と息ができなくなるのではないかと、あの時は本気で思っていた。
しかし彼は私のそんな例えを一笑に付すことはしなかった。ただ悲しそうに笑って、もう一度、私の頭をそっと撫でた。
「辛い思いをさせてしまって、申し訳ありません」
その言葉に、またしても瞼の裏が火傷をしたように熱くなった。再びみっともなく頬を伝い始めた涙に、しかし彼は驚くことはしなかった。
彼は小さく肩を竦めて微笑み、白い手袋を嵌めた手で私の目元をそっと拭った。
「おや、まだ涙が残っていたようですね」
「ごめんなさい」
「謝らないで。……ではこの際だから、思いっきり泣いておきましょうか。此処にはわたしと貴方しかいませんし、わたしは貴方が泣くことを咎めたりしませんから」
彼は優しい。そして、その優しさを、私は確かに覚えている。
それを思い出せないことが悔しくて、思い出せないが故に彼を傷付けてしまった自分が許せなくて、私に傷付けられたにもかかわらずその優しさを手放さない彼が眩しくて、
その全てを抱えきれなくなって、私は取り払った蓋から溢れだした全てを噛みしめるように泣き続けた。
人ってこんなにも泣けるんだ、という程に泣いた。止まらなかった。けれどもう、私は止めようとはしなかった。彼がそれを許してくれた。
彼は私の涙が枯れるまで傍にいて、私の肩をそっと抱いていてくれた。
2015.2.21