その人物は、ワカバタウンのポケモン研究所で博士の研究の手伝いをしながら、研究所の仮眠室を借りて生活しているらしい。
私はコトネさんの家を出て、その隣にある大きな研究所に向かい、大きなドアの傍にあるインターホンを押した。
緊張していた。心臓が口から飛び出しそうだった。何故かは解らないけれど、その名前を口にしようとすると、心臓が驚く程に煩く跳ねたのだ。
まるで恐怖しているかのようなその鼓動に私は驚き、当惑した。けれど喉元で構えているその言葉を、今更飲み込む訳にはいかなかった。
「ゲーチスさんは、いますか?」
短めのシンプルな白衣を着た男性は、「ああ、ゲーチスくんだね」と笑って彼を呼んでくれた。どうやらこの人が研究所の博士らしい。
本棚の影から顔を覗かせたゲーチスさんは、私の姿を捉えると驚いたようにその目を見開き、駆け寄ってきてくれた。
「シアさん、どうしました?」
「あ……」
その瞬間、私の心臓は急に穏やかになった。先程の心臓の鼓動が嘘のように、恐怖に締め付けられていたようなその胸の痛みが一瞬にして消えたのだ。
この人の柔らかなテノールとその視線には、人を安心させる力があるのかもしれない。
私はそんな風に思い、微笑んだ。
「少し、お話がしたいんです。お仕事が終わってからで構いませんから、少しだけ、お時間を頂いてもいいですか?」
彼はその言葉にとても驚いたようで、その金色の目を丸くして沈黙した。
何故だか解らないが、その沈黙は私を不安にさせるものではなかった。この人は私の申し出を一笑に付して切り捨てるような真似はしないと信じられたのだ。
私は嘗て、この人を信じていた。私はその感情を覚えていた。
しかしそれはよく考えれば、あり得ないことだったのだ。
私は大人を信用するなんて、そんなこと、ある筈がない。私は大人が大嫌いだったのだから。
彼等がその背を屈めて私に見せる、綺麗で曇りのない世界はただのだまし絵だったのだ。
世界はそんなに綺麗なものではないことを私は知っていた。けれど大人達はそれを否定するように子供の目を塞ぎ、世界は夢の希望に満ちていると笑うのだ。
私はそんな、本当な美しくなんかない世界のことも、その世界を美しく着飾って私の前に差し出す大人のことも、嫌いだった。
嘘を重ねる大人のことなど、信じない。捻くれた私は、主体性と希望と自尊心とを失っていた。だから、大人を信頼するなど、本来ならあり得ないのだ。
大人は私のような子供との会話を疎ましがるし、私もそんな大人のことが嫌いだったのだから。
けれど、その「あり得ない」筈の信頼を、私はあろうことか、この人に抱いている。
変なの、と私は思った。
もし私がそうした「信頼」を抱くとして、誰かを信頼するに足るだけの温かな時間が、この一年半の間に含まれていたのだとして、
しかしその相手は他でもない「アクロマさん」である筈だったのだ。
子供である私と手紙のやり取りをしてくれた、あの誠実な人である彼のことなら、私はきっと信頼できただろうし、今の私だって、手紙の中の「アクロマさん」を信じている。
今、私の目の前に駆け寄ってきてくれた人は、ゲーチスさんだ。「アクロマさん」ではない。
私はこの人の情報を何一つ手に入れていないのに、どうして「信じられる」と思ったのだろう。
「ええ、構いませんよ。書類の整理が一段落したら休憩するので、それまで少し待っていてくれませんか?」
「はい、ありがとうございます」
そして私の予測通り、彼は私の懇願を切り捨てることはしなかった。
私は確かに、この人のことを信じていた。けれどそれが何故なのか、今の私には思い出すための術がなかった。
私は研究所の博士に椅子を勧められ、そこに座って研究所の様子をじっと見ていた。
イッシュ地方にも、トウコ先輩が住んでいるカノコタウンという町にポケモン研究所がある。
私はそこに何度かお邪魔したことがあったけれど、あの研究所とは雰囲気が随分と違っていた。
先ず、本が多い。背の高い本棚が、広い研究室の空間を二分していた。本棚で仕切られた奥の空間には見たこともないような機械が沢山、並んでいた。
けれど私はその、何に使うのか解らない機械よりも、ずらりと並んだ本の山に心を奪われていた。
椅子に座ったままでは、その背表紙のタイトルを見ることができない。
どんな本が置いてあるのかしら、と思いながら軽く身を乗り出していると、ゲーチスさんが小さく微笑み、白い手袋を嵌めた手で本棚を示した。
「本はお好きですか?」
「はい、とっても!」
大好きな本のことを尋ねられ、私の声は思わず上擦ってしまった。
彼は「ウツギ博士」と研究所の博士を呼んで、私が自由に研究室の中を歩く許可を貰ってくれた。
「気になった本があれば、手に取ってみてもいいそうですよ」
「ありがとうございます!」
私は弾みそうになる足を落ち着かせて、早歩きで本棚へと歩み寄った。聞いたこともない単語で構成された本の数々に、私は目を輝かせて見入っていた。
読書は大好きだ。トウコ先輩と違って一人っ子である私は専ら、大人の手を煩わせないように本を読むことが多かった。
そんな私に、母や知り合いの大人は新しい本を定期的に贈ってくれたのだ。その殆どが小説、もとい、物語だったけれど、その紙の中に書かれた世界は私を夢中にさせた。
10歳を超えると、物語以外の本も読むようになった。世界に沢山ある、仕事のこと。移り変わる季節のこと。イッシュに住んでいるポケモンのこと。
そうした、世界を読み解くための活字を目でなぞり、まだ実際には見たことがないその世界の広さに思いを馳せた。
世界が綺麗なものではないことを私は知っていて、そんな世界で強く生き抜いている先輩のことも、知っていた。
私はポケモントレーナーにはなれないけれど、それでもこの世界を強く生きていくことはできる筈だ。そう思いながら、沢山の本を読んだ。
そうして得た知識は無駄にならないと思ったし、何より知らないことを知るのが楽しかった。
勿論、10歳を超えても物語の本だって読んだ。つい最近も、母が有名な文学者の本を数冊、買ってきてくれたような気がする。
「この間は「夢十夜」という物語を読みました。時を忘れた瞬間に100年がやって来る、少し不思議なお話です」
そう告げてから、私は「しまった」と思った。
私にとっての「この間」は、周りに人にとってはもう一年半も前のことなのだ。
大量の本を目の前にして浮かれてしまい、言い換えるのを忘れていた。私は慌てて付け足す。
「ご、ごめんなさい。最近のことだと思っていましたが、よく考えたら一年半も前のことでした」
そう告げて、しかし私は沈黙する。
「ゲーチスさん……?」
彼はとても驚いていた。その手に抱えた書類が落ちてしまうのではないかという程に茫然と立ち尽くしていて、その愕然とした表情があの日の彼と重なり、私は困惑する。
私が「何処かでお会いしましたか?」とゲーチスさんに尋ねてしまったあの日、彼は今のような愕然とした表情を浮かべていた。
私はまたしても、私と関わりのあった人を傷付けてしまったことに嫌気が差した。
しかし、私がゲーチスさんを傷付けてしまったという事実は理解できても、私のどの言葉が彼に傷を負わせたのかまでは解らなかった。
それ故に私は「ごめんなさい」と謝ることしかできなかった。
「……ああ、そうでしたね。あれは春のことでしたか」
彼は小さくそう紡いだ。その意味を私が理解できずにいると、彼は両手に抱えていた書類を近くのデスクにおいて、研究室の奥へと歩いていってしまった。
直ぐに戻ってきた彼は、分厚い本を片手に持っていた。それを笑顔で差し出され、私は当惑する。本を差し出されたことにも驚いたが、問題はそのタイトルにあった。
『日常から見る物理と化学、中級編』
私はこのタイトルを、見たことがある。……何処で見たのだろう。
「本を読むのがお好きなら、これを貴方にお貸ししましょう。わたくしの仕事はもう少しかかりそうですから、暇潰しに使ってください」
「……でも、物理や科学なんて、勉強したことがありません。それに、初級編も読んでいないのに、中級なんて」
その本には『中級編』と書かれていた。つまりは『初級編』があるからこその中級編なのであって、初級編を読んでいない人間が理解できるとはとても思えなかった。
けれどゲーチスさんは私の言葉を聞いて、ほんの少しだけ悲しそうに微笑んだ後で、やや強い力で私の手にその分厚い本を持たせた。
「大丈夫ですよ。貴方なら読めますから」
私は息を飲んだ。
『大丈夫ですよ』
その音を私は覚えていた。間違いない、間違える筈がない。
柔らかなテノールでその魔法の言葉を紡ぐ人物を、私はこの人を置いて他に、知らない。
2015.2.21