忘れたなら、また覚え直せばいい。私はゲーチスさんのあの言葉を思い出していた。
私が忘れてしまった一年半の間に起こったことは、またこれから私が取り戻していけばいいのだと彼は言った。
けれど私が全てを思い出さない限り、「アクロマさん」に会えないのもまた、事実だった。
ゲーチスさんですら、あんなにも愕然とした表情を浮かべたのだ。私が慕っていた「アクロマさん」を、今の私がどれ程傷付けてしまうかということくらいは解っていた。
だからこそ、ダークさんもトウコ先輩もNさんも、「アクロマさん」のことを一言も口に出さなかったのだ。
彼等が重ねていた嘘は他でもない、私が大切に思っている「アクロマさん」への配慮だったのだ。私はそんな結論を下していた。
つまり私は、これ以上彼等に嘘を重ねさせないために、一刻も早く全てを思い出す必要があったのだ。
そう考えた私は夜中、コトネさんの部屋から出て階段を降り、リビングの明かりをそっとつけて椅子へと座った。
電話の傍にあったメモ用紙とペンを借り、私はこれまで、トウコ先輩やジュペッタのダークさんが教えてくれたことを全て書き出し、時間軸にそって並び替えてみることにした。
トウコ先輩から教えてもらったことは、大雑把に分類すればこのようになった。
去年の6月に、アララギ博士の助手であるベルさんから、ミジュマルとポケモン図鑑を貰って旅に出たこと。
ジムバッジを8つ手に入れ、ポケモンリーグのチャンピオンになったこと。この時はまだ夏で、私は旅に出てから2か月余りでチャンピオンになったということになる。
それから、ポケモンワールドトーナメントという施設で連勝を重ねたこと。これは去年の秋頃の出来事らしい。
更にここへ、ジュペッタのダークさんが教えてくれた「アクロマさん」のことを混ぜるとこのようになる。
私と「アクロマさん」は、去年の夏に出会った。私が彼の会社に不法侵入した事件がきっかけだった。
それから秋になって、「アクロマさん」は体調を崩して会社を休んだ。私は彼の家にお見舞いと称して押しかけ続けた。
最初はそんな私のことを疎ましがっていたという「アクロマさん」が、いつから私の訪問を待つようになったのか、正確な時期はダークさんも知らない。
そして現在、「アクロマさん」は回復し、今もイッシュで働いているのだという。
それから、私が断片的に思い出したこともまとめて書き記した。
眼鏡をかけたベルさんから、ミジュマルとポケモン図鑑を受け取ったこと。
最初のポケモンジムにチェレンさんがいてとても驚いたこと。なんとか彼に勝利して、綺麗な輝きを放つジムバッジを貰ったこと。
ポケウッドのスタッフにスカウトされ、訳の分からぬままに映画を撮ったこと。
きっとこれらは私が旅をしていたという、去年の夏から秋にかけての出来事だろう。
しかし私が思い出したものの中には、いつ起こったのかがよく解らない記憶も混ざっていた。
私が「誰か」とサザンドラの背中に乗って、紅茶を買いに出かけたこと。
「誰か」と喫茶店で話を交わす中で、『嘘か真実か、見抜くんだ。君が大切な人を守りたいと思うのなら』と言われたこと。
いつかの雨の日に「誰か」に傘を差し出されたこと。そこにふたつの太陽があったこと。
私はその「誰か」に縋り付き、声をあげて泣いたこと。その「誰か」が『大丈夫ですよ』と囁いてくれたこと。
その囁きを、アスファルトに足を折って泣いていた私にもかけてくれたこと。
……私が、ゲーチスさんの首を絞めたこと。
最後の記憶はできることなら信じたくはなかったのだが、貴重な私の記憶を無下にするような真似はどうしてもできなかった。
けれど、と私は思う。こんなに多くの出来事を思い出しているのに、私の記憶はその「相手」を悉く拾ってくれない。
余程思い出したくない相手なのか、それとも、人物の顔や名前を判別する脳の位置だけが麻痺しているのか。
いずれにせよ、私は自分の狡くて卑怯な頭が許せなかった。だから一刻も早く、思い出したかった。たとえ、それを望まない人間がいたとしても。
そして最後に、私の鞄に入っていた手紙とスケッチブックから拾える情報をメモ用紙に書き込んだ。
私は「アクロマさん」からロトムのタマゴを受け取っていたこと。
私は「アクロマさん」に旅の途中で何度か手紙を送り、「アクロマさん」もその手紙に返事をくれていたこと。
鞄の中に入っていた、ポケモンの生態と生息地が記された小さな本は、「アクロマさん」が1通目の手紙に同封して送ってくれたものであること。
私は送った手紙の中で、「アクロマさん」に質問をしていたこと。「アクロマさん」は2通目の手紙の中でその質問に答えてくれたこと。
しかしその質問自体を忘れてしまっている私には、「アクロマさん」のその文字が何を意味するのか解らなかったのだけれど。
私が持っている情報と記憶は、きっとこれで全てだ。
「……」
私はそれを項目ごとに小さく破り取り、テーブルの上へそれを置き始めた。
記憶がなくなっている去年の春を手前において、そこから時間軸に沿って奥へと出来事の書かれた紙を並べた。
旅に出たこと、ジムバッジを手に入れたこと、チャンピオンになったこと、ポケモンワールドトーナメントで連勝を重ねたこと。
「アクロマさん」と出会った時期を、ジュペッタのダークさんは「7月の終わり」だとした。
つまり、私がチャンピオンになった時期と、「アクロマさん」に出会った時期とが近い時間軸にある、ということになる。
私は「チャンピオンになった」ことと「アクロマさんに出会った」ことを同じ位置に並べた。
そこから更に奥へと「アクロマさんが会社を休んだ」こと、「私がアクロマさんの元へと通った」ことを並べる。
「あれ……?」
私は思わず首を捻った。手元に残された2枚の紙切れを茫然と見つめた。
そこには「アクロマさんからロトムのタマゴを受け取った」ことと、「手紙の遣り取りをしていた」ことが書かれている。
これは間違いなく、私が旅に出ている途中で起きたことだ。しかも1通目は、旅に出てから直ぐに届いたものである筈だった。
それなのに、ジュペッタのダークさんは私と「アクロマさん」の出会いを「去年の夏、7月の終わり頃」だとした。
時期が、合わない。
「……」
まさか、ジュペッタのダークさんは嘘を吐いていたのだろうか。
そんな筈はないと思いたかった。彼には嘘を吐く時に人間が見せる独特の違和感がなかった。彼はただ淡々と、真実だけを話しているように思われた。
けれど、私と「アクロマさん」の出会いが7月の終わりだとしたら、6月に旅だったばかりの私に、こんな手紙を送れる筈がないのだ。ロトムのタマゴを託せる筈がないのだ。
そもそも、「アクロマさん」は出会った当初、私のことを疎ましがっていたのだ。疎ましがっている相手に、ポケモンのタマゴを託したりするだろうか?
そうなると、次の可能性は一つしかない。
「私は、ジュペッタのダークさんが認識しているよりも前に「アクロマさん」に出会っていた」というものだ。
しかし、それはあり得なかった。もしそうなら、「アクロマさん」の会社で私が彼と出会った時、知人らしい会話をする筈だからだ。
ジュペッタのダークさんは私と「アクロマさん」の出会いを詳細に話してくれた。きっと彼はその場にいたのだ。そんな彼が私達を「初対面」だとしたのなら、それは真実なのだろう。
仮に私と「アクロマさん」がその時、すでに知人だったとして、ダークさんがそんな大切な情報を伏せて私に説明したとは考えにくいし、隠す理由がない。
では、この矛盾はどうして生まれたのだろう。
7月の終わりに初めて出会った筈の「アクロマさん」と、私はどうして、それ以前に手紙のやり取りをしていたのだろう。
手紙に刻まれた「アクロマ」の文字は、揺るぎない真実だった。つまり、私が旅を始めたころから「アクロマさん」と交流があったという事実は、動かない。
だからこそ必然的に、私はジュペッタのダークさんを疑うことになってしまう。
彼は、嘘を吐いているのだろうか。私がその違和感を見つけられなかっただけで、彼もその会話の中に嘘を混ぜていたのだろうか。
けれど、そうだとしたら。もし、ジュペッタのダークさんも嘘を吐いているのだとしたら。
私は一体、誰を信じればいいのだろう。
皆が嘘を吐き過ぎていた。
各々が重ね過ぎた嘘はいつか綻ぶ。私はその一つの綻びを偶然、見つけてしまったに過ぎない。
幾重にも積み重なった嘘の綻びを見つけることは容易い。けれどそこから真実を導き出すことは、とても難しい。
トウコ先輩は、全てを話してはくれない。ジュペッタのダークさんの言葉は、此処に在る手紙の事実と噛み合わない。
では、拠り所とする記憶を持たない私は、誰の言葉を真実とすればいいのだろう。
そして私の名前は、とある人物の名を弾き出した。
「……ゲーチスさん」
そうだ、彼なら。彼なら私の過去に起こったことを、隠すことなく話してくれるかもしれない。
『これから覚えて頂ければいいんですから』とゲーチスさんは言った。その言葉は私の心を軽くするためのものであると同時に、彼の「過去」に対する執着の薄さを示していた。
彼はきっと、私の過去に拘らない。知っていることだけを、真実だけを話してくれるかもしれない。私はそんな期待を抱き始めていた。
けれど、私は彼を完全に信頼することができなかった。それは勿論、私がゲーチスさんの首を絞めたという揺るぎない記憶のせいだった。
あの柔らかな笑顔で私を許す言葉を紡いだ優しい姿が、ゲーチスさんの全てではないかもしれない。
私は少しだけ、警戒していた。だからこそ、ゲーチスさんのことをよく知る必要があると思ったのだ。
テーブルに並べたメモ用紙を集め、ゴミ箱に捨てる前に小さく破いた。
私の字で書かれた「アクロマさん」の文字をトウコ先輩が見つけてしまえば、きっと気付かれてしまうと思ったからだ。
2015.2.21
混乱させてしまい申し訳ありません。もうしばらく彼等の嘘にお付き合いください。