27

その柔らかなテノールを、私は確かに知っていた。
私は振り返り、トウコ先輩の隣に立っている「彼」を見つめた。

「……」

特徴的なデザインの白衣。オールバックにされた金色の髪と、その頭をぐるりと囲むように整えられた青い長髪。
シンプルな眼鏡の奥には、金色の瞳が真っ直ぐに私を見ていた。朝焼けに輝く太陽が、確かこんな色をしていた気がする。
私はこの人と、会ったことがある。そして私は、この人のことをよく知っている。知っていた、筈だった。
それでも私は、その人物の名前を思い出すことができなかった。そのテノールも、白衣も、金色の目も知っているのに、名前は浮かんでこなかった。そのことがひどく悔しかった。

「あの、何処かでお会いしましたか?」

その時の彼の表情を、きっと私は忘れることができないだろう。
私から一年半の記憶が消えてしまったという事実は、私の周りで私を支えてくれる、沢山の人にショックと絶望を与えた。
けれど、未だ嘗て、こんな表情をする人物を私は見たことがなかった。Nさんも、ダークさん達も、トウコ先輩でさえ、こんなにも愕然とした表情を見せることはなかった。
私は間違いなく、今の言葉でこの人を傷付けている。私は謝罪と共に言い訳を紡いだ。

「……お名前を教えていただけますか? もしかしたら、思い出せるかもしれない」

この時、私には確信があったのだ。
「この人は「アクロマさん」ではあり得ない」という、確信。それは先程の、ジュペッタのダークさんの反応から導き出したものだった。
アクロマさんは、緑の髪に赤い目をした人物である筈なのだから、目の前で愕然とした表情を浮かべる彼がそうである筈がないのだと、私は思っていた。
そして案の定、彼が紡いだ名前は、全く別のものだったのだ。

「ゲーチスです」

しかし私はその名前にも聞き覚えがあった。彼の声や目を覚えているのと同じように、私はその名前を覚えていた。知っていたのだ。
そして、いつかの冷たい風と、私が誰かの首に両手を添えて力を込める感覚を思い出した。

「……」

私が、この人の首を絞めた?

「ごめんなさい。やっぱり、思い出せないみたいです」

嘘だ、と思った。そんなことをする筈がない。たとえ私がどんなにこの人のことを憎んでいたとしても、首を絞めるなんてこと、できる筈がない。
第一、そんなにも私に憎まれているような人間を、トウコ先輩が今の私に会わせるとはとても思えない。
彼の存在が、私を脅かすものではないと、そう理解していたからこそ、トウコ先輩はこの人を私に会わせてくれたのだ。
では、先程の記憶は一体、何だったのだろう。私が首を絞めたのは、この人ではなかったのだろうか。
けれど、「ゲーチス」という名前に呼応するように脳裏を過ぎったその記憶が、間違っているとはとても思えなかった。

私はそれらの動揺を隠すように謝罪の言葉を紡いだ。
しかし彼はそんな失礼な私に気分を害することはなく、寧ろ穏やかに微笑んで優しい言葉をくれたのだ。

「いいえ、構いませんよ。これから覚えて頂ければいいんですから」

これから、覚えていけばいい。その言葉に私の心臓は大きく揺れた。
思い出すことを前提に、それだけを求めて躍起になっていたこの3日間を、彼は優しく止めてくれたような気さえしたのだ。
焦らなくても、いいのかもしれない。彼の言う通り、忘れてしまったものはまた、覚え直していけばいいのかもしれない。
その過程で全てを思い出せるのなら、それが一番いい。もし思い出せなくても、それはそれでいい。
そんな「許し」の温度が彼の言葉には含まれていた。私はひどく、安心していた。

「ありがとうございます、ゲーチスさん」

私は笑った。
記憶を失くしてしまったことを「罪」だとしていた私の心に、彼の言葉は温かく染み渡っていた。

「お前は、あの男を見ても何も思い出さなかったのか?」

外に出た私は、再びジュペッタのダークさんと話をしていた。
ダークさんやゲーチスさんは、私が忘れてしまった記憶を思い出す手助けをしてくれるらしい。
そのため、このワカバタウンという町に宿を借りて、毎日、私と話ができるような場所にいてくれている。
彼等を巻き込む形になってしまい、本当に申し訳なく思っていたのだが、彼等は一様に「気にしなくていい」と言ってくれた。
彼等にだって彼等の生活がある筈なのに、その時間が私の為に奪われている。その事実は真綿のように私の心を緩く締め続けていた。

「お前が気にする必要はない」

「でも……」

「寧ろ、我々がお前を追い詰めたのだ」

ジュペッタのダークさんは地面に腰を下ろしてぽつりとそんなことを呟いた。私はその言葉を聞き逃すことができなかった。
ダークさん達が、私を追い詰めた?それは、本当なのだろうか。
この人が嘘を言っているようには思えなかったけれど、彼等が私を追い詰めるような人間にはとても見えないのもまた事実だった。
私は追い詰められていたのだろうか。精神的に疲弊して、それ故に「忘れる」という狡い選択をしたのだろうか。

もしそうだとしたら、私はそんな狡い方法を取って現実から逃げた私を、きっと許すことができないだろう。

「あの男は、お前と親しかった。お前の中にあの男の記憶はないか?」

彼はもう一度、そんなことを私に尋ねた。
ゲーチスさんという名前には、勿論、心当たりがあった。私は確かにその名前を知っていた。
そして、その名前とリンクするようにして、冷たい床と誰かの首を絞める記憶が頭を過ぎったのだ。
私は「ゲーチスさん」の首を絞めたのだろうか。私は彼を殺そうとしたのだろうか。あの優しい太陽の目をした彼のことを、私は。
……けれど私は、その恐ろしい記憶を、彼に確認してもらうことがどうしてもできなかった。

「ゲーチスさんという名前も、あの人の声も、金色の目も、私は知っています。
でも、それだけです。彼と私がいつ、何処で知り合ったのか、どんな風にして親しくなったのかは、思い出せません」

「……そうか」

彼はその目に何の感情も宿していないかのように淡々と、そう返して沈黙した。
彼は私に「忘れていること」を強要しない。どちらかといえば私に「思い出すべきだ」と迫っている。それでいて、普段は何も言わずに沈黙を貫いている。
その不思議な態度に私は少しだけ救われていた。

そして私は、ずっと気になっていた質問をすることにした。

「あの、アクロマさんという人は今、どうしているんですか?」

その問いに彼は少しだけ迷った後で、私の方を向き、その色素の薄い目で真っ直ぐに私を見た。
その目があまりにも真剣な形をしていたので、私は身構えてしまう。
心臓が大きな音を立てて揺れ始めていた。眩暈がしそうになる頭をなんとか押し留めていた。私は縋るように彼を見つめた。

ダークさんやゲーチスさんが、私の為にイッシュからこの遠く離れたジョウト地方にまでやって来てくれた。
それなのに、アクロマさんは姿を現さない。私に最も近い位置にいた筈の彼に、私はまだ出会えていない。
私はそのことに不安を覚え始めていた。そして、もしかしたら、という不安定な仮説が頭を過ぎり始めていたのだ。
もしかしたら、私が無くした記憶の中では、「アクロマさん」は、既に、もう、

「あいつはイッシュの研究施設で働いている」

「!」

「……なんだ、死んでいるとでも思ったのか?」

私は慌てて首を振り、笑顔を作ろうとした。しかし努めれば努める程にぼろぼろと目から何かが溢れてきた。
いきなり泣き出した私にダークさんはとても驚いていたが、どうしても止まらなかった。止められなかったのだ。
よかった、と安心していた。まだ私の記憶の中に彼を見つけられてはいないのに、涙が出る程安心したのだ。
彼は生きている。そのことが、どうしようもなく嬉しかった。

「お前が、嫌がると思ったんだ。記憶を失くす前のお前なら、あいつを傷付けたくないと思っただろう。だから敢えて知らせていない。お前に、会わせるつもりもない。
お前があいつに会う時が来るとすれば、それは全てを思い出した時だ。……違うか?」

私はその言葉に何度も頷いて、笑った。
どうして「アクロマさん」が死んでしまったかもしれないなんて、思ったのだろう。今まで私が彼に会わなかったのは、彼等の配慮のせいだったのに。
私は本当に安心した。乱暴に涙を服の裾で拭おうとして、しかしそれは叶わなかった。ダークさんが指を伸ばして私の涙をそっと拭ったからだ。

「あいつは、お前が泣いた時、いつもこうして拭ってやりたいと言っていた」

その言葉の本当の意味を、決して嘘を吐かないダークさんが紡いだその「真実」の意味を、この時の私が理解することはなかったのだけれど。

2015.2.21

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