ただ、穏やかな気配だけがそこにあった。そのことに私は驚いていた。
こうした状況に置かれた場合、真っ先に生じる感情は焦りや後ろめたさである筈だったからだ。
しかしそれらは、私の脳裏に浮かび上がることなく底に留まり続けていた。代わりに浮上したのは覚悟という名の諦めだった。
「ヒュウに許して貰おうなんて思っていないの」
そう、彼に、今の私を許してもらおうなどと思ってはいけないのだ。流石の私も、そこまで欲張りにはなれなかった。
私は私なりの決意と覚悟を彼に提示したのであって、それがしかし、認められないのであるならば大人しく引き下がるしかなかったのだ。
だから私はこれ以上の争いを望まない。けれど彼が、今の私の世界を脅かすのなら、その時は躊躇いなく力を向けなければならなかった。
その覚悟が今こうして、彼と対峙している中で生まれつつあったのだ。
ヒオウギに住む、正義感の強く、プラズマ団を酷く憎んでいた私の幼馴染。彼にだけは絶対に言わないつもりだった。
そんなことを打ち明ける程の親しい距離に私達はいなかったし、何よりこうして反対され、糾弾されることが解っていたからだ。
してはいけない人物に肩入れしてしまっている。それは自分でも理解していた。
しかし、悪いと知らずに悪いことをするのなら彼の咎めは有効だろうが、悪いと認めながらそれでも縋らずにはいられない人間に果たしてそれは意味を為すだろうか?
その赤い目は真っ直ぐ私を見ていた。正義に燃える少年の目、私を案じるいつもの幼馴染みの目だった。
押し付けた意見は低俗なコミュニケーションに成り下がる。剥き出しの鋭い感情はむやみに人を切り付ける狂気へと姿を変える。
それだけは避けたかった私は、これ以上自分からは口を開くまいと笑った。
「シア、お前は間違っている」
それでも彼は私を叱責することを止めない。けれど私は、もう怯まなかった。
これだって、きっと私への罰なのだ。
私が本当に、私が選んだ正義を貫こうと思うなら、あの人を探すべきではなかった。あの人のこと、私が奪った居場所と心のこと、それらを忘れて、前へと進むべきだった。
けれど私は、そうできなかった。私の一番大切な人も、そんな遠回りをする私を許してくれた。
今までの私が恵まれすぎていたのであって、本来ならこうした叱責は、もっと早くに浴びるべきだったのだ。
だからこれは、きっと正義を貫けなかった私に対する、正義を貫き続けている彼からの罰なのだろう。
「ゲーチスに脅されているんじゃないのなら、お前が自らあいつの所へ行っているのなら、……何の為に?
お前はなんであんな奴に会いに行くんだよ。海を越えて、はるばるホウエンまで、何の為に」
「お見舞いに」
「そういうことじゃねえよ!」
彼は声を荒げた。その赤い目が彼に重なる。
トウコ先輩はかつて、彼とNさんを本当の親子だと思っていたようだが、彼等はあまりにも違い過ぎた。
その一つが彼の赤い隻眼であり、淀んだ命を連想させるその色を私は畏れていた。
「解らねえよ……」
それでいい。私は微笑んだ。
解らない、解る筈がない。ヒュウ。君は私の気持ちなんて解っちゃいけない、絶対に。
彼はモンスターボールを構えた。出て来たジャローダは彼と同じ目で私を睨み付ける。
私は隣で漂っていたロトムと目を合わせて、頷いた。私の家の扇風機に入り込んで悪戯をした彼は、その扇風機を模したような形へと変わってしまっている。
その際に覚えた新しい技なら、彼のジャローダに有効打を与えることなど容易い。
私はできるだけ気丈な表情で唇に弧を描いた。その瞬間のヒュウの顔は、いつかプラズマ団と対峙した時のそれを思い出させた。
「ヒュウ、私に勝てるの?」
「……、ジャローダ、ドラゴンテール!」
それでいいと思った。
私を憎めばいい。君から大切なものを奪った人を大切だとする私なんて、嫌いになってしまえばいい。
そしていつか、忘れてくれればそれでいい。
「ロトム、エアスラッシュ」
私の最愛のパートナーは空に舞い上がり、ジャローダのドラゴンテールを軽やかにかわした後で、あまりにも鋭い風を吹き付けた。
ごめんなさい。ごめんなさい。けれど心の中の謝罪に反して私は笑った。もう少しだけ、彼の悪者になる必要があったからだ。
*
ヒュウを言い負かせるだけの理由を私は持たなかった。
それは「どうして人は死ぬの?」といった幼子の無垢な問い掛けと同様に、尋ねられた瞬間に言いようのない虚しさが身体を支配し、力無く笑って「仕方ないのよ」としか言えない。
そんなものに限りなく近いのではないかと思った。
私は安心していたのかもしれない。
アクロマさんは私の背中を押してくれた。トウコ先輩やNさんは受け入れてくれた。
ダイゴさんやミクリさんにも咎められなかった。アダンさんは私の覚悟を認めてくれた。私は彼を守る理由を得た。
このまま全てが上手くいくと思い込んでいたかったのかもしれない。ほら、彼と生きることなんて容易いのだ、と自身に知らしめたかったのかもしれない。
そんな筈はないのに。彼はプラズマ団を率いた人間で、私はそんな彼をかくまう共犯者だ。それはどう考えても道理に悖っている。
それでも、そうした全てが正しい訳ではないのだと、私は彼等に教わったのだ。
『此処でしか生きていけない人間もいるのよ!』
『だって此処には仲間がいたんだ』
彼は居場所となったのだ。目的はどうであれ、陽の当たらない人達の為に居場所を作った。それで救われた人間もいるのだ。
私は彼等からそんな居場所と心を奪ってしまった。
『答えなどない問題の方が多いのです』
アクロマさんの言葉の意味を、私はあれから1年が経とうとしている今になっても解りかねていた。
その言葉にどれ程の意味が含まれていたのか、どれ程の感情が込められていたのか、その全てを私は拾い上げることができなかった。
けれど少しずつ、解り始めているのかもしれなかった。
何も正しくなんかない、何も間違ってなんかない。誰もが誰もを救うことはできない。
「俺はゲーチスを許さない」
傷付いたジャローダをボールに戻して尚、ヒュウはそう呟いた。
「お前は間違っている」
間違っている。そうかもしれない。
私は間違っているのかもしれない。彼にとってはそうなのだろう。けれど、それでも。
「それは私が決めることだよ」
それでも私は寄り添うと誓った。
*
「……馬鹿な子だ」
彼はそう言って私の頭に手を乗せた。その左手のぎこちなさに私は思わず微笑む。
「貴方の左手は私のものだ」などと、もう豪語する気はないけれど、せめて私がしたこの選択を、彼が不快に思わなければいい。
ようやく泣き止んだ私に、ジュペッタのダークさんがオレンジジュースを持ってきてくれた。カラカラと氷の心地良い音がするそれに、お礼を言ってから口を付ける。
アスファルトの上が揺れる程の暑さの中、イッシュからクロバットに乗って飛んできた私の暑さをその飲み物は癒してくれた。
私はいつの間にか、冷たいものを飲めるようになっていた。
「言っておきますが、」
彼は本を手に取り、開く。そこに視線を落としたまま続けた。
「私はお前を自由になどさせませんよ」
「!」
「言った筈だ。お前は私のものだと。誰も私を止めることはできないと」
彼は優しい。簡単に私から重い荷物を奪い取っていく。
そんな優しい彼に「はい」と肯定の返事をしながらも、私はゆっくりと首を振った。
これ以上彼を悪者にしたくなかった。彼の荷物を増やしたくなかった。私から歩み寄ることを許してほしかった。
彼は優しい。今だけは、そうすることを許してはくれないから。
2013.2.11
2015.1.18(修正)