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真夏のホウエン地方、ミナモシティから見える海はどこまでも青い。しかしそれを眼下に据える男の目は、その青とは真逆の色をしていた。
この自然が豊かなこの土地から遠く離れたイッシュの地に、男のかつての舞台はあった。その土地で、男の率いた組織の名を知らぬ者はいないだろう。

プラズマ団、という単語を聞けば、誰もがその表情を変える。
ポケモンの解放を謳っていたその組織は、トレーナーとポケモンを切り離し、ポケモンを完全な存在にしようとした。
しかしその思想が建前だったことは、世界には全く知られていない。
男が振りかざしたその思想は、男の支配欲によるものであり、彼だけがポケモンという力を手にするための方便だったのだ。
更に言えば、それは彼にとって、理不尽な世界に対する復讐だったのだ。自らを歪に仕立て上げた世界を、歪にするための理不尽な計画だったのだ。
しかしそれら全ての真実を知る人間は、男の忠実な僕を除けば、たった一人しかいない。

イッシュを二度も震撼させたその組織の長であるその男は、眼下に見える海にその「一人」を重ね、大きな溜め息を吐いていた。
そこには9割の苛立ちと1割の心配が込められており、そして男はその1割を思い、更に苛立ちを募らせるのだ。

「何か連絡は?」

「ありませんでした」

「……そうか」

ゲーチスは溜め息を吐いた。静まり返った病室にそれは重く響き、消えていく。
男の配下であるダークトリニティは互いに視線を交わし、開け放たれた窓から外へと飛び出していった。

「……」

少女が来ない。

今年で13になったというその少女は、その幼い年の割にしっかりしていた。
毎日決まった時間にこの病室を訪れ、笑顔で土産を掲げてみせる。
来られない日には、ジュペッタのダークに持たせたライブキャスターに連絡が入る。定刻に送れる場合も同様に謝罪が送られてきた。

時計の短針が11を指す。いつもなら少女が持って来た手土産をお茶請けにしている時間だった。
イッシュのヒウンシティから毎日のように出ている船、そこで行われるポケモンバトルに全て勝利した人物にのみ渡される景品。
それは遠く離れたジョウトやホウエン、シンオウといった場所の和菓子だった。それを手土産にして、彼女はこの部屋を訪れる。
一つの箱に8個から15個程入っているその和菓子の殆どは、男の配下である3人と、そのポケモンによって食されてしまう。男が手にするのは一つだけだった。
元々、甘いものに興味はなかったし、その一つも、軽い社交辞令のような趣で手に取っているに過ぎなかった。
それがいつしか、好んでそうしたものを口にするようになっていた。その変化に男は呆れ、苛立つ。そして、それは今でも続いている。

『明日はいかりまんじゅうを持ってきますね』

男は昨日の少女の言葉を思い出していた。
ジョウト地方の名物であるその和菓子は、男が唯一、好んで食べるものであった。二つを手に取り、一つを昼食後の分に取っておくことが習慣と化していた。
そんな彼の姿を少女は見て、とても嬉しそうに微笑んだものだった。

そこまで甘くなく、中に入っているこしあんの舌触りもいいそれを、彼女は頻繁に調達してくるようになった。
まさかジョウト地方まで出かけているのだろうか。そう思い、尋ねてみたことがあったが、どうやら彼女の知り合いに、それを調達できる人間がいるらしい。
『お礼なら、ジョウトからそれを贈るように頼んでくれた私の先輩に言ってください』
その言葉で、その知り合いの名前を悟った男が、とても苦い顔をしたことは言うまでもない。

ところで、彼は過去にプラズマ団を率い、イッシュを2度も危機に陥れた男である。
そんな男の元に、何故「少女」は毎日のように訪れるのか?
それを説明するには、今から約1年前にまで話を遡らなければいけないので略そう。
一応、弁明しておくが、少女が男の洗脳と恐怖をもってして、その配下に置かれている訳では決してない。ましてや、男を警察に突きつけようと機会を狙っている訳ではない。
仮にそうだとして、彼が少女を案じる理由がないのだ。

案じる? 男は浮かんだ言葉に首を捻る。先程、自分の中に認めた1割の心配よりも、その言葉は受け入れがたい響きを持っていたのだ。
私は案じているのだろうか。あの子供を。年端もいかないあの子供を。自分が氷漬けにしようとし、自分の首に手を掛けたあの少女のことを。
煩わしい、と思った。その言葉がではない。その言葉に関してこうも執拗に逡巡する自分の思考が酷く煩わしかったのだ。
どうでもいいことだ、と男は自分に言い聞かせる。そう、どうでもいい。全てはあの少女が定刻に訪れないことに非があるのだ。
彼女が直ぐにでも、この部屋の外にある静かな廊下に弾むような靴音を響かせてくれるだけでよかったのだ。

少女の靴音には、僅かに弾むような抑揚があった。
まるで歌を歌うかのように、その靴音は大きくなり、小さくなり、時に素早く、時にゆっくりとその廊下を駆けるのだ。
その音は、この部屋を訪れるどの人間のものと比べても特徴的だと言わざるを得ないものだった。
男はその「僅かに弾むような抑揚」の靴音だけで、少女の姿を見ずとも、その訪れを知ることができていたのだ。
そうでなくとも、その数秒後には、少女がこの扉を開けて姿を現すのだけれども。来訪への気付きが、たった数秒早まっただけのことに過ぎないのだけれども。
しかし男は苛立っていた。その靴音に、その靴音が確かに弾き出す彼女の名前に。

「!」

そう思った瞬間だった。男の苛立ちは幻聴ではなかったのだ。その小さな靴音は、確かに男の鼓膜を揺らしていた。

男は弾かれたように立ち上がり、コートを羽織る。ドアに大きな歩幅で歩み寄る。一歩を踏み出す。
あ、と聞こえた小さな悲鳴に振り向けば、そこには「僅かに弾むような抑揚」の音の正体が立ち尽くしていた。
宙を漂う視線、茫然とした表情。息を切らしてはいるが、特に怪我をした様子もない。
それらを確認した男は大きく溜め息を吐く。

「何です、その顔は。呆れたのはこちらですよ」

一瞬にして全身を駆け巡った安堵を隠すようにまくし立てる。これは安堵などではないと、自身に嘘を吐いている。
仮に安堵であったとして、それはこの少女が無事であったことによるものではないのだ。
対して忙しくない男の一日のスケジュールが、これ以上大きく狂わずに済んだことによるものである筈だったのだ。
男は脳裏でそう、言い聞かせている。少女は何も言わなかった。

「遅れるのなら連絡くらい寄越しなさい。今、3人が血眼になってお前を探していますよ」

「……」

「お前の失った信用は、今日の土産で帳消しにしてやりましょう。とりあえず中に」

踵を返し、部屋へと足を進める。
違和感に怪訝な顔をして振り向き、……そこでようやく男は気付いた。

「どうしました」

少女が、泣いている。

遅すぎる訪問には相応の理由があったらしいことを悟った男は、足を止め、それだけ紡いだ。
しかし少女は何も言わない。ただ溢れる涙を拭うので精一杯らしい。
この現状を打開する術を持たない彼は、取り敢えず少女の頭にそっと手を乗せた。

「!」

瞬間、その華奢な身体に縋りつかれる。
とうとう声を上げて泣き出した少女に、そうだ、これはまだ13歳の子供だったのだと改めて思い至る。
いつかのように、背中に左手を添える。どうということはない。この左手はこの子供のものであるのだから。

「好きなだけ泣きなさい」

そんな気の効いた言葉を紡げる程に男は、良くも悪くもこの少女との時間を重ねすぎていた。
そして、その度に彼は葛藤する。
この少女に差し出された時間を甘受することができない。されど拒絶することもできない。
二律背反に苦しむ振りをしながら、その生温い感情を受け入れつつある自分が許せない。

「ごめんなさい」

少女は嗚咽混じりにそれだけ言った。相応しくない謝罪を零す彼女に男は眉をひそめる。
いつものように「ありがとう」と屈託なく笑えばいいものを。無邪気と快活がお前の取り柄ではなかったのか。
そんなことを思いながら、男は要らぬ心労を重ねたことにうんざりする。
そしてその度に思い知る。自分はこの少女を選んでしまったのだと。異様なまでに自分に執着するこの子供を受け入れてしまったのだと。

ああ、なんと愚かなことだ。

2013.2.11
2015.1.18(修正)

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