コトネが手持ちのモンスターボールを全て投げ、ポケモン達を出して遊ばせていた。
「ちょっとあの子達に混ざってくるね」と、落ち葉を蹴って駆け出した彼女は、少し離れたところで落ち葉を掬い上げ、チコリータや他のポケモンの頭上から降らせている。
翼を持った白いポケモンがコトネに向かって羽ばたきをすると、舞い上がった赤が彼女の視界を奪い、彼女はひっくり返った。そこにチコリータが飛び乗る。
クスクスというコトネの笑い声に、Nにはポケモン達の笑い声も混ざって聞こえる。
「ボクはこの土地が好きだよ」
ぽつりとNが零したその言葉に、シルバーは首を傾げた。
「旅先で出会ったトレーナーは、ボクがポケモンの声を伝えると、喜んでくれるんだ。
「自分のポケモンの声を教えてくれてありがとう」って。「ポケモンも同じように思っていてくれていることが分かって嬉しい」って。
此処に住む人は、本当にポケモンが大好きなんだね。キミ達を見ていても、それがよく分かるよ」
「イッシュでは違ったのか?」
シルバーのその言葉にNは目を見開く。
「イッシュが嫌いだったから、旅に出たのか?」
彼のその質問にNは沈黙した。
イッシュ地方が嫌いな訳ではない。Nの求めた真実のために力を貸してくれたトモダチや、ポケモンと心を通わせ、信じ合うトレーナーもいた。
決して、イッシュがこのジョウト地方に見劣りする訳ではない。
では、何故自分はイッシュを離れたのだろう。
簡単なことだ。自分はあの場所を離れなければならなかった。プラズマ団の王である自分は探されていただろうし、誰もが自分のことを知っていた。
王たる肩書を失い、ただ一人のポケモントレーナーとして再出発するには、一度イッシュを離れなければならなかったのだ。
ポケモンを解放して、完全な存在にしなければならない。そうした使命感を捨て去るには、Nにはイッシュという土地はあまりにも馴染みが深すぎた。
彼は旅に出るまで、イッシュのトレーナーはポケモンを苦しめるだけの存在だと思っていたからだ。……無論、そのように思い込まされていたのだけれど。
しかし、それらをシルバーにどう説明すればいいのだろう?
今までNの身に起きたことを順序立てて説明し、人に納得し得るだけの根拠とすることはとても難しいことのように感じられた。
Nにはそうした、人とのコミュニケーションの経験が極端に乏しかったのだ。Nは迷っていた。
そしてシルバーはそんなNの葛藤を汲んだように彼の肩を軽く叩いた。
「話したくないのなら無理に話さなくてもいい。変なことを聞いて悪かった」
シルバーはそう言って、この話題を切り上げようとしたが、Nは慌てて口を開く。
「待ってくれ、そうじゃないんだ。何というか……どう説明すればいいのか分からなくて」
「……そうか」
きっと今のNの状況は、ポケモンをウツギ研究所から盗む以外に、手に入れる方法を知らなかったあの頃の自分に似ているのだろう。
そんな風にシルバーは思い、やはりこれ以上の質問をすることを優しく諦めた。
彼の境遇は想像するしかなかったが、この旅の中で、彼にも自分のような幸運な出会いが訪れるのだろう。
自分がNに、自分にとってのコトネがしてくれたように、適切に、そしてさりげなく、新しい世界を差し出す契機を与えることができたなら、と思った。
しかし、まだ発展途上な世界を抱えるシルバーには、些か難しい役目であるように思われた。
勿論、それらを、シルバーに世界を変え、新しい景色を見せる契機を「自分が与えた」などということを、コトネは全く自覚していなかったのだけれど。
「俺はポケモンと旅をして、コトネに出会って、変わった。……お前にもそういう奴が見つかるといいな」
「……」
それは「彼女」のことだろうか。
Nは笑った。シルバーが自分のことを案じてくれていることが分かったし、そうした人の思いを受け入れるだけの余裕が、Nにはこの旅を通じて生まれていたのだ。
そして、彼の言う「そういう奴」に思い当たる人物がいるということは、実はとても稀有で貴重なことなのではないかと思った。
*
落ち葉で遊んでいたコトネとそのポケモン達が、葉っぱをあちこちに付けて戻ってきた。
シルバーは大きく溜め息を吐きながら「お母さんに叱られるぞ」と、彼女の葉っぱを取るのを手伝っている。
Nも彼女のポケモンに付いた葉っぱを取ってやりながら、彼等の声を聞いていた。
「……ああ、だからキミは進化しないんだね」
葉っぱを全て取り終えるなり、コトネの背中をよじ登って、低位置である彼女の帽子の上に乗ったチコリータに、Nはそう呟いて微笑んだ。
コトネはそれに驚き、Nに詰め寄る。
「チコリータは、何て言ったの?」
Nはチコリータに確認を取ってから、そっとその真実を紡ぐ。
「キミの頭の上に乗っていたいそうだよ。進化して体が大きくなると、それができなくなってしまうからね」
瞬間、コトネは瞬きをするのも忘れて固まってしまった。
Nがそんな彼女を不安に思い、声を掛けようとした途端、彼女は何故かぽろぽろと涙を零し始めたのだ。
彼女のポケモン達が、そんな彼女を案じてわっと詰め寄る。どうしたの、と彼女を心配するポケモンの心が、幾重にも重なってNの鼓膜に届いた。
「大丈夫だよ、何でもないの。……何でもないから」
しかしコトネは、そのポケモン達の声が聞こえているかのように返事をして、Nに向き直る。
「この子が進化しないのはどうしてなんだろうって、ずっと、ずっと考えていたの。でも、どうしても解らなかった。
この子達のことを誰よりも知っていたいって思うけれど、それでもその為の力、ポケモンの声を聞ける力がないって、やっぱり、どうしようもなく苦しいんだ。
だから、私はNさんが羨ましい。Nさんは、ポケモンへの想いで辿り着けるところの、更に向こう側へ立っているんだね」
そこにはNに対する羨望と、少しばかりの嫉妬と、声が聞こえない自身に対する強い呵責とが含まれていた。
『狡いわ』という「彼女」の声が脳裏で反芻する。
自分のこの力は、トレーナーとそのポケモンとが積み重ねてきた絆をいとも簡単に凌駕し、トレーナーに屈辱を与えてしまうものでもあるのかもしれない。
その事実をNは恐れた。恐れて、こんな言葉が口をついていた。
「ごめん、伝えない方がよかったかな」
するとコトネは目を擦っていたその両手をぴたりと止め、突然の大声をあげた。
「そんなことない!」
「!」
「私はチコリータが進化したがらない理由をずっと知りたかったの。だから、教えてくれたこと、とても嬉しいよ。
それにね、Nさんがこうして、私達にできないコミュニケーションを取ってみせてくれることは、……上手く言えないけれど、私達への教訓になると思うの。
私達はポケモンに対して傲慢になっちゃいけないって、ポケモンへの理解に線引きをしちゃいけないって、きっと、Nさんが伝えてくれる声で気付ける筈だから」
だから、とぎこちなく言葉を続けるコトネの前でNは当惑する。
どうしてそんなにも激情を露わにするのだろう。そこまでして、何を自分に伝えたいのだろう。
「だから、自分の力を良くないものだなんて、絶対に思わないで。その力は、私達を悲しませたり、傷付けたりするものなんかじゃないから」
コトネのその姿が、Nのよく知る人物に重なった。
『Nがポケモンのことを、自分の思いも顧みずに案じるっていうのなら、それなら、あんたのことは誰が案じてくれるの?誰があんたを想ってあげるの?
どうして、自分の思いに蓋をするの。どうしてもっと欲張らないの!』
「彼女」は、何を思ってあのような激情を露わにしたのだろうか。
そして何故、それを聞いた自分は、救われたような思いに満たされたのだろうか。
「ありがとう」
「え……」
「ボクのことを気遣ってくれたんだよね」
それは、どうして?と、Nはコトネに聞きたくて仕方がなかったのだが、今の状況でそれを口に出すのは何故か躊躇われた。
人を思う気持ちが、人に激情を起こさせるものなのか。それは何故なのだろう。人の思いがぶつかることで化学反応を起こすことと似ているのだろうか?
Nの複雑な世界はまだ、その大半が紐解かれぬままだった。
2014.11.7
N編(夏)完結