それからNはシルバーと別れ、自然公園を抜けて北へと進んだ。
エンジュシティの古風な街並みを歩き、途中の歌舞伎座で鮮やかな衣装を纏ったまいこさんにポケモンバトルを申し込まれた。
「カレラもキミ達と一緒に舞台で踊ることが楽しいみたいだ」と、聞こえた声を彼女達に伝えれば、とても喜んでくれた。
自分の能力を生かすことで、誰かが喜んでくれる。そうした経験にまだ慣れていなかったNは、しかしまいこさん達が喜んでくれることを嬉しいと感じられるようになっていた。
戸惑いも確かにあったが、それ以上に嬉しさが勝っていたのだ。
西に進むと、アサギシティという港町があり、灯台の最上階ではデンリュウというポケモンが夜の海を照らしていた。
海で仕事をする人や、海を渡るトレーナーの役に立てることを、デンリュウはとても喜んでいた。
暗闇の洞穴で出会ったロコンと同様に、カレもヒトと関わり、ヒトの役に立てることを誇りに思っているようだった。
ジョウト地方では、ポケモンと人との関わりがどこまでも密になっていて、その姿はある種の眩しさをもってNの胸に焼き付いた。
アサギシティの浜辺を北へ進むと、バトルフロンティアという施設があった。
トレーナーとポケモンとがバトルによって、その強さを貪欲に追い求めるための場所らしい。
N自身がポケモンバトルをすることにはまだ少しだけ抵抗があったが、ポケモンにバトルを「させる」施設としての嫌悪感や敵視を、Nはもう抱かなかった。
つい最近まで、王として抱いていた「使命感」とでも名付けられそうな荷物が、いつの間にか自身の肩から下ろされていたのだ。
そして、今のNには理解することができる。
こうしたポケモンバトルも、自然公園で見たポケスロンや、ジョウト中に浸透している連れ歩きと同様に、幾つもあるポケモンとの関わり方の一つに過ぎないのだと。
それは、バトルフロンティアにいたポケモン達の、複雑で美しい声からも察することができた。
彼等は決して傷付け合うために戦うのではない。それはポケモンやトレーナーが理解し合うための数式なのだ。
たったそれだけのことを受け入れ、理解するために、Nは多くの時間を費やしていた。
閉じられていた世界が広がる音を、Nは確かに聞いていたのだ。
それからも、Nはレシラムに乗って海を越え、あるいは自分の足で山を越え、ジョウトを旅した。
自然の中に住むポケモンや、町でトレーナーと触れ合うポケモンから声を聞き取り、会話をした。時にはポケモンバトルをして、彼等の絆に触れようとした。
そうした毎日を繰り返しながら、季節が変わろうとしていた頃、Nはポケギアを取り出して、二人の人物に電話をかけた。
『Nさん、こんにちは!どうしたの?』
「キミとシルバーに返すものがある。今から会えないか?」
*
コトネとシルバーが選んだ待ち合わせ場所は、エンジュシティのスズの塔だった。
「焼けた塔とは別の、背の高い方の塔だから、間違えないようにね」とコトネに念を押される。
電話をかけた時、フスベシティにいた彼は、そこからレシラムの背中に乗り、エンジュで一番高い建物を目指して空を飛んだ。
それらしき塔を見つけ、そこへ降りる。
「!」
瞬間、目の前に現れた一面の赤に、Nは言葉を失った。まるで火の雨が降っているような鮮やかさだ。
レシラムがその大きな翼を僅かに羽ばたかせただけで、地に落ちた赤い葉は物凄い勢いで舞い上がる。
レシラムをボールに仕舞い、ゾロアークを出す。ジョウトを旅する中で、連れ歩きの習慣がNにも身についてしまっていたのだ。
そのゾロアークが勢いよく地を蹴って駆け出す。その方向に進むと、コトネやシルバーが既に到着していた。
「素敵な場所でしょう?鈴音の小道っていうんだよ」
「……ああ、本当に綺麗だ」
「本当はエンジュのジムバッジを持っていないと入れないんだけどな。まあ空からの侵入を咎める奴なんていないさ」
コトネとシルバーに倣って、Nも赤い葉が降り積もった地面に腰を下ろす。カサカサという乾いた音が耳をくすぐる。上から降ってくる葉がコトネの髪に引っかかる。
……静かだ、と思った。此処に流れる雰囲気が普通のものではないことを、Nは僅かにではあるが感じ取っていたのだ。
シルバーの言葉にあったように、スズの塔に続くこの小道へは、ジムバッジを持っていないと入れないらしい。
その資格がこの場所から人を遠ざけているのかとも思った。しかしそれは、野生のポケモンをも遠ざける理由にはならない筈だ。
ジョウト地方のどんな場所にもポケモンはいた。ポケモンの声が聞こえるNは、どんな場所に居ても声のざわめきを感じることができたのだ。
そんなポケモンが、此処にはいない。
「……何故、此処にはポケモンが居ないのだろう。こんなにも美しい場所なのに」
「きっと、このスズの塔に、ホウオウがやって来るからじゃないかな」
その言葉にNは納得がいった。此処は崇められる側のポケモンの住処だったのだ。
Nは頷き、ポケットからお金を取り出して二人に渡した。コガネシティで用意してもらった旅道具の全額を、ようやく返せる時が来たのだ。
二人ともお礼を言ってくれたが、Nにはそれが少しだけ不思議だった。お金を借りたのだから、お礼を言うのはこちら側の筈なのに。
シルバーに「こういうお金は封筒か何かを買って、それに入れて渡すのがマナーだ」と教わってから、Nは改めて二人に向き直った。
「キミ達に聞きたいことがある」
コトネは首を傾げて「どうしたの?」と笑顔で答える。シルバーも「何だよ、改まって」と苦笑しながら、付き合ってくれるらしい。
彼等の承諾を得たと判断した彼は、口を開いた。
「キミ達はどうやって、ポケモンのことを理解しているんだい?」
その言葉に二人は顔を見合わせた。暫く考え込む素振りを見せ、沈黙する。
先にその沈黙を破ったのはコトネだった。
「笑った顔とか、怒った顔とか。すり寄って来てくれたり、そっぽを向かれたり。Nさんのように、それは言葉じゃないから、本当のところはわからないんだけど。
でも例えば、私なら、この綺麗な紅葉を大好きな相手と一緒に見たいと思うよ。だからチコリータをボールから出して此処に来たの。チコリータもそう思っていてくれると嬉しいな」
その言葉に、彼女の頭の上に乗っていたチコリータが小さく鳴いた。『私も、コトネと一緒に来られて嬉しい!』という声は、彼女には聞こえない。けれどもその思いは、正しい。
『私なら』
その思考は、Nにとって新鮮だった。そんな風に自分に置き換えて考えずとも、声が聞こえる彼は、それをそのまま彼等の本音とすることができたからだ。
理解しようとする前から、ポケモンの真実がそこに与えられていた。
『ポケモンのことしか、いやそのポケモンのことすら理解していなかったボクが、』
前に「彼女」に話した言葉の一片が頭を掠めた。けれどあれは間違いだったのだ。
Nはポケモンのことを理解していなかったのではない。理解しようと、しなかったのだ。何故ならそれは既に与えられていたから。しようとする前からそこにあったから。
そして、声を聞き取れない彼等は、Nがなし得なかった「試み」をして、彼等を理解しようと努めている。
「私達には、声は聞こえない。でも、この子が私に、何かを伝えようとしてくれている。だから、私は解ろうとしたいの」
コトネのその言葉に、Nは頷く。
きっとこうした、トレーナーのポケモンに対する誠実な思いを、ポケモン達が自身の糧とするのだ。その思いは、力になるのだ。
それは確かに「絆」と呼べるものだった。
続いて、シルバーが口を開いた。
「人だって同じだろう?何も、変わらないさ」
「……それは、違うと思うな。だって、人間は嘘を吐くじゃないか」
すると、コトネが少しだけ困ったように肩を竦めて笑う。
「そうだよね、人間は嘘つきだよね。でも、だからだよ」
「!」
「だから、知りたいと思うんだよ」
そのやさしい皮肉を噛みしめるように、慈しむように、コトネは紡いだ。
言葉が通じる人間でも、嘘を吐く人間でも、同じことだと言ったシルバーとコトネの言葉の真意を、Nは真剣に考えていた。
Nにはまだ、その皮肉めいた理屈の悲しくも美しい音が理解できなかったのだ。
嘘を吐く人間を拒絶し、ポケモンの心の正直さに身を委ねすぎた彼は、その音を受け入れる下地がまだ出来ていなかったのだ。
「知られたくないから、嘘を吐くんじゃないのかい?」
「必ずしもそうとは限らないぞ。人間は嘘つきで厄介で、その実、とても臆病ないきものだからな」
その時、Nの脳裏に「彼女」の後ろ姿が浮かんだ。
いつもNが背を向けて立ち去る側であったため、彼女の「背中」を想起したのは間違いであったのかもしれない。
それでもNが思い描いたのは彼女の後ろ姿であった。時渡りの向こうに見えた、背中を丸めて泣く彼女の姿を、彼は一番に思い起こしてしまったのだった。
『あんたが思っているよりも、私はずっと臆病な人間なの。だからこうして乱暴な物言いをして、どこまでも強気に出てなきゃやってられないのよ。』
自分を臆病だと称した、強気で気丈な矛盾だらけの彼女の背中は、あの時泣いていた筈のその背中は、けれど何故だか、得意気に微笑んでいるようにさえ思われた。
複雑で美しい世界は、実は彼が見つけるもっと前より、彼の前に差し出されていたのかもしれなかった。
2014.11.7