「どうした、帰るのか?鐘を鳴らしに来たんじゃないのか?」
イッシュリーグのチャンピオンは引き返そうとした私を呼び止め、歩み寄ってきた。
ほとんど反射的に後退り、彼と距離と作った。彼は怪訝そうに首を傾げた。私はそんな彼を睨み上げた。
私はこの人が嫌いだ。
中途半端な強さしか持っていない癖に、チャンピオンという肩書にいつまでも凭れ掛かっているこの人が大嫌いだ。私に全てを押し付けたこの人が大嫌いだ。
「近寄らないでください。私は貴方のことが嫌いなんです」
そして今の私は、そう告げることをもう躊躇わない。
私はこの旅を通じて、嫌われることを恐れなくなったのだ。
「……お前さんの気に障るようなことをしたのなら謝ろう」
彼は苦笑してそう紡いだ。
私はこれ以上彼を見たくなかったので、目を閉じて、彼の鳴らした鐘の余韻を拾い上げていた。
空気を揺らすその音に、私はNとの記憶を溶かしていた。もしあいつが鐘を鳴らしたなら、どんな音が私の耳に届くのだろうか。
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髪と服と乾かし終えたNは、私が預けていたポケモンを受け取って戻って来るなり、先程までの柔らかな声音を一転させて、早口でまくし立てた。
『キミのポケモンと話をさせて貰うよ。ボクは生まれた頃より、ポケモンと過ごし育ったからね。ヒトと話すより楽なんだ。』
私のボール、一番手前にあったそれに入っていたランプラーは、きょとんとした表情でNを見上げる。
『だって、ポケモンは絶対にウソを吐かない。』
『ストップ。』
私のその制止に、Nは視線をランプラーから私に戻した。
こいつの早口は危険だ。気を抜くとあっという間に彼のペースに持っていかれてしまう。彼と同じ地面に私が靴底を付けることを余儀なくされてしまう。
だからそれを防ぐには、私が彼と対等な会話をするには、少しでも彼の発言に違和感が見られた段階で、私が彼の言葉を遮り、その早口をせき止めるしかないのだ。
『ポケモンは嘘を吐かない?』
彼の言葉を私は反芻する。彼は「何かおかしなことを言ったかい」と首を傾げている。
本当にそうなのか。本当に彼等は嘘を吐かないのか。私はあまり優秀ではない頭を使って考える。
私にはポケモンの声が聞こえない。故に彼のその言葉を否定したとして、それを証明するだけの経験を私は持たない。
ポケモンのことに関して言えば、私は彼よりも圧倒的不利な立場にいるのだ。
しかしそれが、彼の言葉を吟味しなくてもいいという理由にはならない。ポケモンのことを、こんな風に真剣に考えなくてもいいという理由になる筈がない。
ポケモンの声が聞こえるから。それが、Nの言葉が正しいという証明になる訳でもない。
考えろ。
『ポケモンは、ヒトと同じ、あるいはそれ以上の能力を持っているって、前にゲーチスが言っていたの。』
『その通りだよ。』
『じゃあ、嘘を吐く能力だって持っている筈じゃない?この子達だって、いけないことと解っていながらも、相手を思って、嘘を吐くこともあるんじゃないの?』
『少なくとも、ボクにはポケモンは正直だよ。他に声を聞く者がいない今、それが真実だと思うけれど。』
彼のイニシアティブは揺るがない。しかし私は怯まない。
だって私はこの人と戦わなければならないのだ。何故かは解らないけれど、何故こいつが私に固執するのか全く解せないけれど、私はもう後には引けないのだ。
私はポケモンと一緒に居たい。だから彼との争いに負ける訳にはいかない。
私は彼という人間を知り始めていた。だから私を求める彼を見限ることができない。
……そう、どのみち、私達の運命は袋小路になっていたのだ。
『そうか。トウコはカノコタウンで生まれ育ち、母親、そして双子の兄との3人暮らしなんだ。』
その言葉にはっとする。
そんなことを、私のランプラーが口にする筈がない。私はそう確信していた。
確かにこの子とは、タマゴの時から、カノコタウンで一緒に暮らしていた。
けれど、違う。この子はそんなことを、出会ったばかりのNに易々と話せるような、そんな社交的なポケモンではない。
『それにしても、このポケモン、何故だかキミを信じている。いいね……!』
そう嬉しそうに言う彼の目を見上げ、私は徐に口を開いた。
『N、この子はね、とっても臆病なのよ。』
『?』
『そんな風に私のことをペラペラと話せるようなポケモンじゃないわ。
あんたはポケモンの声を拾えるかもしれないけれど、私はあんたよりもこの子のことを知っているの。』
そう、このランプラーは臆病で、引っ込み思案なところのある子だ。そのおかげで、ダイケンキとも打ち解けるのに随分と苦労した。
にもかかわらず、彼はランプラーからすんなりと私の情報を聞き出した。
彼は嘘を極端に嫌っている。そんな彼が私に嘘を吐くとは思えないし、彼がランプラーから聞いたというその情報は正しいものだ。
しかしその事実は、私とランプラーが過ごしてきた時間に、私の「ランプラーがそんなことをおいそれと口にする筈がない」という確信に、矛盾する。
だから私は考える。
憶測に過ぎないその勝手な予想は、私にとっても、Nにとっても、辻褄の合うように組み立てられた。
論理的に物事を考えることが苦手な私にしては、それなりにいい結論を出せたのではないかと思う。
『Nは声じゃなくて、心を拾っているんじゃない?』
故にその言葉は、自分の声とは思えない程にはっきりと、凛とした声音で紡がれた。
Nは驚いたようにその目を見開く。
『心に嘘を吐くことはできないでしょう?器用にもそういうことをやってのけてしまう人間もいるみたいだけど。
ランプラーの心をあんたは読んだ。この子があんたに伝えたくなかったことまで、あんたは勝手に拾い上げた。心は隠せないから、誤魔化せないから。』
『……。』
『つまりあんたはポケモンの心を許可なく覗いては今みたいに情報や感情を引っ張り出す、とてもデリカシーに欠ける人間だったということがはっきりしたわね。』
私は肩を竦めて笑った。彼の行使し続けてきた「ポケモンの声が聞こえる」というイニシアティブに、ようやく一矢報いられた気がしたのだ。
まさかNがそれに続くように声をあげて笑い出すことになるとは、予想だにしていなかったのだけれど。
とても面白いことを発見したかのように、お腹を抱えて笑う彼に、私は少し驚いた。そんな風に笑う人だとは思っていなかったからだ。
しかしそれ以上に、私はどうにも嬉しかった。私と同じ感情が、今、彼の中にも確かに存在している気がしたのだ。
『キミは本当におかしいね。』
『あんたも負けていないわよ。……それで、私の拙い理論は受け入れてもらえたのかしら?』
すると彼は、肩を震わせながら小さく頷いた。
その仕草に私は心から安堵した。臆病な私は、彼にこうやって自分の意見を伝えることを何処かで怖がっていたのだ。
もし「それは違う」とばっさり切り捨てられたらどうしよう。と、いつになく怯えていたのだ。
しかし、仮に否定されたとしても、それはそれでよかったのかもしれなかった。
彼は私に遠慮などしないし、私だってそれは同じだ。だからきっと、恐れることなど何もなかったのだ。
『不思議だね。ヒトの思いや意見はこうやって化学反応を起こすものなのか。』
『化学反応?……よく解らないけれど、納得してもらえたのならよかったわ。実を言うと、少しだけ、』
あんたにこの理論が受け入れてもらえるかどうか、不安だったの。
そのようなことを口走ろうとしていたことに私は愕然として、とても不自然なところで言葉を止めた。危ないところだった。
どうしたんだい、と尋ねる彼に、知らないわ、と乱暴な言葉をぶつけつつ、話を無理矢理切り上げて、ポケモンセンターから彼を押し出した。
もう外の雨は止んでいて、雲の隙間から青空さえ覗き始めている頃であった。
彼は白と黒の帽子を深く被り、私に手を振って歩き出す。そのまま見送る筈だったのだが、唐突にあることを思い出し、私は再びその背中に声を投げることになる。
『あんたは「ポケモンとの会話はヒトと話すよりも楽だ」って言ったけれど。』
『それがどうかしたのかい?』
『さっき、私が髪を乾かしてあげていた時に、話したじゃない。あれは、苦しかった?私と話すことを、あんたは苦しいと感じていた?』
私はとても狡い尋ね方をしたと思う。
何故なら彼が肩を竦めて「いいや、そんなことはなかったよ」と答えてくれると確信していたからだ。
それは真実であったけれど、それ以上に私は思い上がっていた。彼という人間を理解し、彼と同じ思いを共有できたと、傲慢なことにそう信じ切っていたのだ。
それは随分と傲慢な思い上がりであり、私は彼の真実に触れることなどまだ許されていなかったのだと、私はこの後で、思い知らされることになるのだけれど。
2014.11.2