Nとの記憶を辿る旅。
そう心の中で結論を出せば、足は驚く程正直に「その場所」へと進んだ。
道行く人に、少しでも私が「英雄」だとばれないように、一つにまとめていたポニーテールをほどいて背中に流した。
おかげで私に突き刺さる視線はかなり減ったが、代わりに真夏の暑さが容赦なく肌に染み込み始めた。首回りに風が通らなくなった分、感じる暑さが増大していたのだ。
しかし何とかライモンシティに辿り着き、私は目的の場所、観覧車を見上げるに至っていた。
改めて見ると、随分と小さな観覧車であるように思われた。こんな小さな場所が私の転換点だった、と、思い返せばどうにもおかしかった。
観覧車には冷房が付いていない。春の陽気なら心地良かったそれに、この真夏に乗ることはどうにも躊躇われた。
代わりに近くのベンチに座る。少し離れて見上げると、観覧車の全景は意外にも小さい。
『ボクは観覧車が大好きなんだ。あの円運動、力学、美しい数式の集まり……。』
あのおかしな青年と居るのは楽だった。こちらが何も喋らなくとも、ひっきりなしに言葉を紡いでくれる。
彼が私に何を見出しているのかは解らなかったが、おそらくああやって話す相手としては「誰でも良かった」のだろう。
自分の考えていることを誰かに聞いてほしい。その「誰か」がたまたま私だっただけのことだ。
そう考えて彼と距離を置くのは容易い。他を当たってと言うことも出来た筈だ。
しかしそれが出来なかったのは、彼がそうした「話し相手」以上のものを私に見出していたからであり、つまり私に逃げ場などなかったのだ。
何故そこまで私に固執していたのかを、私が知るのはずっと後のことなのだけれど。
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Nは他にも色んなことを、ひっきりなしに話していた。
円運動には常にその周りから中心に向かう力、向心力が必要である、とか。
ジェットコースターは力学的エネルギーの法則が完璧に成り立っている、実に効率的な乗り物だ、とか。
おかしなタイミングで笑い、おかしな言葉をおかしな早口で操る。
そんな彼を「理解できないもの」と割り切り、同じ空間を共有するのは確かに楽だった。しかしそれと私が彼を気に入らないのとはまた別の話だ。
『ボールを掲げてあげなよ。トモダチも景色が見たいらしい。』
そんなことを平然と言ってのける彼を睨み付けた。どうしたんだいと首を傾げる彼に私はとうとう耐えられなくなって口を開く。
狡いわ、と吐き出した恨みの文句は、観覧車の中に反響する。
『私とフタチマルはもう何日も一緒に居たのよ。Nはほんの数回この子と会っただけでしょう。それなのに、貴方は目の前でこの子の声を拾うじゃないの。
そんな力を持った貴方がトモダチの幸せ、なんて言うと、私はどうすることもできないのよ。だって私には声が聞こえないから。』
そして彼は、その「声が聞こえる」という強力なイニシアティブを放棄しないままに、私に勝負を挑もうとしているのだ。
どちらが正しいか決めよう、と。
どうしようもないから。仕方ないから。
きっとトウヤならそう言って笑う。笑って、諦めて、許されることだけを楽しむことを選ぶ。
でも私は諦めきれない。このおかしくて不思議な青年の言葉に従うことだけはどうしても耐えられない。
『ねえN、貴方はどうしようもなくなった時、どうするの?』
私はきっと、彼に勝てない。何故なら私より強い人間は沢山居るからだ。
チェレンは私より早くジムを制覇している。行ったことはないが、バトルサブウェイにいる人達も相当の実力者らしい。
そんな中で、何故他の誰でもなく「私」が目を付けられてしまったのか、さっぱり解らない。
私なんかよりも強い人は沢山居るのに、私はきっと彼に勝てないのに、それでも、どうしようもなく。
『私は、貴方に負けたくない。でも勝てる筈がないの。だって私には武器がないのよ。貴方と戦うための武器が、何も。』
彼がどういった立場の人間で、どういった存在なのか、私はなんとなく察することができていた。
どんな思想を掲げているのか、何を思って私と対立しようとしているのか、私はある程度理解していた。
解っていた、……解っていた。私と彼とは相容れないということだけが、解っていた。
『貴方はどうして私を選んだの?何の取り柄もない私に何ができるっていうの?』
足掻き方が解らない。勝算が見えない中で、それでも進んで行く術を私は知らない。
「どうしようもないから」と、笑って諦める兄の姿を私はずっと見てきた。
病弱であるが故に、私や幼馴染には許されるお転婆が彼には許されなかった。誰よりも悔しい筈の彼が、いつだって「仕方ないよ」と柔らかく笑う姿を知っていた。
だから尚更、その双子の妹である私が諦める訳にはいかなかったのだ。何もできないと知っていながら、みっともなく足掻くことが贖罪になる気がしたのだ。
それでも結局は何もできなくて、そんな幼い足掻きは私の自己満足だったのだと思い知らされる。いつだってそうだった。私はどこまでも無力だった。
悔しかった。でも泣くことは許されなかった。もっと悔しい思いをしている筈のトウヤが泣かないからだ。
そして今、同じように無力な状況に立たされて、それでも諦めきれない自分が居る。
トウヤの時よりも更に切実に自分の胸に迫ってきたそれは、いとも簡単に視界の膜を揺らす。
窓に置いていたフタチマルのボールを両手で抱いた。
『こんなに君が好きなのに、どうして別れなきゃいけないの。』
ボールを守るように強く握り締め、向かいに座る彼を睨み上げた。
『認めないわ。貴方の思い通りになんか絶対にさせない。でも、私には、何も、』
悔しい、悔しい、悲しい、もどかしい。
おかしくて不思議なNが嫌い。ボールの中で私を見上げるフタチマルが好き。武器を持たない無力な私が嫌い。そんな私を慕ってくれるポケモンが好き。
頬にむずがゆさを覚えた。左手で乱暴に拭えば、そこに透明な血がべっとりと付いた。
泣いている自分に驚きを隠せず、狼狽えた。その動揺により血の量は更に増えた。
『トウコ。』
そんなみっともない私に、彼の声が降ってくる。
『お願いだ。諦めないでくれ。』
『!』
『僕には確かめたいことがある。それにはキミの力が必要で、他の誰にもできないことなんだ。
キミのその思いを認めてあげる。……だから、僕を止めてごらん。』
嘘、嘘だ。だって私にはチェレンのような優秀な頭脳も、ベルのような優しい諦念も、Nのようにポケモンの声を聴く力も、何もない。
私より強い人間は沢山いて、きっと私はNに敵わなくて、けれど、それでも、
『ば、馬鹿にしないで!「あんた」に頼まれなくたって、私はあんたを止めるわ。
私はあんたの考えに欠片の興味もないけれど、でも私は皆と一緒に居たいんだから!ポケモンが大好きなんだから!』
それでも私は、ポケモンと一緒に居たい。
いきなり壮絶な剣幕でまくし立てた私に彼は驚き、しかし一瞬の沈黙を置いて小さく笑った。
『カレも嬉しそうだ。』
『え、』
『やっといつものトウコが戻ってきたって、そう言っている。』
観覧車のドアが開いた。私は慌てて涙を拭い、まだ揺れる視界で地面に足を着ける。
続いて降りて来た彼に、ボールを掲げてみせた。
私は足掻かなければならない。諦めてはならない。戦わなければならない。武器がなくとも、足掻かなければならない。
真っ赤に泣き腫らした目でこちらを睨み上げる私が可笑しかったのか、彼は再び小さく微笑む。
『いいね。キミはその方が似合っているよ。』
『まるで私を知っているみたいに言うのね。……それとも、フタチマルがそう言ったの?』
挑発するようにそう尋ねた私に、彼は困ったように首を捻りつつ、目を細めた。
そして、忘れられない一言を紡ぐ。
『違うよ、ボクの言葉だ。』
この時、「解らない」と割り切って対峙していた筈の彼を、私は少しだけ理解できたような気がしたのだ。
「解らない」彼だから、同じ時間を過ごすことを楽だと感じていた筈なのに、その彼を理解できたということに私は喜びや安堵のようなものを抱いていたのだ。
そして私は、強欲になった。
この人を、もしかしたらもっと知ることができるのかもしれない、と。
しかしそれが叶うのは、もっと、ずっと後の話だったのだけれど。
**
ボールを両手で包む。中のダイケンキにそっと囁く。
「ねえ、私は君が大好きよ」
アスファルトが熱を吸ってゆらゆらと揺れている。
2014.11.1