男性用のトレンチコートは、けれども私の身の丈に驚く程よく合った。
トウヤにそれを見せびらかすようにしてから、私は得意気に「行ってきます」の挨拶をして、ゼクロムの背中に飛び乗った。
ゼクロムの速さは経験済みだったため、振り落とされないようにしっかりとしがみ付くことを忘れなかった。
カノコタウンが徐々に小さくなっていくのを、私はずっと、ずっと見ていた。母とトウヤの振ってくれている手が見えなくなるまでずっと、そうしていた。
「!」
そのとき、心臓が大きく跳ねた。既視感、とも呼べそうなそれを、けれども経験したのは私ではなく、きっとあいつの方だった。
これはきっと、あの時の彼の視点なのだと、気付いてしまった。気付いて、少しだけ泣きたくなってしまった。
**
とんでもない男、ゲーチスと戦い、勝利した。
あまりにもギリギリの、激しい戦いに私が息を切らせていると、その間に、チェレンとアデクさんが彼を連れて行ってしまった。
この広い謁見の間に残された私とNは、生まれてしまった長い沈黙を持て余していた。
ずっと、彼のことを知りたいと思っていたのだ。
どうしてドライヤーや小説を知らないのか、どうしてポケモンを好きだと思う気持ちを押し殺しているのか、どうして私にこんなにも執着していたのか。
その全てが明かされそうになっていることに私は気付いていた。
それが此処まで悲しい真実を持っているとは流石に予測できなかったし、それを知りたいと求めた自分に後ろめたい感情を持ったこともあった。
けれども、Nの生い立ちがどれだけ悲惨であろうと、逆にどれだけ恵まれていようとも、同じことだったのだと思う。
どのみち私が求めたことは、そうしたリスクを孕んでいたのだ。
こちらが知りたいと求めること、相手に対して「聞かせて」「教えて」と一歩を踏み出すこと。
それは自分も相手も傷付くおそれのあることで、だからこそ普通のコミュニケーションにおいて、そういうことはきっと、避けられるべきだ。
そうすれば相手を傷付けることもないし、自分が傷付くこともない。そうした無難なやり方を私はずっと続けてきた筈だった。
それなのに私は、欲張ってしまった。
彼に私を知ってほしいと思ったし、私も彼を知りたいと思った。
その結果、普通の人なら守られていた筈の垣根を越えてしまった私達は、傷付き、傷付けた。
……にもかかわらず、私は彼を求めたことを悔いていない。そのリスクを冒したことで、得たものが確かにあったと信じているからだ。
『キミに話したいことがある。』
彼の早口は、出会った頃よりも少しだけ緩やかになった。しかしもう、その早口に違和感を抱くことはない。私は彼と出会い過ぎていた。彼との時間を重ねすぎていたのだ。
今なら何故、彼がこんなにも早口で喋り、訳の分からないことを言い、ポケモンが好きだという自分の気持ちを押し殺してまで、ポケモンの解放を唱え続けていたのかが解る。
それらは、私が踏み出さなければ知られなかったことだ。私が傷付けること、傷付くことを恐れたなら決して解らなかったことだ。
もう私は、躊躇わない。
彼は玉座の方へとゆっくりと歩き始めた。私もその歩幅に合わせて、彼の隣を歩く。
『キミと初めて出会ったカラクサタウンでのことだ。キミのボールから聞こえてきた声が、ボクには衝撃だった……。』
カラクサタウン。ミジュマルだった彼と出会って間もない頃だ。
今はダイケンキに進化した彼の入ったボールに、私は思わずそっと触れる。
『何故ならキミのポケモンは、キミのことをスキと言っていた。……一緒に居たいと、言っていたから。』
『!』
私の足は不自然に止まった。彼は振り返り、困ったように笑う。
……解ってしまった。どうして彼が私に固執したのか、何故この私を英雄だとしたのか。
私が「初めて」だったのだ。ポケモンに求められている姿を、彼は私に「初めて」見たのだ。
彼は知らなかったのだ。トレーナーのことを好きだというポケモンがいること、心を通わせ、信じ合うポケモンと人との関係があること。
そんな彼にとって、初めて耳にしたポケモンからトレーナーへの「スキ」は、いっそ暴力的な程の衝撃として彼の鼓膜に焼き付いたに違いない。
だから、こんな私のことを忘れられずにいたのだ。だから、こんな私にずっと執着していたのだ。
何の取り柄もなかった筈の私は、けれどもNに見つけられたことによって特別になった。Nの「初めて」が私であったことが、私を特別な存在にした。
平和の女神は「ゲーチスは傷付けられたポケモンばかりをNに近付けていた」と話してくれた。
きっと彼にとってこの世界は、今まで彼が生きてきたあの部屋での出来事を裏切るものばかりだったのだろう。
そうしたポケモン達の喜びの声を、彼は受け入れることができなかったのだ。何故なら彼が傷付けられたポケモンと過ごした時間は、あまりにも長すぎたから。
今までの世界が否定されることを、彼はどうしても受け入れられなかったから。
『私も、今までの世界が、旅をして大きく変わったわ。』
私は思わずそう呟いていた。Nはその言葉に首を傾げる。
『誰かに嫌われること、傷付き、傷付けられること、とても怖かったの。前にも言ったけれど、私は臆病だからね。
でも、世界はとても広くて、独りを恐れることなんて何一つないんだって、知った。私の小さな世界は裏切られたの。でも、それを受け入れると、とても楽になった。』
正確には、それを受け入れるまでに、少し時間が掛かったのだけれど。
それでも「とても楽になった」とささやかな嘘を吐くことが、どうにも私らしい気がした。
そうした虚勢が虚勢であることだって、きっとこいつには見抜かれているに違いないからだ。
Nの生い立ちと、私の思い違いを同じステージに並べるのは、少しばかり間違っているのかもしれなかった。
けれど、そんな風に私のことと並べて、少しでも今の彼が置かれた状況を楽なものに見せたかった。これ以上彼に絶望してほしくなかったのだ。
お願いだから、そんな悲しそうな顔をしないでほしい。
いつものように早口で訳の分からないことをまくし立てて、私には聞こえないポケモンの声を拾い上げて、笑ってほしい。
『私の世界が変わったのは、あんたがいたからよ。私はきっとあんたに救われたの。』
『ボクが何かしたのかい?』
『そうよ、あんたの言葉を借りるなら「化学反応」が起きたのね、きっと。』
つまりはきっと、そういうことなのだ。
誰かと関わって起きた変化はとても鮮やかで、斬新で、変わる前に戻れることはきっとない。
人が人と関わるということ。傷付け合いながらも互いを知りたいと求めること。それはきっと、不可逆性の変化なのだ。
私達は変わってしまった。だから、もう戻れない。それなら、これから前に進めばいい。
しかし徐にボールを取り出し、レシラムを出した彼に、私は慌てる。
何処に行くの、と尋ねれば、彼は少しだけ考えた後で肩を竦め、口を開いた。
『……そうだね。ボクも君のように、旅をしてみようかな。ボクを知られていない、何処か遠い地方で。』
『待ってよ、私はあんたをイッシュから追い出すためにあんたと戦ったんじゃないわ。
私は私の我が儘を、ポケモンと一緒に居たいっていう願いを叶えるために戦ったのよ。そのついでに、あんたのことも……。』
いつものように粗暴な言葉を操りながら、しかしその音が揺れていることに私は気付いていた。
どうして泣きそうになっているのだろう。……簡単なことだ、もう彼に会えないかもしれないからだ。
今までは彼と対峙するという確定した未来があった。それは双方が望んでいたことで、だからこそ必ず出会えるという確信があった。
しかし、今ここで彼がいなくなってしまえば、次はいつ会えるか解らない。もう二度と会えないかもしれない。
そう思った瞬間、私の心はとてもシンプルな答えを弾き出した。
……嫌だ。
『そうだよ。』
しかし泣きそうな私に反して、彼はとても穏やかに微笑む。
『ボクもきっとキミに救われたんだね。』
私はとうとう言葉を失い、代わりに大きく首を振った。
そんな最後みたいなことを言わないでほしい。別れの挨拶をしようとしないでほしい。
それは長い間ずっと忘れていた、独りを恐れる気持ちだった。
旅を続けて、孤独には随分と慣れてしまった筈だけれど、それでも彼に会える保証が無くなろうとしている今、その思いが再び顔を出しつつあったのだ。
それでも、今、此処で彼を引き留める権利は私にはない。だから私は彼のことを、今ではなく未来に、縫い留めようとした。
『気が済んだら、イッシュに戻って来て。』
『!』
『あんたと話したいことが、まだ沢山あるの。……だから、またね。』
行ってほしくない。そう思ったけれど、でもそれと同じくらい、早くいなくなってほしいと思った。何故なら私はとてもみっともない顔をしていたからだ。
Nはそんな私をじっと見つめた後で、私との距離を詰め、そっと私の肩を抱いた。
どうしたの、と尋ねれば、彼は私に囁く。いつもは聞き取れない程の早口で喋る癖に、そんな優しい声も紡げるのだと、知る。
『泣きそうな顔をしていたから。』
その言葉に「あんたがこんな顔にしたんでしょう?」と、思いっ切りその長身を突き飛ばして笑ってやった。
私達は一頻り笑い合った。また会いたいという懇願が、また会えるという確信に変わるまで、彼は私の傍にいてくれた。
それじゃ、とレシラムに飛び乗った彼は、崩れた壁から外へと飛び出す。
まだ、まだ駄目だ。……まだ泣いてはいけない。
『トウコ!』
彼の声が空から降ってきて、私はその眩しい青に溶ける彼の姿を見上げる。
『キミは夢があると言った。その夢、……叶えろ!素晴らしい夢や理想は、世界を変える力をくれる!トウコ、キミならできる!』
私は何か返事をしようとして、しかし声にはならなかった。
堪えていたものがすぐ傍までせり上がって来ていたからだ。口を開けば言葉ではなく嗚咽が零れてしまいそうだったからだ。
『それと、』
彼は今までに見たことのないような顔で、眩しく、優しく、そして悲しく笑ってみせた。
『キミはボクが嫌いだと言っていたけれど、ボクはキミが好きだよ。』
そして彼は私に、その返事をさせないままにいなくなってしまった。
2014.11.4
トウコ編(夏)完結