18
「寒くないんですか?」
「……」
私は驚愕した。
白銀山の山頂で、麓にすら一人のトレーナーも居なかったこの山の、最も険しい場所で、まさか半袖の服を着ている人間に出くわすとは思ってもいなかったのだ。
もしかしたら亡霊か何かなのかもしれない。だって、彼は一言喋らないもの。
そう思い始めていた私に向かって、彼はモンスターボールを投げた。
出てきたのはピカチュウで、赤い頬に電気を帯電させながらこちらを鋭く見上げている。
その戦意に応えたい気持ちもあったが、私は困ったように笑って首を振った。
「……ごめんなさい、バトル、できないんです」
「どうして?」
それは消え入るような声で発せられた、しかし確かな彼の言葉だった。
「此処に来るまでに、ポケモン達が疲れ果ててしまって。まともに戦えるポケモンはこの子しかいないんです」
帽子の上で寒さに震えているチコリータを指差してそう告げると、彼は長い沈黙の末にピカチュウを仕舞い、別のボールからリザードンを出して、私に小さく手招きをした。
「麓の、ポケモンセンターまで送るから、乗って」
「……あ、ありがとうございます」
私は大きなリザードンの背中に乗り、吹雪の中、山を下った。
*
白銀山のふもとにあるポケモンセンターは閑散としていた。私と彼は、手持ちのポケモンを回復してもらっている間、お互いの自己紹介と、ちょっとしたお話をした。
彼はレッドさんといい、私よりも3つ年上の15歳だ。3年前、グリーンさんに勝利してチャンピオンになったらしい。
その後、カントー地方のポケモン図鑑を完成させてからこの山に登り、ひたすら修行を続けているそうだ。
3年前にロケット団のボスであるサカキさんを倒して、組織を解散に追い込んだのも彼だという。
私もロケット団と戦いました、と言うと、彼はその表情に乏しい顔を少しだけ変えて驚きを見せた。
実家はマサラタウンにあるそうだが、もう何年も帰っていないらしい。
お母さんに顔を見せてあげなくていいんですか?と尋ねると、彼は帽子の奥で困ったように微笑んだ。
「なんか、……気恥ずかしい」
私は彼の言うところが把握できずに首を傾げた。
男の子にはそういう、家族とのコミュニケーションに対して、気恥ずかしさを覚える部分があるのだということを、私はまだ知らなかったのだ。
回復が終わったポケモン達を受け取り、彼はポケモンセンターを出て行った。
「次に来た時には、今度こそバトルをしよう」と彼は言って僅かに笑った。私は快く了承し、それを直ぐに後悔した。
あの険しい山を、誰かとバトルができるコンディションに保ったまま、ポケモン達と登りきるのは至難の業であるように感じられたからだ。
きっと彼は凄腕のポケモントレーナーに違いない。そんな人物と互角に戦えるのはまだ先になりそうだ。
*
ハナダの洞窟で、私は見知らぬポケモンに出会った。
そのポケモンには、私の連れていたどの子でも太刀打ちできなかった。
野生のポケモンに此処まで追い詰められたのは初めてで、私は身の危険を感じた。次のボールを投げてポケモンを出し、彼等が一撃で倒れていく様に、私は愕然とした。
そのポケモンの強烈な敵意は、同じポケモンだけに向けられたものではないことを、私は漠然とではあるが感じ取っていた。
おそらく、連れているポケモンが力尽きれば、私にも容赦なく攻撃を仕掛けてくるだろう。
ホウオウやルギアに抱いた畏れとは全く別の形をした恐怖を、私はそのポケモン、ミュウツーに抱いていたのだ。
どうすれば、どうすればいいのだろう。
私は困り果てて、ポケットからとあるモンスターボールを出した。お姉ちゃんから貰った、紫色をした珍しいボール。
私はそれを、見知らぬポケモンに、投げた。
「……」
それはマスターボールといい、どんなポケモンでも捕まえることのできる、最高のボールだった。
倒すこともできない、逃げ出すこともできない。このままではポケモン達や自分自身の身が危ない。
そんな状況を打開するために、私はこのポケモンを捕まえることを選んだのだ。
私はほっと息を吐いた。あまりの恐怖と緊張で、手が震えていた。
その恐怖の冷めならぬままに、私はマスターボールを投げて、先程のポケモンを出してしまう。
「!」
現れたそのポケモンは、私の手に戻って来る筈だったマスターボールに、何か見えない強烈な力を掛けたらしい。
パリン!と粉々に砕け散ってしまったボールに私が唖然としていると、ポケモンはあっという間に洞窟の奥へと消えて行ってしまった。
どうやら「どんなポケモンでも捕まえられる最高のボール」は、ポケモンの心をトレーナーの元に留めておくだけの力は持っていないらしい。
しかし、それでも別によかったのだ。恐ろしい強さと凶暴さを持ったあのポケモンのトレーナーを、私が務められるとも思えなかったからだ。
一つ悔いがあるとすれば、お姉ちゃんから貰ったボールが粉々になってしまったという、ただそれだけ。
触らぬ「神」に祟りなし。
教訓は身に染みなければ使い物にならないとはよく聞く話だ。私は冒険をすることのリスクをあの見知らぬポケモンに学んだ。
その凶暴なポケモンすらお姉ちゃんの「お友達」で、あの神めいた強さを持つポケモンの生い立ちにはそれなりのドラマがあるのだということを、私が知るのはもう少し先の話だ。
*
久し振りにワカバタウンに戻った私は、思わぬ人物と出くわすことになる。
「どうしたの?」
「……なんでもない」
「嘘。なんでもない人はそんな嬉しそうに笑ったりしないよ」
何故かウツギ博士の研究所から出てきたシルバーは、いつかを思い出させる、弾けるような笑顔を私に向けてみせた。
彼の握ったボールには、マグマラシが入っている。もしかして、と私が立てた推測は、しかし直ぐに彼が答えとして差し出してくれた。
「盗んだポケモンを折角返しに来てやったのに、あの博士は要らないって言ったんだ。全くおかしな奴だ。
まあそのおかしな博士のおかげで、こいつはもう俺のポケモンになった訳だが」
その言葉に、私も彼の笑顔を鏡映しにしたかのように微笑む。
よかった。と思った。ウツギ博士は彼に、ポケモンを預けてくれた。彼のことを、信じてくれた。
それは他の誰でもない、彼自身のことである筈なのに、何故か私は自分のことのように嬉しかった。
「でもシルバー、とっても嬉しそう。よかったね」
「で、そういうお前こそ、こんな田舎町で何をしているんだ?」
「何をって、此処に私のお家があるんだよ。久し振りに帰って、家族に旅の話をしたくて。シルバーも、たまには家族に顔を見せてあげたら?」
すると彼はその笑顔のままに肩を竦めつつ、さらりととんでもないことを言う。
「家族なんて、もう3年くらい会ってない。俺は能天気なお前とは違って、帰る場所なんか持ち合わせていない」
私は息を飲んだ。とてつもなく大きな壁が、私と彼との間に強烈な隔絶を生んだような気がしたからだ。
しかしそれは一瞬だった。その隔絶を「気のせいだ」としたかった私は、彼のあまりにも悲しい真実を理解する前に、彼の手を取り、強く引いたのだ。
咄嗟に思い付いた「名案」に心が躍るのを感じていた。新しい世界が始まろうとしていたのだ。
それは私が初めて抱いた、必死さと憧れとその他の思いを掻き集めた、混沌とした、しかし鼓動の高鳴る感情だった。
「シルバー、私の家においでよ。シルバーの話も、一緒に聞かせて」
「……は?いきなりどうしたんだよ」
「帰る場所がないなら、私と同じところに帰ってくればいいよ」
彼の月が赤く満ちる。美しい満月には、純粋な驚愕と、ほんの少しの懐疑が混じっている、……ような気がする。
それでもいい。何を言っているんだ、と呆れられたって構わない。でも今、彼を一人にしてはいけない。彼を置いて、自分だけあの家に帰ることなどできない。
「私の家を、君の帰る場所にさせて」
そう紡いで、私は笑おうとした。けれども上手くいかなかった。こんな気持ちはやはり初めてだった。
凄まじいスピードで塗り替えられ続けてきた私の世界はどこまでも混沌としていて、もう綺麗な理屈だけで片付けられないところまで来てしまっていた。
駄々を捏ねる子供のように、私は馬鹿みたいに強い力で彼の手を握り締めた。振り払わないで、と祈るばかりだった。
彼の次の言葉を恐れるこの気持ちにも、私の想いがどうか届いてほしいと願うこの気持ちにも、名前があるのだろうか。
その気持ちに付けられた名前は、私が一人を恐れる理由を、私が彼を一人にしたくないと恐れる理由を、ちゃんと教えてくれるのだろうか。
2014.10.30
「勇躍」
Thank you for reading their story !
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