15
逃げないんですか?もう直ぐ警察が来ます。
そう尋ねた私に、彼は面白いものを見るような目をして微笑み「逃げてほしいのですか?」と尋ね返した。
今の彼はきっと、ロケット団の最高幹部ではないのだ。そんな重たい肩書を取り去った彼は、とても自由で奔放な笑みを浮かべる人だった。
お姉ちゃんが「私にそっくりな人」と言っていたのを思い出す。成る程、どうやらそっくりなのは見た目だけではなかったらしい。
私はエンジュシティに着いて以来、ずっと鞄の底に仕舞っていた手紙を取り出して、彼に渡した。
1行だけしか書かれていない、手紙と呼ぶにはあまりにも小さなメッセージ。けれど、そこに書かれた言葉が彼女の全てなのだろう。
そして、彼女はその思いを現実にする準備を済ませている。奔放でありながら聡明な彼女には、きっと私は一生敵わないのだろう。
「ロケット団の最高幹部である私が、この手紙を読んでもいいのでしょうかね」
彼のそんな問い掛けに、私は思わず考え込んでしまった。
彼の言いたいことも解る。二人の間には社会の様々な隔絶があることも知っているつもりだ。
しかし私はそれ以上に、彼にその手紙を開けてほしいと思った。お姉ちゃんの言葉を拾ってほしいと願った。
それをどう伝えようかと迷って、しかし発したのは少しだけ狡い、誘導式の質問だった。
「貴方は読みたいですか?」
「……ええ、とても」
「お姉ちゃんも、読んでほしいと思っています。きっと、それが答えです」
私が言い終わると同時に、アポロさんは目を伏せて、肩を小さく竦めながら、そっと手紙を開いた。
一瞬で読み終えてしまうであろう、たった一行の言葉を、しかし彼はあまりにも長い時間、じっと見つめていた。
私が見れば、それは再会を願うただの言葉だけれど、きっと彼には違う形として映っているのだろう。
だってこれは私ではなく、彼に宛てられた手紙だから。彼にしか分からない言葉の重みが、彼にしか拾い上げられない一行の願いが、そこにはある筈であったから。
「お姉さんに伝えてください。『随分待たせてしまいますが構いませんか。』と」
その言葉に、私は思わず笑ってしまった。
違う、違うんですアポロさん。貴方は早くても再開に数年はかかるかもしれないと思っているのかもしれないけれど、そんなことは決してない。
「お姉ちゃんは、大人しく待っていられるような人じゃありません」
アポロさんは驚いたように、その青い目を見開いた。
しかし私はそれ以上を話さなかった。私が全てを説明してしまうことを、お姉ちゃんは望んでいないだろうと思ったからだ。
奔放でマイペースな彼女は、きっと突然彼の前に現れて、彼を驚かせることを楽しみにしている筈だ。それくらいのことなら、幼稚な私にだって分かるのだ。
「アポロさん。きっと、私はまた貴方に会うことになると思います」
そう言って、私は踵を返して駆け出した。エレベーターに乗り込み、下へのボタンを推す。
上る時にはとても時間が掛かったような気がしたのに、今はあっという間に下へと到着したような気がした。
扉が開き、廊下へと一歩を踏み出すと、もうすっかり聞き慣れてしまった声が私を呼ぶ。
2匹のゲンガーを連れて現れたシルバーは「ロケット団は一斉にラジオ塔を出て行った」と報告してくれた。
私はアポロさんと戦ったことを話し、ゲンガーのモンスターボールを受け取った。
あれだけ黒服のロケット団で騒がしく溢れかえっていたラジオ塔は、いっそ清々しい程の静寂に包まれていた。
窓からそっと顔を出して下を見ると、警察の人達が、逃げ遅れたロケット団員を捕まえているところだった。
もう直ぐ警察はラジオ塔にも上がってくるだろう。私達も事情を聞かれる筈だ。
そしてそれは、子供心ながらに、とても「面倒」なことのように感じられたのだ。
「……」
私はシルバーと顔を見合わせた。
思い上がっていたのかもしれない。しかしその時の私には、彼も私と全く同じことを考えていると確信できたのだ。
「倒すだけ倒して、事情を説明しないなんて、無責任かな」
「怖いなら残ったらどうだ?」
まさか!
大きく首を振って私は笑った。この階で一番大きな窓を開け、モンスターボールを外へ向かって投げた。
私はトゲキッス、シルバーはクロバットの背中に乗り、夜のコガネシティへと飛び出した。
私は正義のバトンをお姉ちゃんに渡すために、世界の理不尽を少しでも無くすために戦った。シルバーはロケット団が嫌いだったから戦った。
後のことは、知らない。だって私達はまだ子供だ。警察だとか、報道だとか、そんなものの厄介になりたくはない。
何より今は、そんな風に我が儘になりたい気分だったのだ。いいよね、と、彼の隣で笑いたい気分だったのだ。
私達はとても愚かで、幼くて、しかしいつだって必死だった。
クロバットは重力を感じさせない速さで夜空へと静かに舞い上がる。トゲキッスもそれに続くように、ふわりと高度を上げて彼を追い掛けた。
風が頬を撫でる。
「シルバー、見て!」
ジョウトで一番の大都会であるコガネシティの夜はとても眩しい。
暗闇の中に白や黄色の星が落ちている様は、私に衝撃を与えた。ラジオ塔の最上階で見た夜景よりずっと壮大で、美しかった。
息をするのさえ忘れてしまいそうな絶景を、私は目に焼き付けていた。
「……」
ふいに隣を見ると、シルバーもコガネの町を見下ろしていた。
彼らしくない、大きく見開かれた紅い満月に、町の明かりが星のようにキラキラと映り込んでいた。
「綺麗だね」
「……ああ、悪くないな」
それが彼の心からの言葉だと知っている私は、その感動の共有を噛みしめるように笑った。
それは私が初めて抱いた、一生分の幸せを抱え込むような、息苦しい程に甘美な感情だった。
*
私達はコガネシティから北東へと向かった。私もシルバーも、持っているバッジは7つだ。
彼はきっとチョウジタウンの更に東へと向かうだろう。私もそのつもりだったが、今はとにかく、近くのポケモンセンターで休みたかった。
「そういえば、どうしてシルバーのヒノアラシは進化しないの?もう十分、強いのに」
すると彼は呆れたように私を一瞥し、「お前のせいに決まっているだろう」と言った。
訳が分からずに首を傾げると、シルバーは私の帽子の上に乗っているチコリータを指差す。
「そいつに勝つまでは進化しないって決めているんだ。進化すれば強くなるが、そんな力には頼りたくないらしいな」
「え、それって、シルバーが?」
「なんで俺がそんなことを気にするんだよ。俺は使えるものは進化だってなんだって使う。変なところに拘っているのはヒノアラシの方だ」
「……ヒノアラシの考えていることが、解るの?」
私は絶句した。彼には自分のパートナーの考えていることが解るのだ。
お前だってそうだろう、という風に彼は私を見る。私は困ったように微笑むしかなかった。
私がポケモンとのコミュニケーションにおいて、彼よりも劣っていることを自覚することはこの上ない羞恥を生むように感じられた。
しかし、その羞恥は羞恥のままでそこにあった。誰かより劣っていることへのどうしようもなく醜い感情を私が抱くのは、もう少し先の話だったのだ。
それよりも私が抱いたのはこの上ない安堵だった。
「俺はポケモンを使って強くなる」と言っていた彼も、私と同じように、もしかしたら私以上にポケモンを大切にしていると知ることができたからだ。
「シルバーはポケモンが好きなんだね。……よかった、君にヒノアラシがいてくれて」
すると彼はいつもの皮肉気な笑いを浮かべた。
先程の言葉を否定する為ではなく、いつものように私を馬鹿にする為に作られた勝気な笑顔だった。
「他人の心配をする余裕があるなら、せいぜいそのチコリータで俺に負けないように頑張ることだな」
「他人だったの?」
私は驚いたが、彼はもっと驚いていた。それがおかしくて、私は肩を震わせて笑い出した。
しかし「とっくに友達だと思っていたの」と言うのは少し、憚られてしまった。
「どうした。「とっくに友達だと思っていた」とでも言うつもりか?」
飲み込んだその言葉を彼に代弁され、私は困ったように笑って首を振った。
「そう言おうとしたんだけど、止めたの。君のことを友達って呼ぶには、その言葉はなんだか遠すぎるような気がして」
「……」
「もっと近くて大切な人のことを表す言葉を、知らない?」
親友でもない、恋人でもない、ライバル……はちょっと意味が違う。
ありきたりな言葉を呟いては否定する私を、彼の丸く見開かれた紅い月が映していた。
2014.10.27
「至福」