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電話の向こうのお姉ちゃんの声は何処か躊躇いがちに、しかし凛とした音で私の鼓膜を突き刺した。
『……コトネ、狡い私を嫌いになってもいいから、これだけ、聞いて。
ロケット団を倒しても、彼等の新しい生き方を私達は差し出してあげられない。きっとまた同じような組織が出来上がるよね。だってそこでしか生きていけない人が居るんだもの。』
「……うん、そうだね」
『でも、コトネは何も心配しなくていいから。私が何とかするから。どれだけ時間が掛かっても、必ずこのおかしな世界を変えるから。だってその為に弁護士になったんだもの。』
彼女は最初からそのつもりだったのだろう。おそらく、私がロケット団と戦ったと知ったあの日から。……いや、それよりもずっと前からかもしれない。
聡明な彼女もまた、私のように世界の理不尽が許せなかったのだろう。
しかし私よりも多くのことを知り過ぎていた彼女は、ロケット団を倒すことが絶対の正義ではないことにも気付いていたのだろう。
私は知らなかった。だから何も憂えることなくロケット団と戦うことができた。それが正しいと信じて疑わなかった。無知であることもまた、勇気を生むのだ。
だから彼女は、ロケット団を倒すことではなく、彼等を助けることを選んだのかもしれない。
私が行使した幼稚で愚直な正義の後始末を、誰に強いられるでもなく、自ら選んだのかもしれない。
『貴方の正義で救えなかった分は、私が救うから。だから迷わなくていいんだよ。』
私はぎこちない笑みを作りながら、震える声を何とか絞り出した。
「お姉ちゃんには、敵わないや」
私はきっと一生、彼女には勝てないのだろう。
私よりも多くの知識を有する人。私よりも多くの感情を知る人。そしてその結果、私よりも少しだけ慎重で臆病な人。しかし私よりも強い信念を持った人。
彼女の妹であることがこんなにも嬉しく思えたのは初めてだった。
それには悔しさや自分を卑下する気持ちも含まれていないとは言えなかったが、そんなことは取るに足らないことであったのだろう。
それは私が初めて抱いた、自分を取り巻く人間を、そしてその人の近くに在れる自分を誇らしいと思う感情だった。
「でもお姉ちゃん、私はロケット団を解散させることはできても、幹部の人を警察の所へ連れて行くことはできないよ?」
そう尋ねると、彼女はクスクスと鈴を鳴らすように笑った。
『私の好きになった人はね、悪の組織を束ねるにはあまりにも真っ直ぐで、嘘が吐けないくらい誠実な人なのよ?』
その言葉に、私も笑った。
それは全く異なる立場に居ながらにして、完全に相手のことを信用していないと言えない言葉だったからだ。
通信が切れたポケギアを握り締めていると、シルバーが私のモンスターボールも一緒に持ってきてくれた。
「さあ、お喋りは済んだか?」
皮肉を込めた笑みを湛えつつそう尋ねてきたので、私も元気に笑い返す。それ今の彼に示せる最善の信頼の形だと思ったからだ。
私の為せる信頼は、お姉ちゃんの足元にも及ばないのかもしれないけれど、それでも今示せる最良を、最善を、彼に尽くしたかった。
「お待たせ!」
*
シルバーはラジオ塔に向かう前に、私のゴーストと彼のゴーストとを通信交換したいと言い出した。
交換した後でちゃんと返すから心配しなくていい、と彼は不機嫌そうに言ったが、彼の申し出の意図が分かっていた私は笑顔で了承の意を示した。
通信交換によって進化したゲンガーは、ぽってりした丸い身体がとても愛らしかった。
立派になったね、とゲンガーに笑いかければ、彼は出会った時と同じようにケタケタという笑い声をあげて私に飛びついた。
そのひんやりした身体を撫でて、モンスターボールに戻した。
進化したゲンガーは、道中のロケット団とのバトルで大活躍してくれた。
さっきよりも倍以上に増えた団員達に、私とシルバー、2匹のゲンガーで相手をする。
揉みくちゃになりながら、私達はその人混みを掻き分けるようにしてラジオ塔へと侵入する。はぐれないようにと、チコリータはボールの中へしまっておいた。
ラジオ塔を駆け上りながら、私は展望台に続く通路を探した。
ようやくそれらしき扉を見つけ、鍵を開ける。流石に施錠されているところには団員の数も少なかった。
しかし上から連絡が入ったのか、ロケット団員が一斉にこちらへと駆け上がってくる足音がする。
私は再びゲンガーの入ったボールを取り出し、投げようとしたけれど、それを横から伸びてきた手に取り上げられてしまった。
「借りるぞ。俺が此処で戦うから、お前は上へ行って来い」
私はその意味を慌てて理解しようと努めたけれど、痺れを切らしたシルバーに、乱暴に背中を押されてしまった。
「走れ!」
「!」
ああ、託されているのだ。と、私は長い時間をかけてようやく理解した。固まっていた足を叱咤して、私は廊下をひた走った。
背後ではシルバーが2匹のゲンガーにシャドーボールを指示している。
ゴーストではアポロさんに勝てないと予想しての通信交換だと思っていたけれど、まさかそのゲンガーをこの土壇場で彼に預けることになるとは思ってもみなかった。
けれど、そこに私は彼の信頼を見た。ゲンガーが居なくても、私がロケット団の最高幹部を倒せると、彼はそう考えているのだ。
どうして私がそれに異議を唱えることができただろう?彼の乱暴な、優しすぎる信頼を、どうして裏切ることができただろう?
階段を上ろうとした私に制止を掛けたランスさん、次の階の廊下で待ち構えていたアテナさんと戦い、私はエレベーターに乗り込んだ。
徐に胸へと手を押し当てれば、心臓が大きな音を立てて震えているのが分かった。
怖いのだろうか、それとも不安なのだろうか。恐れとは少し違う感情のような気がしたが、この緊張を表す言葉を私はやはり、知らなかった。
エレベーターの扉が開くと同時に、私は最上階へと飛び出した。
ガラス張りの展望台からは、コガネシティの夜景が見渡せる。あまりの絶景に息を飲みそうになりながら、しかし私はその窓の傍に立つ男性に視線を向けた。
青い短髪、長身で細身の男性。振り返り、私を見据えるその目は、私のよく知る色をしていた。
「おやおや、ついにここまで来ましたか」
「……」
「なかなか優秀なトレーナーのようですね」
会えた。……やっと、会えた。
この人が、ロケット団の最高幹部、アポロさん。お姉ちゃんの手紙を受け取るべき人。お姉ちゃんの大切な人。
彼はモンスターボールを慣れた手つきで投げる。現れた珍しいポケモンは、おそらく炎タイプだろう。
こちらに威嚇の姿勢を見せたそのポケモンの口から、炎が少しだけ吐き出され、そのあまりの熱に、向こう側の窓ガラスがぐにゃりと蜃気楼のように歪んだ。
炎タイプに有利に戦えるのは、水タイプを持つ赤いギャラドスだ。私はそれを知っていたけれど、それでも手に取ったのはチコリータの入っているボールだった。
タイプ相性は悪いけれど、この子は私のパーティのエースだ。この子で勝てないのなら、きっと他の子達でも敵わない。
それに、どうしても確かめたいことがあったのだ。
「!」
彼は出てきたチコリータを見るなり、その青い目を見開いて固まってしまった。
間違いない。私は確信する。彼はお姉ちゃんと戦ったことがあるのだ、と。
「あの……」
私は口を開いた。先に彼に手紙を渡してしまおうかとも思ったのだ。
しかし彼は困ったようにぎこちなく微笑んだ。それは「悪の組織」を束ねる最高幹部に悉く似つかわしくない、とても悲しく寂しい笑顔だった。
「どうしました。向かって来ないのですか?」
「あ、えっと……」
「私を負かさなければ、ロケット団を解散させることはできませんよ」
私ははっとする。そうだ、私はこの人と戦う為に来たのではなかったか。これ以上、世界の理不尽で傷付く人が出ないように、私が終止符を打たなければならないのではなかったか。
お姉ちゃんも、シルバーも、私にそれを託してくれたのではなかったか。私はこの拙い正義を、躊躇ってはいけないのではなかったか。
敵である筈の彼にそう諭され、私は慌てて彼へと向き直った。チコリータに指示した最大威力の草の技は、相手のかえんほうしゃを掻き消し、ヘルガーを壁へと吹き飛ばした。
「……」
彼は次のボールを取り出そうとして、しかしその手は不自然なところで止まった。
「やはり私では無理でしたか」
そして、悲しそうに笑った。
おそらく、最初に繰り出したあの珍しいポケモンが、アポロさんのパーティのエースだったのだろう。
あまりにも潔い彼の姿勢に私は面食らい、しかし、少し考えて成る程、と腑に落ちてしまった。お姉ちゃんの言葉を思い出したからだ。
『私の好きになった人はね、悪の組織を束ねるにはあまりにも真っ直ぐで、嘘が吐けないくらい誠実な人なのよ?』
2014.10.27
「矜持」