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さて、どうしていたのだったか。
この場所で少女に敗れたことは覚えている。イベルタルを逃がしてしまったことも覚えている。
最終兵器を起動させたことも、少女が頑として自分の傍から離れなかったことも覚えている。
彼女は少年の伸べた手を勢いよく振り払って、彼女らしからぬ鋭い瞳で睨み付けていた。
憎まれる理由を何も持っていない筈の少年は、何故自分が拒まれているのか、やはり解っていないようであった。
子供達は彼女を連れ出すことを諦め、地上へと脱出した。
そうして兵器の振動音だけが煩く響くばかりとなった、地下の薄暗い空間で、少女はまるで太陽の如く美しく微笑み、そして、こう言ったのだ。
『貴方はこの兵器の正しい使い方をしている。』
『きっと、この美しいカロスから弾かれるべきなのは、他の人でもポケモンでもなくて、ただ、貴方と私だけだったんです。他には誰も要らなかったんです。』
『イベルタルを逃がした今でも、二人くらいならきっと上手に殺してくれますよね。』
倒錯的な幸福に酔い痴れたような表情、けれども今まで見たどんな彼女よりも美しかったその表情。
世界を変えるべき何もかもを奪われ、取るべき策の全てを失ったフラダリにも、その「倒錯的な幸福」はいよいよ魅力的なものに見え始めていた。
故にフラダリは、そのように微笑む少女を責めなかった。そうだなと頷きさえして、その美しいストロベリーブロンドに触れたのだった。
そうした二人を、少し離れたところで少女のサーナイトが不安そうに見守っていた。
彼女のパートナーは、彼女の選択に悲しそうな表情を見せたものの、あくまでも彼女の意思こそを尊重するかのように、ただ静かに佇むのみであったのだ。
『わたしも君もきっと愚かだった。けれども決して間違いではなかった。』
けれどもその愚かさを許さない存在がいた。少女がボールに収め忘れた、少女にその命を救われた、イベルタルであった。
イベルタルは少女を守るように、兵器と彼女の間へと割って入ったのだ。
兵器との距離があまりにも近過ぎたため、またイベルタルが拒絶の意を示さなかったため、その伝説ポケモンが持つ膨大なエネルギーは、そのまま、兵器と融合するに至った。
セキタイタウンの地下に眠る毒の花は、フラダリの想定していた以上の威力をもって暴発した。
あまりにも眩しい光がフラダリと少女の目を穿った。
崩れ落ちる天井から少女を守るために、フラダリは彼女を強く抱き込んだ。
全身を焼かれるような鋭い痛みは、火傷のそれにもよく似ているような気がした。
「……」
そして今、目を覚ましたフラダリに、少女がホロキャスターの明かりを向けている。
「……おはようございます、フラダリさん」
それは、フラダリのよく知る「少女」の姿をしていた。
全てを恐れ、全てに怯え、全てに劣等感を覚えながら、それでも懸命にカロスを走り続けていた、誰よりも弱く、誰よりも強い少女の、今にも泣き出しそうな笑顔がそこにはあった。
どうやら「死ねなかった」という事実が、少女からあの、完璧な笑みを取り払ってしまったようである。
それでも、死ぬことができず、完璧になれずにいる少女の、泣き出しそうな笑顔でさえも、フラダリにとってはひどく美しいものであった。
その認識はおそらく、フラダリが少女と出会ったあの日から、何も変わっていなかったのだろう。
「私も、ついさっき目を覚ましたんです。起こしてしまってごめんなさい。でも、どうにかしなきゃいけないと思って」
死ねなかった、という絶望を抱くこの少女は、けれども生きるために「どうにかしなければいけない」という、至極まっとうで前向きな発言をしている。
その言葉自体は、ほぼ無意識に発せられたもので、少女はそこに「生きねば」という感情を込めたつもりはなかったのだろう。
けれどもそれを聞いたフラダリには、彼女が「生きたい」と足掻いているように思われてしまった。
一度は自分と共にこの穴の中で死ぬことを選んだ少女が、この暗闇の中で再び歩き出そうとしている事実は、フラダリに大きな驚愕をもたらした。
「……この基地には非常用の部屋がある。先ずはそこに向かおう。少し歩くことになるが、怪我は?」
「大丈夫。サーナイトも私も、元気です。少し眠いけれど……」
つい先程まで眠っていた、あるいは気絶していたとは思えない程に、少女の瞳は気怠そうであった。
もしかしたら、少女の口にした「ついさっき目を覚ました」というのは彼女の虚言で、
本当は何時間も前に目を覚まし、気絶したままのフラダリの隣で、死ねなかったという事実を噛み締めつつ、さめざめと泣き続けていたのかもしれなかった。
少女は死ねなかったことに絶望していた。けれどもフラダリは絶望しなかった。
少なくとも、自分だけ死んでしまうようなことが起こらなくてよかった、とは思っていたのだ。
生きなければならない、という事実は、少女にとってこの上ない苦痛である。
その苦痛を彼女一人に押し付けて、自分だけが「楽」になることなど、フラダリには考えられなかったし、そのようなことがあってはならないとさえ考えていた。
二人は瓦礫だらけの暗闇の中を進んだ。ホロキャスターは「圏外」を示していたが、ライトの代わりとしての役目は十分に果たしてくれた。
バッテリーと思しき機械を手で探り当てて、そこにサーナイトが「10まんボルト」を浴びせれば、呆気なく基地の電気は点いた。
無機質なベッド、段ボールの中に入れられた乾物や水などの非常食、簡易キッチンに小さなテーブル。
……そうした、あまりにも簡素な、けれども身体を休めるには十分な空間が、兵器を起動させる前と変わらぬ形でそこに佇んでいた。
変化があるとすれば、壁の一部が大きく歪み、割れたところから大きな岩が顔を出していることくらいであった。
「……」
明るくなった空間の中で、改めて少女の横顔を見下ろせば、鉛色の目には夕日のように薄い赤が滲んでいて、眉はやはり不安そうにくたりと下げられていた。
けれどもそうした、不安や恐怖や絶望などの感情よりもずっと、彼女はどういう訳だか「眠くて眠くて仕方がない」といった様子で、何度もその赤い目を擦っていたのだった。
「眠っても、いいですか?」
何故、イベルタルはあの兵器に自らのエネルギーを分け与えるような真似をしたのか?
死ねなかった私達は、これからどうやって生きることになってしまうのか?
彼女がそのか細い喉で紡いで然るべきであった、それらの疑問は、けれども彼女の原始的な「眠い」という欲求によって、呆気なく掻き消され、なかったことにされてしまった。
フラダリは苦笑しながら「構わない」と、「好きなだけ眠るといい」と、穏やかに告げてから少女の手を取り、幼子のように目を擦る少女をベッドへと誘導した。
少し土の匂いがするシーツだったが、少女は微塵も躊躇うことなくそこへ倒れ込んだ。
倒れ込んで、フラダリを見上げて、眩しそうに目を細めて、そのまま目蓋を下ろして眠ってしまいそうだったので、フラダリは慌てて口を開いた。
「シェリー、わたしは少し出掛けてくるよ」
「……出掛けるって、何処にですか?」
「すぐ近くだ。大丈夫、必ず此処に戻ってくる。それからはずっと一緒にいよう。だからしばらくの間、一人で眠っていなさい。……いいね?」
彼女はふわりと微笑みながら頷き、目を細めた流れに任せて目蓋を完全に下ろし、眠ってしまった。
拍子抜けするほどに穏やかなその寝息だけが、フラダリを微笑ませるに至っていた。
「君も一緒に来るかね?」
フラダリは、部屋の隅に佇むサーナイトへと視線を向けた。彼女はその赤い目を伏せて首を振り、眠ってしまった少女の傍にいる旨の返事をした。
「そうか。なら君も眠っていなさい。きっとすぐにわたしは帰ってくるから」
サーナイトの肩を小さく叩いてから、フラダリは自らのホロキャスターを取り出した。
フラダリが「それ」を確認したのとほぼ同時に、バッテリー切れを示す明かりが2回、3回と点滅して、ふっと消えた。
フラダリには自らの行いを振り返るための時間が十分すぎる程にある。その罪を償うための時間も十分すぎる程にある。
その間、この危うい少女を一人にしてしまうことになったとしても、その別離を埋めるための、長すぎる時間さえもフラダリの手の中にある。
彼はそのことにもう気付いている。少女はまだ気づいていない。だから気付いていないうちに、フラダリは自らの贖罪を果たす必要があると思った。
彼等にとっては「一夜」に過ぎなかったこの時間。少女にとってはほんの「数時間程度」であった筈の、時間。
けれども地上の世界では、既に半年が経過していた。フラダリのホロキャスターは、あの日から6か月後の日付を示していたのだ。
イベルタルは、自分を救ってくれた主である少女を生かしたかったのだろう。
地下に閉じ込められた主を守るために、その命を繋ぎ止めるために、自らのエネルギーを兵器に差し出したのだろう。
イベルタルは、少女を「永遠の檻」に留めることで、死ぬ筈だった彼女を生かし、また同時に、彼女の「死ぬ」という愚かな選択を責めたのだ。
そしてフラダリも、少女とはまた別の理由で、イベルタルに責められるべき人間であった。故に彼が少女と同じ業を負うことになったのは、至極当然のことであったのだろう。
彼等の時は、縫い留められ、二度と動くことはない。
2017.9.26
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