55

血のように赤い花畑だった。辺りに吹き込む濃い霧の中でも、その赤の程度が常軌を逸していることくらい、よく解った。
むせ返るように強い花の香りが、白い霧の中に溶けている。気分が悪くなる程の甘さだった。
此処は自分のいるべき場所ではないのだろうと、グズマは心得始めていた。
……いや、そもそもこの濃い霧と甘すぎる香りの中では、どんな人でも心地良さなど感じていられない筈だ。
こんなにも幻想的かつ美しい花畑でありながら、この場所に人の気配が殆ど感じられないのは、もしかしたら、そういう理由であったのかもしれなかった。

『貴方は宝石を食べられる人間でよかったですね。』
きっと「彼女」にとってのマラサダは、グズマにとってのこの香りだったのだろう。
グズマが今、この甘すぎる香りを心地良いと思えないのと同じように、それ故にこの花畑から「排斥」を受けているのと同じように、
彼女もまた、マラサダの甘さを美味しいと思えず、それ故にマラサダが浸透し過ぎたこのアローラから、排斥されているように思われてしまったのだろう。

「……オレはこの甘ったるい香りが、嫌いだ」

揺れる真っ赤な花畑は、当然のように言葉を返してなどくれない。

「なあ、お前もそう言ってやればよかったんじゃねえか?」

そう言えないことにこそ彼女の歪みがあるのだと、解っていながらグズマは呟かざるを得なかった。
踵を返して花畑を後にすれば、あっという間に霧は晴れた。潮風の香りがグズマを歓迎している。馴染み深い香りだった。心地良いと思えた。
けれど、この潮風さえ「彼女」には不快だったのだとしたら。笑顔で島巡りを続けながら、潮風の香りのしない場所をずっと、ずっと探していたのだとしたら。
その場所を、ようやく見つけたのだとしたら。

……けれどグズマは祈りを背負い過ぎている。もう彼は止まれなかった。彼女を理解すればする程に、彼の歩幅は大きくなっていた。
あのふざけた子供と出会う前の自身がどのように生きていたのかを、グズマは忘れかけていた。
片手で数えられる程の回数しか、彼女とは出会っていなかったというのに、おかしな話だ。
そんな些細な回数よりも多く、長く、グズマは彼女を見ていた気がした。

ポニ島の海辺に佇む村では、緩やかに時間が流れていた。
すれ違う人の歩みは気紛れに早くなったり遅くなったりした。子供達は塩辛い海へと足を浸して、ちゃぷちゃぷと小さな波を延々と作って楽しんでいた。
民家の窓から釣り糸を垂らした老人の目は細められ、いよいよ眠ってしまいそうだった。老人が一体、いつからそうやって引きが来るのを待っているのか、グズマには知る由もない。

島クイーンは村から少し離れたところに一軒家を構えていると聞き、グズマはすぐにポニの原野へと足を踏み入れたのだが、……すぐに村へと引き戻ることとなってしまった。
飛び出してくる野生のポケモンが、これまでとは段違いに強いのだ。
人の手があまり入っていないらしいこの島では、ポケモン達も本来の力を発揮しやすいのかもしれない。
思わぬところで足止めを食らってしまったグズマは、この人気のあまりない草むらを抜けるため、数日かけて己のポケモンを鍛えていた。

海の民の村に「彼女」を知る人間はあまりいなかった。此処で留まっても、時間だけが無為に過ぎていくばかりのように思われた。
けれど、だからこそグズマは丹念にポケモン達を鍛えた。
彼女についての新しい情報が入ってくることのない、静かで寂しいこの時間を使って、グズマは静かに彼女のことを考えていた。

「なあ、やっぱりお前、ぶっ壊れる必要なんてなかったんだよ」

あいつは、ぶっ壊れて生きる必要などまるでなかった。Zリングを腕に嵌めていた彼女は、気紛れな神にまで愛されていた。
自ら危険な場所へ赴き、炎に手を入れ、海を飲み、崖から飛び降り、そして眠った。そんな彼女の奇行を、彼女を知る人間は皆、案じていた。心配していた。
けれど、彼等のそうした誠意は彼女に届いていなかった。彼女は彼等の言葉に何ら価値を見出していなかった。彼女は、満足していなかった。

『私は、私にしかできないことが欲しい!』
彼女の価値は何処に在ったのだろう。彼女はどのように輝きたかったのだろう。

炎に触れられれば彼女は満足したのか、海を飲めれば彼女は輝けたのか、空を飛べれば彼女は一人にならずに済んだのか。
どの可能性も、ふわりと風船のように浮き上がり、そしてパチンと弾けて消えた。
どうしようもなかったのだ。どれを叶えたところで、どうにもならなかったのだ。

あの氷の中で眠るという、おそらくは彼女の「夢」であった事象を叶えたところで、彼女の憂慮は晴れなかった。晴れる筈がなかったのだ。
グズマのやり方も彼女のやり方も間違えていたのだから、いくらそれを極めたところで無駄な足掻きにしかならなかったのだ。

「遠回りをしすぎたんだ、オレも、お前も」

……ハラは「遠回りに見えることにも意味がある」と言った。
けれどまだグズマには、グズマと「彼女」の、この惨たらしい遠回りの意味がまだ見えない。
彼に見えないのだから、彼女にだって見えている筈がない。
グズマが暴れなければならなかった意味、彼女が「大好き」を振り撒き続けなければならなかった意味、彼が手を伸べられなかった意味、彼女が眠った意味。
見えないことの方が、多過ぎた。

……マーレインは「頼りないかもしれないけれど、一緒に考えることはできる」と言った。
けれどまだグズマには、その優しい言葉に頼るだけの勇気がない。彼等に頭を下げて共に考えることを乞える程、彼はまだ素直になりきれてはいない。
グズマでさえそうなのだから、彼女だってそう簡単に縋ろうとはしないだろう。そうした強情なところだって、やはり子供であったのだ。

「お前、寂しくないか?」

揺れる草むらは、グズマの望んだ答えを返さない。解っていたから彼は草むらからふいと顔を背けて、歩き始めた。
もうすぐポニの原野を抜ける。島クイーンが住んでいると思しき土壁の屋敷は、もうグズマの目の前まで来ている。
勢いよく土を蹴って駆け出して、その勢いで、先程まで己の中に揺蕩わせていた想いの全てを振り払う。吐き捨てるように笑えば、つい数秒前の悲しい共鳴はなかったことになる。

オレは、寂しかった。
お前が一人で眠りに行ってしまったことが、どうしようもなく、寂しかった。

ハプウと名乗った小さな島クイーンとのバトルは、けれど思っていたよりもずっと早く終わった。
ポニの原野で一人静かに鍛えていた、彼の努力と根気を認めるかのような、鮮やかな戦いぶりを彼のポケモン達は見せていたのだ。
グソクムシャやアリアドスの地道な、けれど確かに積み上げてきた鍛錬の成果は今、このバトルでしっかりと実を結んでいた。

「わー、びっくりです。スカル団のリーダーってこんなに強かったんですね」

互いのポケモンを労りつつボールに仕舞ったこの場で、一番に口を開いたのはグズマでもハプウでもなく、その二人のバトルの審判を買って出ていた若い女性だった。
大きな画材らしきものを背中に背負い、髪や服を絵の具でべっとりと汚した彼女は、
けれどそうした汚れさえも芸術であると言わんばかりの得意気な振る舞いで、ぴょこぴょこと飛び跳ねるようにグズマの方へと駆け寄って来た。

「……アンタは?」

「ポニ島のキャプテン、マツリカです。残念ながらあたしはチャンピオンに会ったことがないので、貴方の知りたがっていること、何も教えてあげられないんですけどね」

静けさを極めた、人よりもポケモンの方が住処を広く持つこの島に、キャプテンが一人だけいることはグズマも聞き知っていたので、
グズマは特に訝しむことなく、彼女が差し出した、絵の具に汚れたその手を強く握り返した。
にこ、っと音が聞こえてきそうな、少女らしい微笑みを浮かべていた。
目は穏やかに細められていたが、それは大人の証であるというよりは、ただ、眠そうにしているだけのように思われた。

「マツリカは放浪癖があってのう、それ故、ミヅキと顔を合わせることもなかったのだ」

「そうそう、あの頃は夢中で空ばかり描いていたから、キャプテンのお仕事なんてやってる場合じゃなかったんですよ」

見てみます?自信作なんですよ。マツリカは楽しそうにそう告げて、鞄からスケッチブックを取り出した。
付箋の付いたページを勢いよく開いて、彼女は得意気にグズマの方へと差し出す。その空が「普通ではない」ことくらい、グズマにはとてもよく解っている。

「……ウルトラホールじゃねえか」

「そうそう、そんな名前でしたね。蒼い不思議な空の渦潮。どうしても残しておきたくて、……ふふ、憑りつかれたみたいにこればかり描いていました」

マツリカは益々目を細めて、その唇にすっと弧を描く。
グズマは思わず空を見上げた。ウルトラホールの気配はもう何処にも残っておらず、それが逆にこの絵の美しさを際立たせているように思われた。
今の空にウルトラホールは開いていない。けれど確かに「そこ」に渦潮はあったのだ。

「彼女」を飲み込んだあの憎き黒雲が、しかし第三者の手でこんなにも美しく描かれているという事実に、グズマは少しばかり、驚いた。
同じものを見ていた筈なのに、グズマの目に映る渦潮とマツリカの目に映っていた渦潮とは、異なる形をしていたのだ。
全ての景色が常に等しい温度で万人に共有される訳ではないのだと、グズマはまた一つ、この世界の心理を知る。

「あたしも早くミヅキに会えるといいな。貴方とミヅキが並んだらどんな風になるのか、描いてみたい」

「どんな風って……一人でも二人でも姿なんか変わるもんじゃねえだろう」

「いいえ、変わります。きっとその時、貴方の笑顔はもっとキラキラしている筈ですよ」

だから今度はちゃんと「彼女」を連れて来てくださいね。マツリカはそう続けてふわりと笑い、その勢いのままに欠伸をして、両腕を渦潮のない空へと突き上げた。
グズマの見ている世界と、この少女の見ている世界は違う。それならばグズマがたとえ「キラキラしていた」として、グズマにはそれを咎める術がない。
なら仕方ないか、と呆れたように笑えば、隣でハプウが驚いたように目を見開いた。
じゃあな、と告げてからポニの大峡谷へと歩き出せば、数秒遅れてマツリカの「また会いましょうねー」という風船のような声音が、彼の大きな背中に投げかけられた。


2017.2.3

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