指の隙間から、強く握り過ぎたが故に更に溢れ出たカスタードクリームが、ひどく緩慢な速度で垂れ始めた。
その光景を楽しそうに眺めてから、少女は大きな口を開けてマラサダを頬張った。
このマラサダを食べるつもりなど、この少女には端からなかったのだろうと、だからこそ彼女は手酷くマラサダを握り潰したのだろうと、そう予測して然るべきであった。
故に彼のそうした予測に反して、その甘い揚げ菓子が彼女の口へと運び込まれたことに、グズマは少なからず驚いていた。
驚きすぎていたから、信じられなかったから、目を逸らすことができなかったのだ。
少女が口を閉じるや否や、丸飲みしたかのようにその細い喉がこくりと一回、大きく震えた。また口を開けて、かぶりついて、飲み込んだ。
ピンク色のクリームが、ルージュのような大人びた光沢で少女の唇を彩っていた。指にも同じ色のクリームと、雪のような白を呈した粉砂糖がべっとりと付いていた。
にっと笑って、自らの指に舌を這わせた。まるで指を甘いキャンディに見立てているかのように、執拗に何度も何度も舐めていた。
中指と薬指の間からちらりと見えた小さな舌は、やはり大胆な動きでクリームをそこへと絡め取っていた。
手の平にも豪快に舌を押し付けてから、残った指を一本ずつ口の中に収め、ちゅ、と小さなリップ音を立てて吸い上げた。
クリームの気配を全て取り去るために口の中へと浸され続けた彼女の指は、いよいよふやけてしまっているのではないかと思えたのだ。
「……」
グズマは何も言うことができなかった。喉を震わせることも、指先をピクリと動かすことも、視線を逸らすことさえできなかった。
何故ならそうした、ともすれば色気を醸しているとも取れる食べ方を、大胆かつ豪快に披露する少女の、その目から、宝石がぽろぽろと零れていたからである。
「……ああ、喉が渇いちゃった!ちょっと失礼しますね、水を飲んできますから」
まったくもっていつもの陽気な声音を崩すことなく、少女はそう告げて肩を竦める。そうしている間にも、彼女の宝石はぽろぽろと溢れ続けている。
その頬を滑り落ちている宝石こそ、グズマの見ている幻覚なのではなかろうか。
そう思ってしまう程に彼女は「いつも」を貫いていた。その声音は、震えることさえしなかったのだ。
いつもの調子でスキップするように坂道を駆け下りた彼女は、ざぶざぶと、黒い砂浜に打ち寄せる波を蹴るように、踵を降らして海へと駆けた。
くるふしが浸るくらいのところで彼女はすとんと膝を折り、上品なワンピースが濡れることも構わず、その裾を豪快に海へと広げた。
両手で海を掬い上げた。服が濡れるのも構わず豪快に口の中に海を流し込み始めた。聞こえる筈のない嚥下の「ごくり」という音が、グズマの耳元でいつまでも響いていた。
さっと血の気が引いた。グズマは怒鳴ることさえ忘れて彼女に駆け寄った。
いくら彼が子供のような大人であったとしても、どれだけその体躯に似合わぬ幼さを宿していたとしても、それでも彼は少女よりずっと長く生きている。
塩辛い海の水を豪快に飲み下すことが体にとってよくないことくらい、海に囲まれたアローラで暮らしていた彼にはとてもよく解っている。
そしてこの閑散とした14番道路に、この幼い少女を止められる人間は彼しかいない。海を飲むことのリスクを知らない少女を、彼しか咎めようがない。
故に彼が動く他になかったのだ。彼が、少女の愚行を止めなければならなかったのだ。
しかしその必要はなかった。彼が止めるまでもなかった。
何故なら少女が、先程まで愛おしそうに舐めていた自らの指をぐいと口に突っ込み、つい先程飲み下したばかりのマラサダを、打ち寄せる波の上にボタボタと落としたからである。
おそらくはそのマラサダと共に、少女が飲み下した海も、彼女の喉から吐き出されてしまったに違いなかったからである。
グズマが黒い砂浜に足を取られながら、それでもようやく少女の傍へと駆けつけた頃には、彼女の胃の中に漂うものはすっかり外に出されてしまっていた。
彼は愕然とした表情のままに立ち尽くした。駆け寄ったところで、もう全てが終わってしまっていたのだから、今更、何ができる訳でもなかったのだ。
できることがただ一つ、あるとすれば、縋るようにグズマを見上げる少女の、震えることさえしない声音に耳を傾けることだけであった。
「ほらグズマさん、見て」
少女の掲げた人差し指には、くっきりと歯型が残されていた。
その指先は沖へと引いていく黒い波を示している。あるいはきっとその黒い波が飲み込んだ、あのマラサダを示しているのだろう。
いや、もしかしたら、一度は飲み込むことの叶ったマラサダを泣きながら笑顔で拒むという、そうした愚行の全てを包括して「見て」と、言っているのかもしれなかった。
受け付けられない味であったのなら、そう言えばよかったのだ。人の嗜好にとやかく言う筋合いなどグズマには毛頭なかった。
ただこいつが「食べられない」「苦手だ」「嫌いだ」と、そう認めてくれるだけでよかったのだ。そうした彼女の真実こそ、グズマの求めるものであったのだ。
そうして初めて、この少女の純な歪を紐解けるような気がしたのだ。
グズマは彼女の本音に触れたかった。この、何処か自分に似た歪を呈する少女を忘れることができなかった。ただそれだけだったのだ。
「貴方達が普段食べているマラサダ、私は食べられないんです。きっと私が食べるマラサダだけ、泥の味がしているんです。私が余所者だから、美味しくなってくれないんです」
けれど少女は頑として「嫌い」と紡がない。
私がマラサダを拒んでいるのではなく、私がマラサダに拒まれているのだと、そうした、どこまでも自らを貶める発言を崩さない。
ふざけるな、と思えてしまった。どこまでも臆病な笑みを湛える少女が、ただ、虚しかった。彼女の笑みは空虚を極めていた。
「だからグズマさん、よかったですね」
顔を上げて陽気に微笑む少女の、小さく細い顎から透明な水が滴っていた。
それは果たして、少女が飲み下すことの叶わなかった海の欠片であったのか、あるいは少女が吐き出した涎と唾液であったのか、それとも、その煤色の目から零れた宝石であったのか。
グズマにはどうにも判別することができなかった。どれにせよ悲しすぎる、惨すぎることだと、そういうことしか考えられなかったのだ。
「貴方は宝石を食べられる人間でよかったですね」
歪であるということは、ただただ悲しいことなのだ。
グズマはそのことにようやく気付いた。気が付いてしまった。
*
「誰にも言わないでくださいね。マラサダを食べられないなんて、皆に知られたら弾かれちゃいますから」
ぱしゃぱしゃと黒い波を蹴りながら、少女はぽつりとそう零した。
ミミッキュをボールに仕舞い、鞄からタオルを取り出して両手を乱暴に押し当ててから、喉や顎や唇、頬や目元の全てに至るまで、乱暴にゴシゴシと拭き取った。
それでも海水のべたつきは取り去ることができなかったようで、少女は小さく溜め息を吐いた。海のべたつきを、そこに吹き付ける潮風を、厭っているかのような息の音であった。
「雨が降るといいですね」
祈るように告げて目を閉じる。その横顔が鼻歌を鳴らし始める。調子外れではあったけれども、とても流暢に奏でられている。
グズマが横槍を入れないから、彼女は歌い続けている。彼は沈黙し、彼女の好きなように歌うことを許している。たっぷりの時間を置いてから、グズマは慎重に言葉を落とす。
彼はこの少女の脆さを計り違えていた。その心はまるで、いつ爆発するか解らない時計のような危うさだった。グズマは真に恐れていた。
「エネココアは好きなくせに、マラサダは無理なんだなあ」
「え?……ふふ、だってココアは甘さの中にちょっとしたほろ苦さがあるでしょう?複雑な味がして、黒蜜みたいで、好きなんです」
「黒蜜」という聞き慣れない単語を口にした少女は、そういえばこの土地の人間ではなかったのだと、グズマは改めて思い出し、そして、少しばかり複雑な不安が渦を巻く。
マラサダを好きになれないなんて、アローラでの生活は苦痛だっただろうなあ、という直接的な不安。
そうした個人の嗜好にさえ「弾かれる」という危惧を覚える少女への、これからもそうやって、自分の感情にさえ蓋をして生きていくつもりなのか、という、根本的な不安。
この二つがぐるぐると彼の頭を掻き乱していた。生き辛い、と思った。けれどそんな彼女とグズマは「似ている」のだから、その実、彼だってひどく生き辛い性格をしていたのだろう。
けれどその生き辛さに、彼も彼女もこれまで全く気が付いていなかった。
こうして自らにとてもよく似た存在の惨状を目の当たりにしなければ、きっとこれから先も気付くことなどなかっただろう。
鏡に映したような歪を共有する相手が現れなければ、きっとグズマも少女も、その苦しさに気付くことなどなかっただろう。
歪である心は、鏡を見ないのだ。彼等は自らが歪を呈していることに気が付かないまま、疲れていくのだ。そういうものなのだ。
けれどグズマにはスカル団があった。自らを支えてくれる組織の女性と、自らをこの上なく慕ってくれる下っ端たちがいた。
更に自らの力を認めてくれる、唯一の人にだって出会えた。その人の援助を受けて、今、スカル団は辛うじて組織の形を保っているのだ。
そして何より、物心ついた時からずっと苦楽を共にしてきたポケモンがいた。その不思議な生き物が、彼に与えた力は計り知れないものがあっただろう。
……この少女にもポケモンがいる。彼女を慕うオトモダチも、オヒメサマもいる。けれど彼女はそうした自身を指して「一人」だと言う。だからこそ、不安になる。
「マラサダが食べられなくって、誰もお前を責めたり嫌ったりしねえよ」そう、言ってやれればどんなによかっただろう。けれどできなかった。
「だってグズマさん、私のことを責めたじゃないですか」と、彼女が拗ねたように笑ってそう告げる未来が容易く読めてしまったからだ。
『……それともお前、まさか自分が食えないようなものを人に渡していやがったのか?』
あれは明らかに、マラサダを食べようとしない彼女を責める言葉だった。グズマがつい先程、少女に発揮した暴力性が、巡り巡って自身の首を絞め始めていた。
そうした抗議に対して弁明を重ね、誠意を示して理解を乞える程、彼は大人ではなかった。
誰かのために言葉を尽くすことはまだ彼には難しく、そうするだけの勇気も根気も、足りなかった。
お前がマラサダを食べないことを責めたんじゃねえ。食べられないことを隠しているのが我慢ならなかったんだ。
わざとお前を煽るような物言いをしたのも、お前を不用意に傷付けたのもオレだ。オレが悪かったんだ。お前は悪くない。誰もお前を責めたりしない。
そう言えればどんなによかっただろう。けれど言えなかった。グズマとはそういう男であった。そして、だからこそ、少女の歪みに共鳴することが叶ったのだ。
2017.1.24