24

翌朝、地下の研究棟に、わたしと兄様とハウさんは集まりました。
ビッケさんに連れられて研究棟の奥へと向かいました。白く重たい扉を開ければ、気怠そうに尻尾を床へと垂らしたピカチュウと、目が合いました。

「ピカチュウさん、目を覚ましたのですか……?」

「はい、ザオボーさんや幹部の皆さんが尽力してくださったおかげで、大きな後遺症も残りませんでした。
少し混乱しているようですが、大丈夫ですよ。コールドスリープを扱ったのは初めてでしたが、ポケモンの保護と回復は、私達の……エーテル財団の十八番ですから」

そう告げるビッケさんの声音には、エーテル財団の職員としての誇りと、この組織が為してしまったことに向き合うための覚悟が滲んでいるように思われました。
兄様もハウさんも、目を覚ましたポケモン達の様子にとても安心しているようでした。
顔色は悪く、耳や尻尾は力なく垂れ下がっていましたが、それでも彼等は生きていました。
長く眠り過ぎたせいで、ベッドが冷たすぎたせいで、少し、疲れているのでしょう。時間はかかるかもしれませんが、それでも彼等は元気になれるのです。元に戻れるのです。
それならば、彼女だって同じだと思いました。たった1日しか凍っていなかった彼女なら、きっとポケモンさんたちよりもずっと早く回復するでしょう。

たった2日、彼女の笑顔を見ていない。そのことでこんなにも不安になってしまうなんて、思いもしませんでした。
けれどもう大丈夫です。彼女は目を覚まします。いつものように、笑ってくれる筈です。

わたしはとても、とても安心していました。
そしてその安心は、ベッドの上で横たわっていた彼女がゆっくりと目を開けた瞬間に、歓喜の様相へと勢いよくその色を変えて、ふわっと私の胸をいっぱいに満たしたのです。

ミヅキさん……!」

昨日、彼女の名前を呼べなかった分まで、わたしは大きな声音で彼女を呼びました。呼んで、駆け寄って、彼女の、少し色素の薄い瞳を覗き込みました。
白く冷たくなっていた彼女。氷の中で宝石のように煌めいていた彼女。けれど彼女はあんなところで眠らずとも、十分に輝いていました。
あんなにも冷たい中で眠る必要など、何処にもありませんでした。母様に捕まってしまわなければ、彼女はこんなことにならずに済んだのです。

わたしは気が付きませんでした。わたしは母様を止められませんでした。わたしはいつだって、大切な存在を守ることが叶いませんでした。
わたしの大切な存在を守り助けてくれるのは、いつも、彼女や、彼女に似た強さを持つ方でした。わたしは何もできませんでした。

そうしたわたしの無力を、弱さを、わたしは何度も彼女に謝りました。何度も、貴方が目覚めてよかったと言いました。
ごめんなさい、よかった。そうした稚拙な言葉ばかり繰り返して、何度も彼女の名前を呼びました。
彼女の姿がぐらりと蜃気楼のように揺らめいたのは、おそらく、わたしが泣きそうになっていたからでしょう。それ程にわたしは安心していたのです。嬉しかったのです。

ミヅキさん、よかった。本当によかった……!」

「……」

「ごめんなさい。わたしがもっと早く気付いていれば、かあさまを止めることができたかもしれないのに。わたし、ほしぐもちゃんのことばかりで……」

飽きる程に「ごめんなさい」「よかった」「ミヅキさん」と、何度も何度も繰り返しました。
繰り返し過ぎて喉が枯れてしまうのではないかと思う程に、声を絞り出し続けました。

……そしてわたしは、違和感を覚えました。あまりにも静かだったのです。
彼女が目を覚ましたというのに、誰よりも強く勇敢で優しくて、笑顔を絶やさない彼女が戻ってきたというのに、誰も、何も言わないのです。
ハウさんも、にいさまも、ビッケさんもザオボーさんも、沈黙していました。わたしだけがしきりに、安堵と謝罪と名前とを紡ぎ続けていました。
どうして彼女に話しかけないのでしょう。どうして「よかった」と言葉が零れ出ないのでしょう。
わたしは少しばかり不安になって、顔を上げて、目を開いた彼女の顔をもう一度見ました。

「……」

彼女の笑顔が、絶えていました。

ミヅキさん、と呼んだわたしの声は驚く程に弱々しく、みっともないものでした。けれどわたしの醜態など気にしている場合ではありませんでした。
わたしの心は、「彼女が笑っていない」という、ただそれだけのことに割れそうになっていました。
煤色の目は気怠そうに見開かれて、真っ直ぐにわたしを見つめていました。緩慢になされた瞬きの向こう、愕然とした表情のわたしが映っていました。
青いリップの塗られていない、自然な色の唇は、しかし弧を描きませんでした。頬は静かに凍り付き、綻ぶことをしませんでした。一言も、言葉を発しませんでした。
彼女が笑っていません。その事実にわたしの心は凍らされてしまいそうでした。笑っていない彼女はとても静かで、冷たくて、恐ろしい形をしていました。

この部屋は寒くない筈なのに、彼女の体温も人肌のそれをすっかり取り戻している筈なのに、
彼女の手を握り締めて「ごめんなさい」「よかった」「ミヅキさん」と繰り返し続けたわたしの方が、彼女の、眠っていた頃の温度を引き取り凍えてしまいそうになっていました。
わたしは恐怖に震えました。寒かったのです。とても寒かったのです。

気怠そうに尻尾と耳を垂らしたピカチュウの姿が脳裏を掠めました。
これが、コールドスリープの後遺症なのでしょうか。
「生き物を凍らせる」という技術は、たった1日眠っていただけの彼女から、彼女が彼女たる所以であった笑顔を完全に取り去ってしまう程の、残酷なものだったのでしょうか。
わたしは顔を上げて、縋るようにビッケさんを見つめました。けれどわたしの視線に応えてくれたのはビッケさんではありませんでした。
その隣にいたザオボーさんが、この場を完全に支配するかのような、大きなわざとらしい溜め息を吐いたのです。

「さあ、言いたいことはそれだけですか?」

わたしは彼の方を見ました。彼は緩慢な足取りでわたしの方へと、……いいえ、彼女の横たわるベッドへと歩み寄ってくるところでした。
兄様があからさまに眉をひそめて「……ザオボー、分を弁えろ」と低い声で告げました。
けれどザオボーさんは怯みませんでした。逆にサングラスの奥の目を細めて、わたしと兄様を鋭く睨み付けたのです。

「面白いことを仰る。わたしには君の方がずっと分不相応な物言いをしているように思われますよ。……さあどきなさい、お子様ではどうにも埒が明かないようですからねえ」

わたしは、後退ってしまいました。兄様もそれ以上、ザオボーさんを窘める言葉を紡ぐことはしませんでした。
ザオボーさんはわたしがそうしていたように、彼女の凍り付いた顔を覗き込み、「おはよう、いい夢は見られましたか?」と、告げました。
そしてそのまま、そっと彼女の背中に手を差し入れて、抱き起こしました。
支えていなければ再びベッドへと倒れ戻ってしまうかのように、四肢を脱力させていた彼女ですが、
ザオボーさんがゆっくりと手を放しても、しっかりとベッドに身体を起こしたままの状態で留まることができていました。彼はそれに安堵したかのように、ほっと息を吐きました。

「なんだ、元気じゃありませんか。あまりわたしを心配させないでほしいものですねえ」

「……」

「やれやれ、君はお子様の割に聡すぎるからいけない。そんな聡さを有しているにもかかわらず、あんなところで眠ってしまおうとするのだから、いよいよいけない。
……とはいえ、それが君の個性なのですから、きっとどうしようもなかったのでしょうねえ。相変わらず生き難い子だ。どうです、喉が渇きませんか?」

すると彼女は、わたしの見たことがない表情を浮かべました。
目に涙を浮かべて、ザオボーさんの方へと右手を伸べました。左手で首を、喉のところをぐいと掴み、血が出るのではないかと思う程に強く爪を食い込ませていました。
彼がガラスのコップに満たされた水を差し出せば、彼女はそれを受け取り両手に抱えました。……けれど飲むことをしないままに首を振ったのです。
まるで「これじゃない」と言っているかのようでした。泣きそうに顔を歪めた少女は、次の瞬間、本当に泣き出しました。

ハウさんと兄様とわたしは、同時に息を飲みました。ビッケさんは辛そうに俯きました。ザオボーさんだけが微笑んだまま、彼女の涙を真っ直ぐに見ていました。
彼女が激しく首を振る度に、彼女の頬を伝った涙がぽたぽたと水の中へ落ちました。透明な水に、透明な涙が混ざりました。
彼女の嗚咽はあまりにも静かでした。彼女の涙はあまりにも痛々しいものでした。

「君が代表に強要されてこの中に入ったのではないことは、君の間の抜けた幸せそうな笑顔を見て直ぐに解りましたよ。
そんな馬鹿なお子様を解凍することが、本当に君のためになるのかと、ビッケは随分と悩んでいました」

信じられないようなことを言うザオボーさんが、とても遠い存在であるかのように思えてしまいました。
わたしは何も解らないまま、怖くて、恐ろしくて、叫び出したくなって、憤りたくなって、笑わなくなったわたしの天使に縋りたくなって、手を握りたくなって。

「わたしを嫌いなさい、ミヅキ。君に必要なのはそういうものです」

……けれど今、この場でそのどれもが許されていないことが解ってしまったから、わたしは兄様やハウさんのように、沈黙することしかできなかったのです。
彼女の傍に跪いたザオボーさんが発する、おかしな言葉の数々が、どのように彼女に届いてしまうのかを、沈黙したまま見守っていなければいけなかったのです。

「彼女を説得して君の解凍を強行したのはわたしです。君が馬鹿を極めているものだから情が移ってしまった。君が望んでいないと知っていながら、わたしは君を溶かしてしまった。
さあほら、わたしを嫌いなさい、憎みなさい。水ならいくらでもあります。君は干上がったりしません。強くなくとも勇敢にならずとも、誰も君を責めたりしません」

彼女は何度も首を振りながら、両手に抱えていたコップをぐいと飲み干しました。
ガラスの外側についた水滴の量から、中の水がかなり冷やされていることが解りました。
冷たいものを一気飲みした彼女は、軽い頭痛に眉をひそめつつ、空になったコップをザオボーさんの方へと差し出しました。
ザオボーさんは苦笑しながら立ち上がり、ペットボトルを取り上げて中の水を注ぎました。彼女は再びそれを一気飲みして、また差し出しました。
3回もそれを繰り返せば、ボトルの中身は空になってしまいました。「まだ必要ですか?」との声に彼女は首を振りました。彼は呆れたように、彼女を許すように、微笑みました。

「随分と聞き分けがいいですねえ、もう少し反抗するかと思っていたのですが。……ああ、もしかして、君も寂しかったのですか?」

その問いに答えるための声を、彼女は持っていませんでした。
彼女の答えなど、端から期待していなかったのでしょう。彼は「ではお揃いですねえ」と、間延びした声音で悲しそうにそう呟くだけでした。


2016.12.31

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