74 (Interlude)

(1、ある少年の×意)
彼の行き先は解っていた。誰にも見つかりたくないであろう彼が向かうところなど、あの場所を置いて他にない筈だ。
そうしたグラジオの予測は当たり、地下2階にある悪趣味な部屋の扉を開ければ、探していた人物の姿はいとも容易く見つかった。

ハウはグラジオより少しだけ幼い少年だった。彼よりもずっと心の美しい少年だった。
その幼さ故にグラジオを助ける機会にこそあまり恵まれなかったものの、その少年が「いてくれる」ことに彼は救われていた。
そんな少年が今、彼の目の前で泣いている。膝を抱えている。背中を震わせている。
濡れてみっともない様相となっているのであろうその顔は、けれど膝の間にうずめられて、どうにも見ることが叶わない。

『ずっと一人でいればよかったのに。笑って、大好きって言って、そうやってずっと一人で傷付いていればよかったのに。ミヅキにはそれが一番、似合っていたのに。』

この幼い少年が先程、彼の友達に投げてしまった言葉。
それが適切であったのか不適切であったのかと問われれば、間違いなく「不適切」であったのだろう。
ハウの言葉には悪意があった。彼女を傷付けようとしていることなど明白であった。
いつも笑顔を絶やさず、柔らかな言葉を柔らかい声音で発することを得意とするハウの、明確な攻撃の意思にグラジオは驚いていた。
けれど彼以上に驚いて然るべきであった筈の、あの少女は、穏やかに笑ってハウの暴言を、許した。

『君は私に何を言ってもいいんだよ、ハウ。』
あれ程に柔らかな拒絶の言葉を、グラジオは他に聞いたことがなかった。

この少年は、傷付けようとした相手に逆に傷付けられてしまった。そのことに驚き、狼狽し、逃げ出した。グラジオはそのように解釈していた。
現に今、こうして彼は泣いているのだから、彼を泣かせたものは、あの少女の拒絶による絶望を置いて他にないのだと、そう思っていた。
けれどハウの口から嗚咽交じりに零れ出た懺悔の言葉は、グラジオが想定していたものよりも、幾分か複雑で、それでいて悲しいものだった。

ミヅキは何も、誰も好きなんかじゃなかったんだ。だから大好きって言っていたんだ。言わなきゃ、好きになれなかったんだ。
オレ、ずっと続けてほしかった。ずっと笑っていれば、ずっと大好きって言っていれば、いつか本当に大好きになってくれるんじゃないかって、思っていたんだ。
でももうミヅキは「大好き」って言わない。それってもう、好きになろうともしてくれなくなったってことだよね?好きになること、諦めちゃったってことだよね?」

「……」

「嫌だよ。あんなミヅキは嫌だ。だってオレはミヅキが好きなのに。ミヅキが笑顔で大好きって言うから、オレもずっと笑えていたのに」

この、笑顔を絶やさなかった11歳の少年と、博愛を絶やさなかった11歳の少女との間には、とても奇妙な共同戦線が張られていたのだと、グラジオはようやく、気付いた。
少年は無理をしてでも笑わなければならなかった。少女は本当に好きでなくとも「大好き」と唱えなければならなかった。
誰に強いられた訳でもなく、彼等が互いに望んでそうしたことであり、その笑顔と博愛の先に希望があると信じて、彼等は貫き続けていた。

ハウにとって彼女は戦友であったのだ。共に笑えていたこと、共に戦えていたこと、それこそがこの少年の幸福であったのだ。
だからこそ彼は、その戦線から退いたあの少女に憤っている。「ミヅキだけ先に狡い」と駄々を捏ねている。一人で戦いたくなくて、泣いている。

ミヅキもアローラを出て行っちゃうのかなあ。また置いて行かれるのかなあ。ミヅキがいなくなっても、オレ、ちゃんと笑えるかなあ」

嫌だなあ。ぽつりとそう零して少年はまた泣いた。グラジオは黙って少年の隣に腰を下ろし、ただ、沈黙を守った。それが、言葉を尽くせないグラジオの限界であった。
ハウが彼の隣に「いる」ことで救われた彼だからこそ、ハウの隣に「いる」ことで彼を救いたいと、思ってしまった。

たった一人の心を救うことは、世界を救うことよりもずっと難しいのだと、知った。

けれども少年は11歳であった。少女も11歳であった。
グラジオよりもずっと幼い彼等は、ずっと幼い和解の仕方をした。互いの暴言を、互いの拒絶を、忘れたように笑い合った。ぎこちなくはあったけれど、笑えていた。
ハウの心配は杞憂に終わり、少女はアローラに留まることを選び続けている。ハウはそのことをとても喜んでいる。グラジオもまた、安堵している。

誰もが懸命に生きており、誰もが懸命に誰かを想っている。グラジオにはそう見える。
そうした生き物の歩みを、想いの流れを、下らないと一笑に付すようなことはもうできない。彼はもうそこまで幼くない。
けれどその流れの中に我が身を置くことは、複雑な年頃の彼にはまだ少しばかり、面映ゆいのだ。彼くらいの年齢ならば、その面映ゆさも許されて然るべきだ。


(2、魔法使いと勇者と、あの日)
「生ける伝説」とまで呼ばれた少年、レッドが山を下りた。まだ寒さの残る3月の頃であった。
マサラタウンで彼の帰宅を待つ母も、彼を案じていた幼馴染の青年も、その昔、彼にポケモン図鑑を託したポケモン博士も、彼を知る全ての人が、彼の下山と帰還を歓迎した。
彼は自らに浴びせられる温かな感情の数々に驚いていた。喜び、感謝し、そして謝罪した。
彼の幼馴染であるグリーンは、そんな彼を笑いながら窘めた。

「お前の母さん、泣いていただろう」

「……」

「今度はもっと頻繁に顔を出してやれよ。オレもお前もガキじゃなくなったんだから、大事な人に心配かけさせるの、もうやめようぜ」

「……また、頻繁に顔を出せないような場所へ行こうとしているのに?」

それもそうだ、と弾けるようにグリーンは笑った。帰宅して早々に次の旅の話を始める二人を、レッドの母もグリーンの姉も咎めなかった。
彼等はアローラという遠い土地から、バトル施設のボストレーナーとして招かれていたのだ。
燃え上がるようなポケモンバトルを貪欲に求めるこの二人が、その招待を断る理由など、ありはしなかった。

無理をしないこと、月の初めに必ず連絡を入れること、一年に一度でいいから必ず帰ってくること、ポケモンや人に感謝の気持ちを忘れないこと。
母と姉が二人に課した条件はあまりにも緩く、けれど順守するのはどれも困難を極めそうなものばかりであった。
「任しておけ!」と胸を張るグリーンとは対照的に、レッドは「努力する」とぽつりと零すのみであった。けれどグリーンにもレッドにも同様に旅の許可は下りた。

「男の子はいつか旅に出るものなのよ」

レッドの母はそうした静かな言葉と共に、笑って彼を送り出した。
数年前と一言一句違わぬその言葉を、レッドもしっかりと覚えていたから、力強く頷き、……そして、消え入りそうな声音で感謝の言葉を紡いだ。

カントーの桜が三分咲き程度となった頃、彼等の門出の日はやって来た。
その日は前もって知らされていたため、マサラタウンのポケモントレーナーが、大人も子供も揃って二人を見送りに来ていた。
子供達はジムリーダーであるグリーンとの別れを惜しみ、大人達はまたすぐに出ていこうとするレッドを笑って許した。
マサラタウンに住む二人の少年の新たな門出に、町中が賑わっていた。

ジムリーダーであるグリーンを慕っていたトキワシティの子供達も、母親に付き添われて見送りに来ていた。
グリーンはその一人一人と挨拶を交わす中で、一人だけ、見当たらない少女がいることに気付き、子供達に尋ねた。

「なあ、今日はあの黒髪の子と一緒じゃないのか?これくらいの長さの髪型の、10歳くらいの子がいただろう?」

肩の辺りに手をひらひらとさせて髪型を示せば、彼等は顔を見合わせて一様に「ミヅキちゃん」という名前を口にした。
けれどその子の所在を尋ねる前に、一人の女の子が「ミヅキちゃんは今日、引っ越すんだよ」と、さも当然のように口にするものだから、グリーンは面食らってしまった。

ミヅキちゃんはポケモンを持っていないから、クチバシティっていう町からお船に乗るんだって」

「おいおい、今日だって?お前達、そのミヅキちゃんって子を見送りにいかなかったのか?なんでこっちに来ちまったんだよ」

ミヅキちゃんより、グリーンのお見送りの方が大事だもん!それに皆、レッドを一目見たいって集まっているんだよ。だって「生ける伝説」だもんね!かっこいいよね!」

くらくらと眩暈がした。とんでもないことが起きてしまったのではないかという、どす黒い不安が彼の背を這い上がり始めていた。
けれどもう、きっとどうしようもなかったのだ。何かしらの配慮を回そうにも、グリーンは今の今まで何も知らなさ過ぎた。仕方のないことだったのだ。

『お兄ちゃんは魔法使いみたいだね!』

甲高い声音でグリーンを褒め称えた、あの女の子は今、どうしているのだろう。
泣いてはいないだろうか。大丈夫だろうか。自分のせいだろうか。けれど何ができたというのか。何もできなかった。どうしようもなかった。けれど、……けれど。
やるせなさに拳を握り締めたグリーンと、そんな彼を悲しそうに見つめるレッドは、その「ミヅキ」の引っ越し先がアローラであることをまだ、知らなかった。


(3、太陽は二つ在るか)
私はその綺麗な少女に覚えがあった。確か、黒砂糖をプレゼントしたお兄さんの「待ち人」だった女の子だ。

「こんにちは!ねえ、君も黒蜜プリンを買いに来たの?」

彼女はびくりと肩を跳ねさせた。いっぱいに見開かれたエメラルドの瞳は、太陽の光を受けてキラキラと瞬いていた。
綺麗だなあ、と思っていると、彼女は恐る恐るといった具合に声を発した。その小さな口から零れたソプラノの声音まで、美しかった。

「一度、食べてみたいんです。大好きな人の、大好きなものかもしれないから」


2017.2.12

Next is...?

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