72

小さな小さな雨の粒でも、ずっと浴び続けていれば身体を冷やす。数十分もの間、ずっと霧雨を浴び続けていた二人が、同時にくしゃみをするのは必至であったのだろう。
思いの外、それは大きなくしゃみであったらしく、屋敷の中にいたプルメリにも聞こえてしまっていたようだ。
2階の割れた窓から「何やってんだい!」という彼女の怒声が降ってきて、二人はどっぷりとその身に纏っていた憂愁を振り払い、顔を見合わせ笑うこととなった。

グズマは壊れかけた扉にそっと手を掛けて中に入る。少女も当然のようにその後に続く。
階段を駆け下りてきたプルメリが、呆れと苛立ちを隠さぬ鋭い目つきで二人をギロリと睨んでから、綺麗に畳まれたバスタオルを一枚ずつ投げつける。

「さっさと拭きな!風邪を引いても此処には医者なんていないんだからね。
まったく、アンタがついていながらなんてザマだい。ちょっと待っておいでよ、今、エネココアを持ってくるから……」

叱っているのか諭しているのか、厳しくしているのか甘やかしているのか、どうにもよく解らない声の掛け方をしてプルメリはキッチンの方へと消えていく。
埃を被ったソファに腰を下ろせば、少女もそれに倣うようにしてぽんと隣に座った。
ふわりと埃が舞い上がり、その埃のせいで二人はまたしても同時にくしゃみをすることとなった。ただそれだけのことがどうにもおかしく、二人はまた笑った。笑えたのだ。

「楽しいね」などと彼女が間抜けな笑顔のままにそう零す。そこにまだ宝石の零れた跡が残っているように思われて、グズマは自分のバスタオルを少女の顔面へと押し付ける。
拭かなければ、と思ったのだ。だって雨を拭かなければ、この少女が「悲しんでいた」ことが知られてしまう。
彼女は驚いたように声を上げたが、そのまま頬と髪を念入りに拭き始めるグズマの手を、拒むことはしなかった。ただ心地よさそうに目を閉じて、その手に任せていたのだ。

「グズマさん、ありがとう」

タオルの下で小さく落とされたそんな言葉を、けれどグズマは聞き逃さなかった。
ぶっきらぼうに「なんだよ」と吐き捨てれば、クスクスと白いタオルが震え始める。笑っている。笑えている。

「私の話を聞いてくれてありがとう。私の言葉を否定せずにいてくれてありがとう。そうだなって言ってくれてありがとう。笑ってくれて、ありがとう」

「……おいおい、「大好き」の次は「ありがとう」か?お前も懲りねえなあ」

からかうようにそう告げれば、彼女はバスタオルを勢いよく撥ね退けて「そうだよ!」と甲高い声音で叫ぶように告げる。
大きな目は宝石のように瞬いていた。驚愕に目を見開くグズマの姿がくっきりと映っていた。
霧雨により洗い流された煤色の向こう、このキラキラと瞬く瞳には、さて「何」を見るべきであったのだろう。
残念ながらグズマは宝石の名前に明るくない。この目を形容するための上品な言葉を彼はまだ持たない。

「これからは私、ありがとうって貴方にいっぱい言いたい。だから貴方がうんざりしても、嫌になっても言うよ。言わなきゃいけないからじゃなくて、言いたいから言うんだよ」

ニコニコと笑いながら告げる少女に「そうかよ」と吐き捨てれば、彼女は「そうなんだよ」と歌うように相槌を重ねる。
「お前でも泣くんだな」と告げれば、少女はクスクスと笑いながら「嫌いになった?」と首を傾げる。
グズマは豪快に笑いながら「安心しな、元からずっとお前のことは大嫌いだよ」と、思ってもいないようなことを口にする。
彼女もまた同じように笑って「でも私はずっと大好きだったよ」と、言わなければならない言葉ではなく、言いたい言葉を奏でてみせる。

そうこうしているうちにプルメリが、湯気の立つマグカップを持って現れる。
「さっさと飲みな」とそれを二人に押し付ける。グズマも少女も互いに相応しい声音で感謝の言葉を紡ぎ、そっと口に運ぶ。
運びながら、グズマはプルメリに、エーテル財団からの雇用の誘いがあったことを簡潔に話す。驚くプルメリに少女がぐい、と身を乗り出す。

「一緒に町を作りましょうよ、私が皆の分のお仕事を貰ってきますから!」

「……へえ、随分と頼もしくなったじゃないか!そんな顔もできたんだねえ、ミヅキ

そんな顔、は彼女の笑顔を指しているのではなく、彼女の泣き腫らした目元を指しているのだと、しかし少女は気付かない。
歪な存在は鏡を見ないのだから、彼女は自身の目が腫れていることに気付きようがない。
だから「笑顔が素敵になったのだ」と、実に都合のいい解釈をして、喜ぶように、照れたように微笑んでいる。プルメリも言葉を付け足さない。グズマも何も言わない。それでいい。

「そうと決まれば、グズマが追い出しちまった皆を呼び戻さなきゃいけないねえ。……ふふ、きっと楽しいことになるよ。勿論、ミヅキも手伝ってくれるんだろう?」

プルメリは目を細めて少女の頭を撫でる。グズマが念入りにバスタオルで拭いたせいで、その髪はもうすっかり乾いている。
大きく頷いた少女からグズマへと視線を移せば、その白い髪の先からまだ雨がぽたぽたと滴り落ちていて、プルメリは思わず吹き出し、声を上げて笑い始める。
グズマの分のバスタオルは、広げられることさえされないままに、薄汚れたソファの隅に幸福の様相をもって佇んでいる。

「バスタオル、ありがとうございました」

「ああ、もういいのかい?それじゃあ預かっておくよ。ついでにそこのソファにあるバスタオルで、この馬鹿の髪を拭いてやってくれると有難いね」

そこで初めて少女はグズマの髪がまだ濡れていることに気が付いたらしく、笑いながらグズマに背を向けて、畳まれたままのバスタオルへと手を伸べる。
その瞬間、グズマは「あっ」と声を上げてしまった。驚いて振り返った少女が「どうしたの?」と尋ねるが、彼は驚愕を振り払えないままに言葉を濁した。

どうして、これまで気が付かなかったのだろう。

そう思ってしまう程の存在感が「それ」にはあった。今まで気が付かなかった自身の洞察力が、グズマには悉く未熟で異常なものに思われてならなかった。
けれど彼女と「それ」はあまりにも色が似ていた。「それ」は彼女と同化するようにそこへと佇んでいた。
そして何よりグズマはこれまで少女の声音や顔色を窺うことばかりに必死になっていて、彼女の品の良いワンピースを気に留める余裕などまるでなかったのだ。
だから、その不自然な装飾に気が付くのが遅れてしまった。異常なことではなく、きっと仕方のないことだったのだ。

彼女は不思議そうに笑いながらもグズマの声には拘泥せず、バスタオルを取り上げてグズマに、もう一度ソファへと座るように促した。
彼が腰掛けるや否や、少女は嬉々としてバスタオルを広げた。プルメリの足音が2階へと消えたのを確認してから、グズマはバスタオルに視界を覆われる前に、口を開いた。

「お前の背中のリボン、そんな形だったか?」

「!」

少女が息を飲んだのと、彼女の背中に結ばれた、金色の「リボン」がふわりと宙に浮きあがったのとが同時だった。
屋敷の天井をひらひらと舞い始めたそのリボンを、グズマは信じられないような心地で見上げる。きゅ、と金属を擦り合わせるような甲高い音がそのリボンから降ってくる。
少女は「あーあ、バレちゃった」と眉を下げて困ったように笑ってから、その「リボン」をくいと見上げて手招きする。

「カミツルギ、戻っておいで!」

神なのか紙なのか剣なのか、よく解らない呼ばれ方をしたその、得体の知れない生き物は、
けれど少女にその名を呼ばれると、まるでポケモンであるかのようにきゅっと甲高い声を上げて、ひらひらと舞いながら少女の方へと戻ってくる。
彼女はその、リボンにしては大きすぎるその生き物を腕に抱き、「向こうでずっと一緒にいてくれた、私のお友達だよ」と、得意気に答え、目を細める。

「ルザミーネさんはきっと、このワンピースを着た私を通して、このUBを見ていたの。私はリーリエの代わりだったけれど、この子の代わりでもあったんだよ」

グズマの手よりも少しだけ大きなそれは、リボンとするならば少し大きく、UBとするならばあまりにも小さかった。
見知らぬポケモン。ウルトラスぺースを故郷とするUB。グズマが恐れて然るべきであった筈の存在。
けれど彼女はそこに「友達」を見る。アシレーヌを愛するように、きっとこのリボンのことも愛している。その博愛はもう「異常」の形を取っていない。
彼女は真に、正しいポケモントレーナーの姿をしていたのだ。

「代役なんて、間違っていたのかもしれない。こんな服を着なければ、私は眠らずに済んだのかもしれない。
でも、楽しかったよ!後悔なんてしていないよ!この子とずっと一緒にいたいって思うし、このワンピースは今も私のお気に入りだし、ルザミーネさんのことも大好きだった!」

歌うように彼女は語る。それは誓いの言葉でも洗脳の文句でもなかった。
「悪い子」を宣言した彼女はもう、そうした「輝くための言葉」を紡がない。少なくともグズマの前では、彼女がいい子で在ろうと努めることは、もう、きっとない。
だからその言葉は真実であったのだと、グズマは確信することができていた。
彼女は無限に紡ぎ続けてきた「大好き」という洗脳めいた博愛の中は、本当の「大好き」がこっそりと溶けていたのだと、そうしたことがグズマには解るようになっていた。

「もしかしたら、皆に嫌われなくても、皆から排斥されなくても、私はアローラを出ていくことなんて、できなかったのかもしれない。
だってもう出会ってしまったから。もう、リーリエに、ルザミーネさんに、ザオボーさんに、そして貴方に出会う前の私にはもう、戻れないから」

傷付く前には戻れない。アローラを知る前には戻れない。出会う前には戻れない。泣く前には、もう戻れない。
グズマも少女も、もう「出会ってしまった」という事実を手放し忘れることなどできやしない。
生きるとはそうした、悉く厄介なことなのだ。悉く悲しいことなのだ。そしてそれと同じくらい、楽しいことでもあるのだ。
「でも、楽しかったよ!」と口にした少女にも、そうしたことがきっと解っている。

グズマと少女の「世界への理解」は、きっと確かな温度で共鳴している。少なくとも、あの氷の部屋よりはずっと高い温度で響いている。

少女は今度こそ、バスタオルをグズマの頭にばさりと被せた。
わしゃわしゃと乱暴にその白い髪を掻き混ぜながら、ただそれだけのことがひどく嬉しいらしく、少女はクスクスと「心地よい声音」で笑った。
グズマはこの少女の、たった11歳の子供のか細い喉が弾き出す甲高い声音に、すっかり慣れてしまっていた。もう、不快だとは思えなかった。


2017.2.12

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