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あまりにも高く構えられた鉄壁に、扉が一つだけ取り付けられている。もう見慣れてしまった、悉く閉じた町の装甲である。
けれど何故か、今は感慨深いもののように思われてしまった。この壁の内側にこの少女を招こうとしているのだという、罪悪感にも似たざわつきがグズマの不安を煽った。

スカル団の連中も、24時間ずっとはしゃいでいる訳にもいかないようで、夜も更ければ当然のように彼等は眠り、この町も静まり返っている。
頼りなく光る街灯を楽しそうに見上げ、少女は鼻歌を歌いながらグズマの手を引く。
その黒い髪は霧雨に降られて淡く濡れ始めていた。グズマの白い髪もきっと、同じことになっているのだろう。

「この町、私は好きだよ。だからもっと綺麗にしたい。皆がもっと住みやすくなるように、帰って来たくなるようにしたいなあ。
……そうだ!皆でお掃除をしようよ。ペンキを落として、瓦礫を片付けて、お部屋のベッドやテーブルをきちんと並べて、外の通りにお花を植えるの」

「雨の止まない湿気た町でも咲くような、都合のいい花があるのか?」

「え?……あはは、そっか。グズマさんは紫陽花を知らないんだね」

アジサイ、という単語に馴染みのないグズマは、「ああ、悪いな」と謝罪の言葉を口にする。
少女は驚いたように目を見開いて、そしてクスクスと笑いながら「変なの!」と歌う。
何が「悪い」のか、何が「変」なのか、いよいよ彼にも彼女にも解らなくなりつつあった。
二人はただ、自らに馴染みのある音に吸い寄せられるように、ただそれを口に含んではぺっと吐き出しているに過ぎなかったのだ。そうした、おかしな言葉であったのだ。

この町にアジサイは咲くのだろうか。

「私、カントー地方のマサラタウンってところから来たの。人の少ない田舎だったから、よくママと一緒に隣町まで遊びに行ったんだ。
公園に集まった大勢の友達と、日が暮れるまで遊んだの。幸せだった。とても楽しかった!」

電気の消えたポケモンセンターに入る。数名のスカル団員が、自らのポケモン達と寄り添って、暖を取るように眠っている。
しー、と人差し指を立ててグズマの声を禁じてから、彼女は団員の傍へと歩み寄る。鞄からミックスオレの缶ジュースを取り出して、団員の手に握らせる。
プレゼントを届けるサンタクロースの心地を味わうかのように、彼女は肩を大きく竦めて音もなく笑う。
……11歳というのは、サンタクロースの存在を信じているものなのだろうか。それともその正体に、もう勘付いてしまっているものなのだろうか。

「でも引っ越しの日に、誰も私を見送りに来てくれなかった。誰も私を覚えていてくれなかった。私は皆にとって、いてもいなくてもいいような存在でしかなかったの。
悔しくて、怖くて、寂しくて、クチバシティの港で一人、泣いたんだ」

ポケモンセンターを出て、寂れた町の寂れた通りを歩く。
穴の開いた植え込みをひょいと潜り抜けた少女は、振り返ってグズマを急かす。
膝を折り、背中を丸めてなんとか通り抜けることの叶ったグズマを、頼りない街灯がほのかに照らす。それを見た少女は、小さな指で真っ直ぐに彼の顔を指差す。
「髪に葉っぱが付いているよ」と告げて手を伸ばすが、子供の小さな背丈では、彼の白い髪に付いた葉を拭い取ることなど叶わず、悔しそうに眉を下げて笑うのみである。

仕方がないので戯れに抱き上げれば、わっと歓喜の声と共に手が伸べられた。
グズマの頭からそっと奪い取った一枚の木の葉を、けれど彼女は宝物のように両手で包み、決して離そうとはしなかった。

「私は、楽しかったよ。毎日が楽しくて、キラキラしていて、幸せだった。でもそれじゃ駄目だったの。そんなものに意味なんかなかったの。
私の幸せなんか、私の大好きだった何もかもにとっては、本当に些末でちっぽけな、つまらないものでしかなかったの。私の幸せに、価値なんかなかったの」

少女の声が耳元で聞こえた。言葉の切れ目を見計らってグズマは彼女を冷たいアスファルトの上へとそっと下ろした。
ありがとう、と朗らかに告げて、手の中の葉をワンピースのポケットに差し入れた彼女は、すっとグズマを追い抜いて、霧雨の中を軽やかに駆けた。
翼が生えているかのようだった。ステップを踏んでいるかのようだった。それはあの黒い砂浜で見た、魔方陣を描く姿に似ている気がした。

「だから私、此処ではちゃんと覚えてもらいたかったんだ。輝いていたかった。魔法使いに、勇者に、騎士に、お姫様になりたかった。そのためなら何だってしたよ。頑張ったよ。
でも、……ふふ、駄目だったね。小石はやっぱり、輝いたりしなかったね」

少女は屋敷の前で足を止める。屋根が霧雨を凌いでくれない、一歩手前のところで、雨を名残惜しく思うかのように濡れ続けている。
そうしてくるりと振り返り、灰色の外壁に囲まれたポータウンをぐるりと見渡す。愛おしいものを見るかのように、その煤色がいよいよ優しく細められる。

「このポータウンがもっと綺麗になったらいいなって、本当にそう思っているよ。でもそれと同じくらい、この町にはずっとこのままでいてほしいって、そんな風にも思うんだ。
ペンキが剥がされないまま、街灯が頼りないまま、窓が割れて植木が倒れて、花も咲かない、そんな町のまま、悲しいままで、ずっと……」

少女の小さな拳が握られる音が、聞こえた気がした。
縄を締める音に似たその鈍い音を、グズマは決して聞き逃さなかった。静寂を極めた霧雨は、その音を遮らなかった。

「グズマさんの言葉、本当だったね。皆が私を覚えてくれていた。懸命に生きている私を好きになってくれていた。嬉しかったよ。幸せだったよ。
……皆は、私が元気になったらまた前みたいに戻れるって、そんな風に期待している。応援してくれている。それってとても素敵なことだよね、幸せなことだよね」

言い聞かせるような声音、それはきっと少女がこの島巡りの間、ずっと自らに唱え続けてきた、自身への洗脳の言葉だ。

幸福の尺度を「引っ越しの日」に見失った11歳の少女。自らの幸福を「孤独」というたった一度の体験に手酷く蹂躙された、年相応に脆く危うい少女。
彼女は自らに向けられる言葉が、視線が、笑顔が、本当に「幸福」の形をしているのかどうか、いよいよ解らなくなってきている。
幸せだと言い聞かせても、それがもっともなことだと唱えても、そこに彼女の本心が付随していないのではどうしようもない。
そしてその「どうしようもなさ」を、きっと彼女も解っている。

「でも私は悪い子だから、もう頑張るの、疲れちゃった!頑張らなくても生きていけるようにしたくなっちゃった!」

ぱっと笑顔になった彼女は、笑顔と博愛を貫き過ぎた少女は、自らを「悪い子」などと称することでしか、そうした自分本位な生き方を選べない。
頑張り続けることなどできないという、至極まっとうな理を、けれどそうした期待を押し付ける側はたまに忘れる。押し付けられた側も、こうやって忘れていく。
何も悪くない筈のこと、願いと祈りを相応に持ち合わせた生き物であるならば、望んで当然の生き方を、けれど彼女は重い足取りで選び取るしかない。
その細く頼りない足には、「罪悪感」などという、まったく不要なものである筈の感情が絡みついている。グズマにはまだ、その煤色の蔦をほどく術がない。

「今までの私なら、きっとまた頑張ったと思う。頑張って、笑って、大好きって唱えて、また疲れて、耐えられなくなって逃げ出して、また誰かを傷付けて、誰かの手を煩わせて……。
そうやってずっと、繰り返していくことを選んだと思う。そういう生き方が一番「輝いている」ような気がしていたから、私、きっと何度でもそれを選んだと思う」

霧雨は降り続けている。この雨が止んだことは、あまりない。彼女が頑張らなかったことも、あまりない。

「でも今の私は、もうそういう生き方を選べない。
頑張らなくてもいいって言ってくれる人がいたから、こんな小石の傍にいてくれる人がいたから、悪い私でも大好きなままでいてくれる人がいたから、もう戻れない」

雨が止まないという異常なこと、頑張り続けなければならないという異常なこと。
けれど彼女はこの異常な土地に、アジサイという花を植えようとしている。異常な彼女は、けれど別の生き方を選び取ろうとしている。
ポータウンも、グズマも、少女も、全てが同じ形のままでとどまることなどできやしない。それが正しい。

「もう私、怖くないよ!誰に嫌われても、排斥されても、輝けなくても、構わない。そんなものに私の心を傷付けさせたりしない。私はもう傷付かない!誰も傷付けない!」

凛とした決意の言葉だった。甲高いその音はやはり美しかった。
けれどグズマはあの頃のように、相槌を打つことができなかった。「ああ」と短く声を上げるだけでよかった筈なのに、そうできなかったのだ。

「でも、悲しいね」

「……」

「輝いている人はやっぱり眩しいね。頑張ってもどうにもならないことってあるんだね。アローラの潮風はやっぱり私に馴染まないし、マラサダはやっぱり美味しくないね。
私にしかできないことなんか、ただの一つもなかったね」

……最初は、その頬が霧雨に濡れているのだと思った。
けれど違った。霧雨の粒は、そんな風に大きくなったりはしないのだ。霧雨は、そんな風に輝いたりなどしないのだ。

グズマは手を伸べなかった。彼女のそれを拭い取れる距離にいるにもかかわらず、そうしなかった。
少しでも彼の指が目元に触れれば、その宝石は零れることをやめてしまいそうであったからだ。
この少女が泣き止めばいいなどという優しいことを、グズマは更々思っていなかった。寧ろ泣けばいい、とさえ思っていたのだ。
思い切り泣けばいい。声を上げて泣き叫べばいい。何もかも吐き出したのだから、ついでに宝石だって落とせばいい。泣き疲れて、そして眠ればいい。


「生きるって、悲しいことなんだね」


これが彼女の、悉く虚しい物語。アローラという大海に投げ出された、たった11歳の少女の、冒険の記録。
自らの輝きに気が付かないまま、暴れて、眠って、疲れ果ててしまった、小石の喜劇。

「ああ、そうだな」

やっと紡ぐことの叶った相槌は震えていた。わっと泣き出した少女の頭に手を伸べて、そっと撫でた。抱き締めずとも、向こうから縋り付いてきた。
グズマもまた宝石ではなかった。故に彼女の憂いを取り払い、明るく照らすことなどできる筈もなかった。それでもよかった。それでも誓った。

小石は宝石になれない。けれど小石と共に悲しむことならできる。
彼はもう、悲しいことを恐れない。


2017.2.11

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