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ミヅキさん、最近は白い服が好きなのですね」

図書館で本を探していたリーリエの隣、私は本棚にずらりと収められた無数の背表紙を指でなぞっては、その肌触りや紙の匂いを楽しんでいるところだった。
私がクスクスと楽しそうに笑っていることなど日常茶飯事で、リーリエだって笑っている私しか見たことがなかった筈だけれど、
彼女は何故か困ったように微笑んで、「貴方がとても楽しそうだから、わたしもとても嬉しいです」と、全く同じ笑顔を示していた私の、心の浮つきをそっと読んでくれる。

ニコニコと相槌を打ち、彼女の読心術の堪能さを賞賛することだって勿論できた。
けれどそんなことは「普通」のことで、大好きなリーリエの世界に私を残そうと思ったら、私はもう少しおかしな切り返しをするべきであったのかもしれなかった。

「うん、リーリエともお揃いになれるから、私もこのお洋服、大好きなの」

けれど、そうした「異常」に固執することを忘れるくらい、今の私は浮ついていた。だから、とてもありきたりな言葉を紡ぐことしかできなかったのだ。
悉く正常なつまらない私を、けれど「特別」のベールをまとった、この真珠のように神秘的な少女は笑って許してくれた。

「わたしとも、ということは、他に白の似合う方がいるのですか?」

彼女が緑色の目をぱちりと見開いて、首を傾げた。真珠のように白い肌の奥、二つのエメラルドがキラキラと瞬いていた。
その瞬間、私は気付いてしまった。リーリエの目も、髪も、彼女と全く同じ色をしている。そして、私とリーリエとは背丈も体格も、とてもよく似ている。

「……私がもっと白い肌だったら、このお洋服も、もっと似合っていたのかもしれないね」

「でもわたし、ミヅキさんの健康的な肌の色、好きですよ」

「わあ、そんなこと言ってくれるなんて嬉しい!私もリーリエのこと、大好きだよ!」

この可愛らしい、海の中の真珠のような、繊細な砂糖菓子のようなお友達のことが大好きだ。
私はこの、とても綺麗なお友達の代わりをあのお屋敷でしていたのだと、そう認めれば少しばかり誇らしくなった。

リーリエを妬むことなんか誰にだってできる。何故私はリーリエになれなかったのだろうと、私があの人の本当の子供だったらよかったのにと、そんなこと、誰にだって思える。
だから私はそんな下らないことなど考えない。私はリーリエのことだって、ルザミーネさんのことだって大好きだ。
その「大好き」を歪ませる感情に価値などないから、いつものように笑って踏み潰した。
あの宝石のような女性の子供でないことには必ず素敵な意味がある。そう言い聞かせて私はいつものように笑顔になる。
笑顔のままに醜い感情を踏み潰せば、私の残酷な思いなどなかったことになる。

でも、貴方の数奇な運命は少しばかり羨ましい。私にはその羨望を踏み潰すための足が、足りない。

「この指輪とお洋服、リーリエのためのものだったんですね」

キラキラと光るシルバーの食器でビーンズローフを切り分けながらそう告げれば、カチャリ、と、彼女の言葉で言うところの「行儀の悪い」音がした。
こうした綺麗な食器で食事をする時には、音を立ててはいけないらしい。……というよりも、食べる時に音を立ててはいけないのは、アローラ特有のマナーであるようだった。
お茶を飲むときや、お蕎麦を食べる時に使う「すする」という動作はしかし、アローラではひどく下品な、無作法なものであると思われてしまうらしい。

カントーでは正常なことが、アローラでは異常である。そのことは私を少しばかり驚かせた。
アローラは私にとって悉く異文化の様相を呈していたから、初めの頃はこの土地を大好きになるのに少しばかり苦労した。
その最たる例が食文化であり、彼等がカントー地方の「すする文化」を許容できないのと同じように、私にだって受け付けられないものがあった。
それは、マラサダだった。ハウの大好きなあのお菓子を、私はどうしても美味しいと思うことができないのだ。胸やけがして、気持ちが悪くなって、どうにも飲み込めないのだ。

異常なことを「する」というおかしさは私にとって歓迎すべきものだったけれど、正常なことが「できない」というおかしさは耐え難い屈辱だった。
だから私は今も、マラサダのお店のある町を訪れる時は、少しばかり緊張する。
異常なことを笑顔で為す自分のことは好きになれるけれど、正常なことのできない私は、嫌いだ。

ルザミーネさんもマラサダが嫌いなのかもしれない。この白い空間に、あの揚げ菓子が持ち込まれたことはただの一度だってなかったから。
彼女はプティングが好きだった。小さなチョコレートのお菓子も好きだった。口の中に入れればほろりと溶けるような、宝石のようなものばかり食べてこの女性は生きていた。
マラサダは、宝石ではない。だからきっとマラサダはこの食卓に運び込まれない。

「どうしてあの子を知っているの?」

皿に落ちたナイフを拾い上げることを忘れた彼女は、愕然とした表情のままにそう尋ねた。
レタスとトマトとビーンズローフの乗った白いお皿が、まるで彼女の指先が躍るためのステージのように思われた。
私の前にも同じ真っ白のお皿がある。けれど私が食べているのはビーンズローフ以外の何物でもない。
彼女が食べているのは、ビーンズローフの形をした宝石だ。彼女はそうやって生きてきたのだ。
お揃いのことをしているのに、どこまでもお揃いになれない気がした。それはとても寂しいことのように思われたけれど、絶望する程のことではなかったのだ。

「リーリエは島の遺跡に興味があるみたいなんです。私も島巡りをしているから、私の行き先とリーリエの行き先がほぼ同じだから、一緒に旅をしているんですよ」

この宝石のような女性には、宝石のような何もかもが似合うのだ。この人にマラサダは似合わない。
そう思うことで私はとても安心できた。彼女が笑顔でマラサダを頬張るようなことがあれば、私はいよいよこの大好きな土地に排斥されてしまうように思われたからだ。

「このまま、リーリエと行き先がずっと同じだったらいいなって思います。私、リーリエのことも大好きなんですよ!」

「どうして?」

「だって貴方と同じ目と髪を持っているから!私はいろんなことをしても貴方とお揃いになれないけれど、リーリエは生まれた時からずっと貴方とお揃いだから!」

私が緑のコンタクトレンズを嵌めても、彼女やリーリエのような目にはならなかった。髪を金色に染めても宝石のようにはならなかったから、直ぐに別の色へと染め直した。
リーリエもきっと、宝石を食べて生きているのだ。キラキラしたものに囲まれて、キラキラした世界の中心で生きてきたのだ。
私は宝石を飲み下せないから、彼等になることなどできないのだ。

「私、貴方やリーリエみたいなキラキラした人になりたいんです」

ルザミーネさんも、リーリエも、数奇な運命の中で輝きながら生きている。私はその世界の外にいる。
だから最初、私はリーリエのことが少しばかり怖かった。ルザミーネさんを見て恐怖に震えたのも同じ理由だ。
私は、彼女達のようなキラキラした存在に排斥されることが怖かった。私の幸福が、その宝石に奪われてしまうように思われたのだ。
これは私の物語なのに、よりキラキラした存在によって、その物語がいとも容易く書き換えられてしまうような気がしたのだ。どうしても、恐ろしかった。

だから私は、私にしかできないことを手に入れなければならなかったのだ。私なしでも美しく回る世界に、甘んじている訳にはいかなかったのだ。
だって、これは私の物語である筈なのだから!宝石を飲み下せない私がこの地に呼ばれたことには、意味がある筈なのだから!

「……貴方みたいに素直で可愛い子が、わたくしの子供だったらよかったのに」

そんな中、彼女はぽつりと、私が今日の昼に図書館で踏み潰した筈の、残酷な思いをあろうことか言葉にしてしまったから、
私は焦って、慌てて、怖くなって、「私は、そんなこと思いません!」と上擦った声で言い返した。
「あら、どうして?」と、責めるように彼女は目を細めた。彼女の手が氷のように冷たかったことを思い出して、私は僅かに身体を震わせた。

私は今からこの女性に嫌われようとしているのかもしれない。だから私は口を閉ざさなければならなかったのだ。「ごめんなさい」と謝らなければならなかったのだ。
けれどこうして更に言葉を続けてしまったのだから、やはり私はグズマさんの言うように「ぶっ壊れている」のだろう。構わなかった!

「だって私、貴方の子供じゃなくても貴方を大好きになれました。だから貴方の子供じゃなかったことには、何か素敵な意味があるんだって信じています。
私、全てのことに理由があると思うんです。運命はサイコロを振るように決まるものじゃないんです。
私がアローラにやって来たことにも、貴方と出会えたことにも、リーリエの代わりをしていることにだって、全部、きっと素敵な理由があるんですよ!」

その「素敵な理由」の存在を示す、確固たる根拠など何も持っていなかった。私はそうした、根拠のない希望を大仰に振りかざすことが得意だった。
それが知的な大人をどれほど苦しめる言葉であるか、私には全く思い至らなかった。私はそうした、悉く異常な人間だった。子供は、異常なものだ。

「貴方は身を焦がすような不条理に蝕まれたことがないのね」

だから、彼女が冷たい声音でそう呟いた時も、私はただ為すべきことが解らずに、ナイフとフォークを構えたまま沈黙するしかなかったのだ。

「貴方は愛した人を喪ったことも、息子に裏切られたことも、娘に逃げられたことだってないのね。貴方の愛した人は、皆等しく貴方を愛したのね」

この宝石のようにキラキラした女性が、愛した人を喪った意味。彼女の息子が彼女を裏切った意味。リーリエが彼女の元を去った意味。
彼女はそれを私に問うている。これらの残酷な不条理に「素敵な意味」があるのかと、あるのなら答えてみせろと私を糾弾している。
私は彼女の問いに答えるための言葉を持たず、ただ息を飲むしかない。子供は異常な程に残酷で、卑怯だ。

「貴方が羨ましい」

彼女は「不条理」を知らない私を責めていた。私は謝罪の言葉を紡ぐことすらできず、彼女の絶望したような表情にただ、驚いていた。
宝石に、傷など付かないものだと思っていたから。


2016.11.26

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