69

エーテルパラダイスの保護区にグラジオとハウはいた。
グラジオは少女の姿を認めるなり駆け寄ってきて、UB事件の折に彼女に頼り過ぎてしまったこと、重すぎる役割を背負わせてしまったことを、謝罪した。
少女は目を見開いて驚きを露わにし、気にしないで、と言うようにぶんぶんと首を乱暴に振って、「でも、楽しかったよ」と、彼女らしい言葉を紡いだ。

ハウはゆっくりと歩みを進め、少女にふわりと笑いかけた。
よかった、心配してたんだー。元気そうで本当に安心したよ。ウルトラスペースはどうだった?お腹、空かなかった?
……といった陽気な声音で、意味のあることもないことも混ぜこぜになって放たれるものだとばかり思っていた。グズマも、そしておそらくグラジオもそのように想定していた。
けれどこの少年はその笑顔のままに、この場の誰も予想していなかった言葉を、さも当然のように、紡いだ。

「どうして戻ってきちゃったの?ずっとあっちでいればよかったのに」

「……」

「ずっと一人でいればよかったのに。笑って、大好きって言って、そうやってずっと一人で傷付いていればよかったのに。ミヅキにはそれが一番、似合っていたのに」

グラジオが為した自然な謝罪には驚きを露わにした少女が、けれどハウの不自然な罵倒には眉一つ動かさなかった。
さっと顔を青ざめさせて「ハウ、止せ、」と制止したグラジオの言葉を、けれど少女はその穏やかな顔のままに「いいよ」と更に、制した。

「君は私に何を言ってもいいんだよ、ハウ」

すると彼は手ひどく傷付いたような表情になって、彼女の肩をぐいと押しのけ、三角のエレベーターホールに飛び乗り、拳を叩きつけるように作動ボタンを押した。
彼の姿が床下に沈んでから、グラジオは渋い顔のままに、またしても「すまない」と謝罪の言葉を紡ぐのだ。そして少女はまたしても、驚くのだ。

「悪いな、許してやってくれ。あいつはミヅキよりも、きっと、ずっと子供なんだ」

「気にしていないよ。それよりグラジオはいいの?君は私を嫌いにならなくていいの?」

「……そんな必要が何処にある?母を連れ出してくれた。UBを保護してくれた。それらに感謝こそすれ、嫌ったり憎んだりする理由なんか、何もない」

凛とした声音であった。悉く大人の形をしたその言葉に、けれど少女は興味を失ったかのように「ふうん、そうなんだ」と告げて、別れの挨拶もせずに彼へと背を向けた。
けれどグラジオも、そうした少女の態度に傷付いた様子を微塵も見せなかった。
凛とした表情のままにグズマを見上げて「ザオボーなら1階の屋敷にいる」と、おそらくは少女が最も会いたがっている人物の名を、告げた。

3人はエレベーターに乗り、グズマは1階のボタンを押し、その後でグラジオは地下2階のボタンを迷わず押した。
一般人の立ち入りが許されていないその地下が、ハウの逃げ場であることを、グラジオはよく理解しているのだろう。少女はそんな彼を一瞥するのみで、やはり何も言わなかった。

1階の、最早懐かしささえ覚える中庭の風景が飛び込んでくるや否や、少女はスキップでもしそうな軽い足取りで、ぴょこぴょこと白い床を蹴った。
白いワンピースに結ばれた金のリボンは、そうした彼女の跳躍を受けてふわふわと揺らめいていた。潮風では作れない揺らぎの形を、リボン自身も楽しんでいるようにさえ見えた。
「じゃあな」と小さく手を振って挨拶をするグラジオに、少女は今度こそ「またね!」と朗らかな挨拶を返した。グズマも大きく手を掲げて挨拶の意を示した。

グラジオの姿が地下に消えるや否や、少女はくるりと踵を返して中庭を駆け出した。その横顔には、先程、ハウに投げつけられた言葉の余韻など、まるで残されていなかった。
やれやれ、と溜め息を吐いてグズマは少女の後を追う。白い床を蹴って走りながら、ああ、懐かしいなと思わず微笑む。
少女にとってこの空間は馴染み深いものであったのかもしれないが、それはグズマにとっても同じことであった。寧ろグズマの方が、この島で強く太い縁を結んでいた。
その縁が正しい形をしていようとそうでなかろうと、構わなかった。ただ生きるために必要であったのだから、その是非を問う必要などまるでなかったのだ。

大きな扉をぐいと開けるや否や、少女は目的の人物を見つけたらしく、「ザオボーさん!」と甲高い声音で叫んで、再び全速力で駆け出した。
いつかのように青いノートを開けて壁に凭れ掛かっていた彼は、少女の姿をその大きなサングラスに映すや否や、その奥で何色なのか解らない目をくっきりと見開いた。
その細い体にタックルするように飛び付けば、少女と壁との間に圧し挟まれた彼はぐっと鈍い呻き声を上げた。すうっとその目が苦痛に細められた。

「ただいま!」

先程まで読んでいたらしい日記が、ばさりと白い床に落ちた。彼は眉をひそめて少女の顔をまじまじと見つめ、そして次の瞬間、あらん限りの力で抱き締めた。
グズマは呼吸をすることさえ躊躇われた。どうやって存在を限りなく薄くしていようかと、そうしたことばかり考えていた。
大人の、こんなにも痛烈で真っ直ぐな想いの発露を目の当たりにしたのは、初めてのことであったから、彼はいよいよ当惑していたのだ。

「……馬鹿ですねえ君は。ええ本当に厄介な個性だ。うんざりですよ」

「でも、私のこと、嫌いにはなってくれないんですよね」

なってくれない、などという不気味なことを出会いがしらにぶつけて、自らをぐいと見上げる少女を、けれど大人を極めたこの男は笑って受け入れている。
受け入れて、許して、頭を撫でて、髪に触れて、静かに笑って、そして、苦痛にではなく安堵に目を細めて、口を開く。

「ええそうです、君がわたしを嫌ったとしても、わたしは君のことが好きですよ」

「あはは、私の言葉を奪い取る貴方のこと、嫌いになっちゃいそうです」

「ええ、ええ構いませんとも。ですがわたしはそんな君と一緒にソバを食べたくて仕方がないのです。……よければ君も食べていきますか?」

灰色のパスタ、と以前に説明を受けていたその食べ物に、グズマも少なからず興味があったため、ザオボーに視線を向けられた彼は小さく頷き同意の意を示した。
少女はぱっとその顔に花を咲かせて「でもお蕎麦を好きな貴方のことは、大好きですよ」と、実に子供らしい気紛れな文句を紡いだ。
彼の細い腕をぐいと掴み、ダイニングの方へと駆け出す。ザオボーは苦笑しながら、己の腕を取る彼女を許している。

灰色をしたパスタは、細く切った海苔を浮かべた茶色いスープにくぐらせて食べるものであるらしかった。
その奇抜な色にも、独特の食べ方にも、馴染みのないグズマは驚いていたのだが、
何よりも彼を驚愕に至らしめたのは、2本の串でそれを器用に掬い取り、あろうことかその麺をズルズルと音を立てて吸い込む少女の姿であった。
並一通りの常識を備えているとばかり思っていた彼女の、さも当然のように行われた奇行にグズマは目を丸くした。フォークを動かすことを忘れる程の衝撃だったのだ。
ザオボーが「向こうではこうやって食べるのが正しいそうですよ」と助け船を出してくれなければ、グズマはその表情で、不用意に少女を傷付けてしまっていたかもしれない。

……もっとも、ハウのあのような言葉にも一切、傷付いた素振りを見せなかった彼女が、グズマのそうした表情程度で本当に傷つき得たのかは、定かではない。
この少女は誰に何を言われたところで、心を揺らさず平然としているものであるのかもしれない。少なくとも、悪意ではこの少女は壊れない。壊せない。

「変な食べ方ですよね、ごめんなさい」

ダイニングにはザオボーと少女とグズマ、そしてソバを茹でてくれたらしいビッケという女性が、一つのテーブルを囲んで座っていた。
木で出来ているらしい、先の少し細くなった二本の串を使ってソバを食べているのは、少女だけであった。
グズマもザオボーもビッケも、構えているのはフォークであり、当然のようにそのフォークで、灰色のパスタを絡め取っていた。
「本来はあの串を使ってつまみ上げるものなのだ」と説かれても、今、その正しい食べ方を実践しているのは彼女だけであり、傍から見れば異常なのはやはり彼女の方であった。

「少数派が異常になる」という悲しい理を、きっと少女も理解している。だから笑顔で、自分の為している正しいことを、正しい筈のことを謝っている。
彼女は自らの異常性を心得ている。フォークでソバを巻き取らない自分を責めている。だからこそ、笑って自らの食べ方を「変」と称する。グズマにはそんな少女を慰める術がない。

「ところでミヅキ、彼は君をぶっ壊すことなどできなかったでしょう?」

海苔のついたフォークを皿の上に置き、ザオボーはそんな言葉を紡いだ。
何のことを言っているのか、グズマには解らなかったが、この2か月間、週に一度のペースで文字の遣り取りをしていた彼女には解っているのだろう。
肩を竦めて悔しそうに、困ったように「そうなんです」と口にした。まるで「ぶっ壊される」ことを望んでいるようなその言い方にグズマは息を飲んだ。
忘れかけていた、この地下に眠るあの冷たい部屋を思い出した。「彼女はもう眠らない」などという確信は、存外、危うく脆いものであったことを彼は悟り始めていた。

「君はもしかしたら、彼の傍でずっといれば、彼が気紛れに君を傷付けてくれるのではないかと期待しているのかもしれませんが、……きっともう、そんなことはあり得ないのですよ」

「……」

「彼はもう、君のためだけの暴力など振るいようがない。彼はもう君と同じ心地に足を下ろすことができない。彼はもう君と「お揃い」ではない。
そうした時間だったのですよ。彼が、君に会うために費やした2か月というのは。……君も薄々、気が付いていたのでは?」

違う、とグズマは怒鳴りたくなった。
自分の時間は、この少女の腕を掴むために存在していたのであって、彼女をこちらの世界へと連れ戻すことだけを考えていたのであって、
……彼は、そんな風に彼女の顔を陰らせることなど、微塵も想定していなかったのであって。

「君はもう少し、大事にされることを覚えるべきだ。もう誰も、君を蔑ろにしてなどやりませんよ。君がどれだけ、わたしや彼を嫌ったとしても」

それは「彼女」の言葉である筈だった。その歪な感情は、彼女の十八番であった筈なのだ。
どんなに蔑ろにされようとも、嫌われようとも、傷付けられようとも、少女は常に笑っていて、常に「大好き」を振り撒いていた。彼女の笑顔と博愛はいよいよ狂気の沙汰であった。
今、全く同じことを自身に浴びせられた少女は、自らのそうした博愛がどれだけ鋭利で残酷なものであったのかを、とうとう、知ってしまおうとしている。
極められた善意は、この少女には毒なのだ。だから彼女は言い返すことができないのだ。

「あーあ、残念だなあ」

諦めたようにそう告げて、再び二本の串を構え直し、ソバを掬い上げてにっこりと笑う。
彼女はいよいよ楽しそうであった。グズマはいよいよ恐ろしくなり始めていた。


2017.2.10

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