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大嫌い、大嫌いと繰り返す彼女の悲痛な声音を聞いているうちに、グズマはこの空間が悉くおかしな様相を呈しつつあることに気が付き始めていた。
少女の方は、そうした「大嫌い」などという言葉のナイフを向ける度に、ゆっくりと、しかし確実に傷ついていた。
彼女はナイフを手に取るところまではできたものの、その向きを完全に見誤っていたのだ。逆手で握ったナイフがどちらに突き刺さるのか、彼女はまるで解っていなかった。

一方、彼女の母はそうした彼女の言葉など歯牙にもかけないといった風に、ただニコニコと微笑んでいた。
……いや、少し語弊があるかもしれない。少女の母は泣きそうに顔を歪めていたし、その頬だって引きつっていたからだ。
けれど、それでも彼女は怒鳴ったり泣き出したりすることをせず、ただ真っ直ぐに娘の言葉を受け止めていた。
彼女がどれだけ「大嫌い」を繰り返そうとも、母はそれを許していたのだ。

「知っているわ。それでもママはミヅキのことが大好きよ」

大嫌い、を受け止めて、大好き、を返していた。それはまるで、島巡りをしていた頃の少女のようであった。
あの頃の少女の危うさが、そのままの温度をもって、けれど少女のそれよりもずっと安定した、慈悲深い心地をもって彼女の母の目に降りていた。
細めた目は、いっそ殺してくれ、と思うほどにいよいよ優しかった。グズマは驚いていた。少女は、もっと驚いていた。

『貴方はいくら憤っても憎んでも構わない、それでも私は必ず貴方を想うから。何があっても拒まれようともなじられようとも、貴方を見限ったりしないから。』
そうした、神の意思にさえ似た情愛を向けているかのようであった。……いや「ようである」などというものではなく、本当にそうであったのかもしれなかった。
きっとこの女性は真に、「母」という生き物でなければ示しようのない想いを、彼女のかけがえのない存在に向けているのだ。
そして「我が子」という生き物は往々にして、そうした想いを受け止めきれない。まっとうに生きてこられた子供でさえ、その想いはやはり重く、受け止めることは困難を極めるのだ。
とりわけ、ひどく愚かで歪な形を取ることしかできなかった少女には、どだい無理な話であったのだろう。

「輝いていないママのこと、アローラに溶け込めていないママのこと、みっともないって、可哀想って思っているのよね」

更にグズマは、少女がそうした、眩しすぎる程の「善意」にめっぽう弱いことを知っている。
彼女は悪意を喜び善意に困る人間であった。異常を極めた、いや異常になることを極めた彼女には、どこまでも正常でまっとうな「母の愛」というものは寧ろ、毒であった。
故に彼女の側が打ちのめされてしまうのは、至極当然のことであったのだろう。
だからグズマは黙っていた。少しでも余計な言葉を投げてしまえば、ナイフを逆手に持ったこの少女は壊れてしまいそうであったのだ。

「でも、ごめんね。それはママの幸せには全く関係のないことなの。誰に何を言われようと、どんな風に見られようと、ママは今がとっても幸せだから、いいの。
ママのことを嫌いなミヅキが、大嫌いってママを睨み付けるミヅキが、それでも此処に帰ってきてくれたんだから、もういいの」

真に母の形をしたこの女性は、少女の持っていない「幸福の尺度」を語り、笑う。それは他者のどんな言葉にも、どんな存在にも揺らがない、彼女だけのものであった。
彼女がこのような場においても笑えているのは、そういった理由なのだとグズマはようやく勘付くに至ったのだ。

「ママの幸せは誰にも奪えないわ。貴方にも」

「……大嫌い」

「ええ大丈夫よ、もう解っているわ。ね、だからそろそろやめましょう。そうでないと、ミヅキが益々辛くなっちゃうわ」

……なあ、お前の負けだよミヅキ
オレはお前をぶっ壊せなかった。どんな悪意にもお前は屈さなかった。でもお前はこんな優しい人間の優しい善意に、あまりにも呆気なく壊されちまうんだ。
こういう「母」とかいう生き物に、オレやお前みたいな人間が正面からぶつかったところで敵う筈がねえんだ。そういうもんなんだ。逃げることなんか、できなかったんだ。

グズマは腹の中でそう、彼女に語りかけた。声には出さなかった。そのようなことをして彼女を益々壊すつもりなど、彼にはもう更々なかったのだ。
彼が手を下さずとも、この少女は砕けてしまうのだろうと、分かってしまったから彼は何も言わずに、それらの言葉を息とともに飲み込んでなかったことにした。

「ママは可哀想だよ」と、尚も負け犬の遠吠えを続ける少女に、やはり母は穏やかに微笑みながら「あら、そうかしら?」と困ったような口調で告げる。
心外だ、という気持ちを少なからず持ちながら、けれどそうした少女のささやかな暴言さえも許すように、笑っている。

「こんなみっともない私が娘だなんて、やっぱりママは可哀想だよ」

「ママはミヅキのことを、みっともないなんて思わないけれど……ミヅキにとってはそうなのかもしれないわね。
でも、それもいいのかもしれないわ。今がみっともないことはきっといいことなのよ。だってそれはミヅキが、これからどんどん素敵な人になれるってことじゃない!」

「大好き」も「大嫌い」も、この少女にとっては同じことであった。けれど違ったのは「その先」だった。
「大好き」は、そう繰り返して媚びを売って取り繕えばそれでおしまいだ、そこから続くものなど特にありはしない。
生温い壁は相手も自分も守ってくれる。そうして二者はどんどん遠くなる。「大好き」は拒絶の言葉であったことに、誰も、彼女自身でさえきっと気が付いていなかった。
けれど「大嫌い」にはその続きがあるのだ。壁を取り払って、悪意をぶつけて、そうして初めて触れられる温度があるのだ。立ち入ることを許される領域があるのだ。
これはそうした、未来を見るための言葉なのだ。

「帰ってきてくれてありがとう。貴方の好きなものを作ってあげられたらよかったのだけど……」

そこでようやくグズマは「こいつは、アンタの作ったミネストローネが好きみたいだぜ」と告げようとしたのだが、それには及ばなかった。
少女がそっと顔を上げて、ぎこちなく頬を緩め、困ったように拗ねたように、けれどひどく安心したように、笑ったからだ。

「ママの料理が美味しくなかったことなんか、一度もなかったよ」

おそらく家族というものは、良くも悪くも重すぎる鎖なのだろう。子供の様相を呈しているグズマにも、そうしたことが分かってしまった。
鎖を巻かれた少女は、けれどその重りを喜ぶように顔を歪めた。涙はまだ零れなかった。

夕食はミネストローネではなくきのこのクリームパスタであったが、彼女はとても満たされた心地であるように、微笑みながら食べていた。
フォークで器用にくるくるとパスタを絡めていく様を見ながら、グズマも同じパスタを口に運んだ。

当然のようにその食卓には、グズマの母も同席していた。
自らの子供が戻ってきたことへの喜びを、きっと彼女たちは少女とグズマの制止がなければいつまででも語り続けていただろう。
母にとって「我が子」というものがどのくらい「かけがえがない」ものなのか、母になったことのない少女にも、父になったことのないグズマにも想像することしかできない。
その心地は、まだ子供の様相を呈している二人には到底、解らない。きっとそれでいい。

きっと少女の母も、グズマの両親と同じように、我が子に問いたいことが山ほど、あった筈だ。1日や2日、彼女を引き留めようとしたところで罰など当たらない気がした。
けれど彼女はそうした自らの望みをおくびにも出さず、「ミヅキを心配してくれていた人に、挨拶をしていらっしゃい」と、にっこりと笑って彼女を送り出すに至っていた。

そんな彼女をグズマの母が放っておく筈もなく、すかさず「グズマくんも一緒に行ってあげたら?こんな小さな女の子が一人旅なんて、危ないわ」と口にした。
グズマと少女は顔を見合わせ、吹き出すように笑った。二人分の笑い声は高く、低く、アローラの静かな夜に響いていた。
その「小さな女の子」がどれだけの力を持っているのかを、グズマも少女も解っていたから笑った。彼女の持ってしまった力に似合わない「心配」が、どこまでもおかしかったのだ。

「グズマくん、家に帰るのはもうちょっと後でもいいわ。今はミヅキちゃんの傍にいてあげなさい。お説教なんかいつでもできるんだから、焦る必要なんてないわよ」

歌うようにそう告げる母を睨み下ろして「そうかよ」と吐き捨てるようにグズマは告げる。彼はそんな風に、母という生き物に甘えることを、もうすっかり覚えてしまっている。
駆け寄ってきた少女が「行こう」と乞うようにグズマの手を取る。グズマはその手を離さない。やっと掴めたのだから、自ら振り払ってなどやらない。
そうした、どこまでも安定した心地であるように思われた。少なくとも、顔を見合わせて少女と笑い合えたとき、グズマは心から安堵していたのだ。
ああ、もう大丈夫なのかもしれないと、本当はもう、グズマが付いていかずとも、彼女はまっとうに生きることを思い出そうとしているのかもしれないと、思いかけていた。
けれど彼女の家を出て、背後でドアの閉まる音を聞いた瞬間、少女は朗らかな声音で竹を割るようにさっぱりと、グズマのそうした些末な祈りをも裏切ることになる。

「変なの、まるで私が宝石みたいじゃない」

「!」

ね、と同意を求めるように、いや同意しか許していないかのように少女は笑う。どこまでも楽しそうに笑う。
握られた手に少女の小さな力が込められる。グズマは息を飲むことさえ忘れている。
甘えるようなその仕草はどこまでも子供であったのだが、その笑顔に染み込み過ぎた「諦念」は、どこまでも大人の深さと潔さを有していたのだ。そうした、姿だったのだ。

今の彼女はもう「私は、私にしかできないことが欲しい!」などと口にすることはしない。
彼女はもう、炎の中に手を入れたり、海の水を飲んだり、崖の上から飛び降りたり、そうした全ての奇行をもう行わない。
彼女の生き方はもう歪まない。彼女はもう「異常である」という悲しいことを、選ばない。……けれど。

「あんな言い方、やっぱりおかしいよね、グズマさん」

グズマは確かに、この少女の手を掴みたかった。彼女に会いたかった。
ただそれだけの祈りを引っ提げて、アローラにある4つの島を巡り、多くの試練をこなし、神にポケモンバトルを捧げ、数多の祈りを、願いを、後悔を背負い、走り続けていた。
そしてその祈りはようやく届いた。手を掴むことが叶った。今では何故だか彼女の方から手を握ってくれる。縋るように取ってくれる。……けれど。

「ねえグズマさん、おかしいって言って」

この少女はまた、そうしたおかしさのうちにふっと消えてしまうのではないか。
そう、恐れてしまう程の覚束なさだった。どれだけその手に力を込めても、ただ、悲しくなるだけであったのだ。


2017.2.9

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