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その後、グズマはなけなしの所持金で、6人分のエネココアを注文した。
財布の中身こそ薄ら寒いことになっていたものの、彼は満たされていた。エネココアは当然のように美味しく、少女の笑顔は当然のように眩しかった。
濃い湯気の立つエネココアに躊躇いなく口を付けた少女は、当然のように火傷をした。
カフェのマスターが慌てて出してくれた氷水で舌を冷やしながら、少しずつ、少しずつエネココアの中身を減らしていた。

何か軽食のようなものを作れないか、とグズマがマスターに尋ねたところ、彼は困ったように笑いながら、ポケマメの入ったカゴとシャラサブレの入ったトレイを示した。
当然。シャラサブレを選ぶのだと思っていたのだが、少女にとっての「当然」は、グズマのそれとは真逆の様相を呈していたようで、
「こっちを下さい!」とポケマメのカゴを指差して、至極得意気に微笑むものだから参ってしまった。

随分と冷めてしまったココアと共に、紫や緑のポケマメをひょいひょいと口に放り込んでは、その度に「美味しい」と甲高い声音で喚いていた。
その言葉に嘘があるようには到底、思えなかった。自然体と思しき笑顔を湛える彼女は、やはり歪であったのだ。その歪はしかし、歓迎されるべき個性でもあったのだ。

「そんなんじゃ腹いっぱいになんねえだろう。お前、どんな料理なら喜んで食べるんだ?」

「ポケマメは料理じゃありませんか?」

クスクスと笑いながら「違うと思いますよ」と告げるカヒリの言葉を受けて、少女は暫く考え込むようにしていたが、やがてふわりと優しい笑みを湛えて、口を開いた。

「ミネストローネが好きです」

その言葉に、グズマは慌てて立ち上がった。勢い余って椅子が後ろへ豪快に倒れたが、それを起こす時間さえ惜しかった。
そうだった、このようなところでのんびりとエネココアを飲んでいる場合ではなかったのだ!

「よし、今からそいつを食いに行くぞ!」

声高らかにそう宣言して、ぐいと少女の手を引いた。訳が分からない、といったようにぎこちない瞬きをする少女の手元から、ぽろぽろとポケマメが零れ落ちた。
彼女よりもずっと幼い筈のアセロラは、けれど何かを悟ったように「行ってらっしゃい!」と手を振った。カヒリもライチもハラも、笑顔でグズマの退席を許した。
ただ一人、何が起ころうとしているのかまるで解っていなさそうな少女を、今度こそひょいと抱き上げて、ポケモンセンターの外へ出た。

「待って、待ってよグズマさん。ミネストローネなんかアローラで食べられないよ」

「ああそうだろうなあ。だから食いに行くんだよ。お前のために、そのミネストローネとやらを作ってくれるところにな」

腕の中で唖然とする少女を見下ろし、「トマトの匂いのするスープのことだろう?」と尋ねれば、いよいよその目が驚愕に見開かれた。
ストン、と彼女を地面に下ろせば、彼女は困ったように笑いながら、鞄からライドギアを取り出した。
2か月ぶりの呼び出しに、けれどリザードンはしっかりと応えてくれた。

「グズマさん、どうしてママのことを知っているの?」

「オレの家族とお前のママが知り合いだったんだよ。変な偶然もあるもんだなあ」

「……家に、帰ったの?」

ああそうだ、とリザードンの背に跨りながらやけっぱちに肯定の言葉を紡ぎ、だから次はお前の番だと乱暴に告げれば、彼女はようやく落ち着いた表情になって、頷いた。
きっとこの少女とあの母親だって、懸命に家族の形を取る筈だ。そう確信していたから、グズマは「いいな?」と少女に確認を取ることはしなかった。
何が何でも会わせてやるのだと、そう約束してしまったのだと、口にこそしなかったものの、そうした気概で少女の手を引いたのだ。
彼が背負い続けてきた数多の願い、祈り、後悔。それらを全て下ろしてしまうには、まだ少しばかり、早い。

『リリィタウンの近く』と彼女の母親が明言していたとおり、彼女の実家は1番道路の坂を下ったところにあった。
時刻は5時を回り、海がオレンジ色に染まり始めていた。
リザードンの背中からその海を見下ろしながら、グズマは「ブラットオレンジの色」だと言った。少女は「金木犀」の色だと言った。
グズマの知っている果実を少女は知らず、少女の知っている花をグズマは知らなかった。
生まれ育った場所、愛した土地が違うとはそういうことなのだ。その残酷な事実をグズマはもうすっかり許していた。少女は、まだ許すことが難しいようであった。

家の前へと降り立ったリザードンは、グズマと少女を下ろしてすぐにアローラの夕焼けへと飛び立っていった。
グズマは目を細めてそれを見送り、隣へと視線を落として、……少女がその小さな手を胸元に強く押し当てて、ぎゅっと心臓を握り潰すように拳を作っているのを、見つけた。

「オレも、家に戻る時、心臓が痛かった」

「……あれ、私が痛がっていること、どうして解ったの?」

「オレだってぶっ壊れてるからな。ぶっ壊れてる奴のことは誰よりもよく解るんだよ」

あの始まりの時と全く同じ言葉で言い返せば、少女はただそれだけのことを喜ぶようにふわりと笑い、そのささやかな勢いのままに一歩を踏み出し、ドアに手を伸べた。
彼女はグズマと違い、自らの帰るべき場所にノックをしたりはしなかった。そのことに彼はどうしようもなく安堵した。
なんだ、ちゃんと家族じゃないかと、グズマはほっと息さえ吐いてみせたのだ。

彼女の母親はダイニングの椅子に腰かけていた。白いニャースを膝の上に乗せ、机の上にアルバムらしきものを広げていた。
白いニャースが大きな鳴き声と共にぴょんと膝から飛び降りる。驚いたように開いたドアへと視線を向けた彼女は、その瞬間、瞬きをすることさえ忘れていた。

「……」

此処にはホワイトシチューの鍋がない。ぎこちない家族の緊張を取り払ってくれるものは、少女の足元へとすり寄って来た、この白いニャースの他には何もない。
さてどうしたものかと思っていると、「あら、誰かいらしたの?」とキッチンから聞き慣れた声が飛んできて、グズマは思わず素っ頓狂な声を上げて驚くこととなってしまった。

「……はあ?なんでアンタが此処にいるんだよ」

「あらグズマくん、変なことを言うのね。友人の家にお邪魔しちゃいけないの?」

陽気にそう告げて肩を竦めるグズマの母は、けれど息子の隣で固まっている少女の存在に気が付くと、「あらあら」と声を上げて駆け寄って来た。
貴方がミヅキちゃんね、と笑顔で語りかける。名前を呼ばれた少女は、その見知らぬ女性の存在に驚きながらも、小さく頷いて肯定の意を示した。

ママは貴方の帰りをずっと待っていたのよ。貴方のことをずっと心配していたのよ。
そうした、おそらくこの少女にとっては全く意味を為さない言葉を、グズマの母は笑顔のままに語り続けている。少女には見知らぬこの女性の口を塞ぐ術が、まだない。
少女とグズマをリビングの椅子へと座らせ、母は勝手知ったる風でキッチンの棚を開け、ガラスのコップを2つ取り出し、躊躇いなく他人の家の冷蔵庫を開ける。
グズマの母と少女の母とは、おそらくグズマや少女が知らなかっただけで、もう随分と前からこうした交流をしていたのかもしれなかった。

どちらの母も歪んでなどいなかった。ただ、互いの子供と相性が悪かった。
そんなおかしな傷を背負ったおかしな女性が、出会い、親しくなったとして、それは仕方のないことであったのかもしれなかった。
奇妙な引力を有する「縁」の力にかかれば、これくらい、きっとどうということのないことであったのだ。

ミヅキ、おかえりなさい」

パイルジュースがテーブルの上に置かれたのと、少女の母が口を開くのとが同時だった。
彼女は「心配」も「安堵」も「歓喜」も口には出さなかった。ただ少女を迎え入れる言葉だけを紡いで、困ったように泣きそうに笑った。

「グズマくん、約束を守ってくれて本当にありがとう」

「……遅くなっちまって、すまなかった」

「あら、謝らないで。だって私は手を伸べることさえもできなかったの。グズマくんがこの子に手を伸べてくれなければ、私、ずっとこの子に会えないままだったのよ」

少女の母は歪んでなどいなかった。歪んでいたのは大人ではなく子供であった。
グズマはもう、そうした歪みの許されない年齢になってしまっている。けれど少女はまだ11歳である。彼女は真に子供である。
そんな彼女は「自らにはその歪みを貫く権利がある」のだと、そうした思い上がりのままに口を開く。

「ママのために帰ってきたんじゃないんだよ」

「おいミヅキ、」

「私は今も、甘ったれたママのこと、嫌いだよ」

咎めようとしたグズマは、けれど紡ぐべき叱責の声を忘れて息を飲むこととなってしまった。
彼女の口から明確な「嫌い」の言葉が飛び出したのは、少なくともグズマの知る限りでは、初めてのことであったからだ。
……彼女が初めて為した「拒絶」は、けれどグズマがこれまで暴力によって示してきた拒絶とは大きく異なり、そこに荒々しさも自暴自棄な心もありはしなかった。
その言葉はただ淡々としていて、悲しかった。

歪であるということは、ただただ悲しいことなのだ。
グズマはそのことを知っている。少女がマラサダを海へと吐き出したあの日から、彼や少女が呈する歪みの虚しさに気付いている。
けれど彼女は、この11歳の少女は、まだ気が付いていない。彼女は、自らが負った傷の数をもう覚えていない。

「ママなんか大嫌い」

もし彼女が「それ」を紡ぐことが叶ったのなら、その声音には幸福と自由の色が溶けている筈であったのだ。グズマはそう、信じていたのだ。
けれど彼女の言葉はどこまでも苦しかった。悲しかった。まるでナイフのようであったのだ。そのナイフは彼女の母ではなく、彼女自身に向けられていた。
「大好き」も「大嫌い」も、彼女にとってはきっと、同じことであったのだ。


2017.2.8

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