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何人、この上を見ることが叶ったのだろう。長い階段を上がった先に、ぽつんと佇んでいるのであろうピッピ人形を、何人が恨めしく睨み付けたのろう。
「彼女」を想う人間は、何度この場所を訪れ、何度戦い、何度敗れたのだろう。
彼等はどんな言葉をあの虚無の宝石へと投げたのか。どんな声音でその名前を呼んだのか。どんな顔でチャンピオンの間を立ち去ったのか。どんな、気持ちだったのか。
そんなことを考えながら彼は一段、また一段と上っていく。上りながら、あまりにも長く、あまりにも短かった2か月を振り返る。

まるで辞書のページを吹雪で捲り上げるかのような、あまりにも慌ただしく、生きる生身の人間を置き去りにするかのような世界の変化だった。
あまりにも慌ただしすぎて、彼は本当の「彼」がどういった人間であったのかをたまに忘れそうになった。今も、上手く思い出せない。
彼の記憶にしっかりと残っているのは、この2か月で出会った人の言葉だ。彼等の祈り、願い、後悔、そうした何もかもであった。
一段、また一段と上りながら、彼は今まで彼が聞いてきた切実な言葉の数々を、一つ、また一つと思い出した。

『助けたかった筈の相手に手を伸べられないような中途半端な強さ、……そんなものに、果たしてどれ程の意味があるのでしょうね?』
『わたしにできなかったことを、貴方に託します。貴方ならできると信じて、祈ります。そんな人、きっとこれからの島巡りの中で沢山、沢山、貴方のことを待っていますよ。』
『オレも、貴方のような強さが欲しい。ミヅキの心を理解し、その上で彼女を導くための乱暴なやり方を躊躇うことなく選び取れる貴方のことが、とても羨ましい。』
『向き合えていれば、もっと話ができていれば、あの子は誰にも何も言わないまま、あんな暗くて寂しいところに閉じこもることだってきっとなかったのに。』
『オレだけじゃなかったんだよ。笑わなきゃって思ってる人は他にもいたんだ。そういう不自然な笑顔だって解っちゃったから、仲間を得たみたいで、嬉しかったんだよね。』

「彼女」に近しい年齢の少年や少女は、彼女を心から案じているようであった。
彼等は彼女という「子供」の抱える揺らぎ、迷い、不安、そうしたものに、少なからず共鳴しているようにも思われた。

『そういうものを全て捨てて生きていられた君やミヅキくんは、実はとても幸いだったんだよ。……でも、そろそろ不自由になることも覚えなくちゃいけないね。』
『でもまあ、ああいう爆弾みたいな子にはあれくらいがお似合いさ。強くなるしかない子が強くなるのは当然のことだ。おじさんはそんなことにいちいち驚いたりしねえのよ。』

一方、大人にしてみれば、「彼女」の歪み方は、駄々を捏ねているだけ、拗ねているだけのものに思われていたのだろう。
彼等は歪んだ彼女を擁護したりはせず、その生き方を柔らかく責め、咎めた。悉く公正な見方であり、当然の意見だった。それでもやはり彼等は、彼女を案じていたのだ。

そして、子供にも大人にもなりきれないグズマは、そうした子供らしい揺らぎへの共鳴と、大人としての「彼女」への許せなさの、どちらも切り捨てることができなかった。
彼は「彼女」を心から案じていた。彼女は真に彼のかたちをしているようにさえ思われていたのだ。共鳴を極めすぎて、彼は自らと彼女の境を見ることができなくなり始めていた。
けれどそれと同じくらい、彼女のことが許せなかった。お前はオレのようになるべきではなかったのだという、その正しい思いはこの2か月間、ずっと彼を支えていた。

『わたしにはもう、彼女が解りません……。でも、貴方は違うんでしょう、グズマさん……!』
「彼女」の傍に長く、より近くいた存在はグズマではなかった。

『自らが宝石でないことを認めることはとても難しい。』
「彼女」の根底を正しく理解したのもまた、別の人間であった。

グズマは子供達のように彼女を純粋に案じることも、大人達のように彼女を咎めることもできなかった。長く彼女の傍に在ることも、彼女を真に理解することもできなかった。
故に、彼等がその願いを、祈りを、後悔を、託すべき相手が「彼でなければならない理由」など、何処にもないように思われた。
けれど、彼だった。他の誰でもなく、彼であった。


どの最善でもなかった存在が、それでも心を折ることなく彼女の前に辿り着いた時、その彼の歩みを、彼の振るい続けた力を、祈りを、人は「最愛」と呼ぶのかもしれなかった。


彼は彼女の最善ではない。けれど確かに彼女の最愛であった。そういうことだったのだ。

最後の階段を大きく踏み込んで、グズマはチャンピオンの間へと辿り着いた。
風の音だけが鼓膜をくすぐる、生き物の気配を悉く感じさせない場所であった。アローラの頂点を決める場所、彼女がようやく宝石になることの叶った場所だ。
このチャンピオンの間は真に煌めいていた。彼女が立つべき舞台として、これ以上の空間など最早存在しないように思われた。
やっとだ。やっと、此処に来ることが叶った。

「よお、久し振りだな」

暗い渦に向かってそう語り掛ければ、その渦の中で、何者かがボールを大きく振りかぶる。男は思わず目を凝らす。
ボールの中から現れたアシレーヌが、その黒雲を塞ぐように男の前へと立ち塞がる。
あいつに会わせてくれよ、という彼の懇願に、彼女の美しいパートナーは、そっと目を伏せて首を小さく振り、拒絶の意を示す。
男は最愛のポケモンが入ったボールを勢い良く振りかぶり「いいから通しやがれ!」と粗暴に叫ぶ。腹の底から張り上げたその声は、きっと彼女にも届いている。

グソクムシャはなんとか、アシレーヌの攻撃を一発耐えて、戻ってきた。キリキリと締め付けられる心臓に、落ち着け、落ち着けと言い聞かせてグズマは大きく息を吸う。
彼女のアシレーヌが強いことなど解りきっていた。今更、その技の威力に怯む必要など毛頭ない。
グズマは続けざまにアリアドスを繰り出し、腹の底から声を絞り出すように、叫ぶ。

「なあ!出てこいよ!いい加減そっちの世界にも飽きたんじゃねえのか!いい加減、寂しくなってきたんじゃねえのか!」

叫びを切り裂くように、アシレーヌは「サイコキネシス」を繰り出してアリアドスを一撃で瀕死に追い遣る。アリアドスをボールに戻す、グズマのその手は震え始めている。
負けるかもしれない。そう危惧するに十分な強さだった。ふざけていやがる、と悪態づきたくなった。

「お前の代わりにアローラを見てきてやったぜ!お前のことを忘れている奴なんか一人もいやがらなかった!誰もがお前のことを心配していた!お前を、覚えていた!」

これまで数多の試練をこなし、強力なぬしポケモンにも勝利した。島キングとのバトルを守り神に示し、ラナキラマウンテンを登った。四天王にも、なんとか勝利することが叶った。
そうしたこれまでの2か月を、その中で彼が背負い続けた数多の祈りを、願いを、後悔を、アシレーヌの強すぎる力は悉く蹂躙していく。

「なあ、お前はそのでかい目で何を見てきたんだ!なんでお前は、こんなにも大事にされていることに気が付かなかった!なんでお前はお前の価値を認めなかった!」

アメモースの「エナジーボール」は悉く空を切った。カイロスは「うたかたのアリア」に一撃で倒されてしまった。
ハッサムの「アイアンヘッド」を2発受けても、アシレーヌの動きは鈍らなかった。
ポケモン達に技を指示するグズマの声は掠れていた。必要以上に大きな声を出し過ぎて、叫び過ぎて、彼の声はいよいよ枯れそうになっていたのだ。

「もう意地を張るのやめちまえよ!お互い、遠回りはもう疲れただろう!お前も、嫌気が差しちまっている頃なんじゃねえのか!……何とか言えよ、おい!」

バトル開始直後の一撃で随分な打撃を受けていたグソクムシャは、けれどグズマがボールに手を掛けるより先に、自ら勇んでボールの中から飛び出してきた。
「であいがしら」をお見舞いしても、アシレーヌの身体は揺らがない。その闘士は尽きない。
孤高の騎士はグソクムシャを真っ直ぐに見据え、「ムーンフォース」の構えを取る。彼の技が外れたことは、これまでただの一度もない。解っていた。
解っていながら、それでもグズマは祈らずにはいられなかった。どうか、と祈り、叫んだ。

「避けろ!」

凄まじい爆音がチャンピオンの間にとどろいた。グズマは一瞬だけ強く目を伏せ、直ぐに顔を上げて、そして気付いた。
グソクムシャが、立っていた。彼の最愛のパートナーは、倒れていなかったのだ。
けれどそれは、グズマの祈りが届いたことを意味しているのではなかった。あの技は確実にグソクムシャを射貫いていた。
「ムーンフォース」を受けても尚、彼はしっかりとその足でフィールドに立っていたのだ。

「いわなだれ」をグズマが指示するより先に、グソクムシャは動いていた。けれどアシレーヌの動きの方が遥かに早かった。
「アクアジェット」で迫りくる孤高の騎士を、グソクムシャは正面から受け止め、そして倒れた。奇跡は二度、続けて起きたりはしなかった。

「……よくやった」

震える手でグソクムシャをボールに戻し、グズマは力なく膝を折った。深く、深く俯いて、拳を握り締めた。なにやってるんだ、と怒鳴ることすらできなかった。
彼の愛したポケモン達は、十分に健闘していた。だからこの心臓の痛みは彼等のせいではない。誰も、何も悪くない。悪くない。悪くない。けれど。

どうしてこのアシレーヌはこんなに強いんだ。どうしてポケモンという命は、こんなにも誰かのために強く在れるんだ。
その強さが何故、オレにはない。何故オレはまた、手を掴めない!

「お前に会いたかった」

先程までの怒号の余韻を微塵も感じさせない、弱々しい、消え入りそうな声音だった。その音は、フィールドを挟んだ向こうにある黒雲にきっと届いていない。
彼の言葉を聞く者がいたとすれば、それは崩れ落ちた彼を気遣うように歩み寄ってきたアシレーヌ、ただ一匹のみであったのだろう。

「お前が一人で眠りに行ったとき、どうしようもなく寂しかった。オレは、寂しかった」
「お前はぶっ壊れなくたってよかっただろう?大勢に愛されて、立派なところにいられて、誰よりも強くて、そんなお前は、オレみたいにならなくたって生きていかれただろう?」
「アローラの連中は、お前が皆に「大好き」を振り撒いたからお前を好きになったんじゃねえよ。お前が懸命に生きていたから、惹かれたんだ。媚びを売る必要なんざ、なかったんだ」
「皆、お前を待っている。お前に会いたがっている。オレはそんな奴等の願いを背負ってんだ。もう、引き返せねえんだよ。諦められねえんだよ」

次から次へと溢れてくる言葉を、もうグズマは止めようがなかった。言葉を尽くすことを覚えた彼は、もう、喉を枯らすことを躊躇わなかった。
数多の祈りを背負い続けてきたこの男の、彼自身の祈りは初めから、ただ一つしかなかった。

「なあ、会わせてくれよ。あいつに会わせてくれ」

いよいよ次の言葉が震えようとしていたその時、風が吹いた。
潮の香りのしないその風は、彼の少し伸びた髪をふわりと白波のように揺らした。

足音が聞こえた。


2017.2.4

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