59

穏やかさを取り戻した彼等の前に、一つ、大きすぎる問題が残ってしまった。
夕食であった筈の鍋がこのような状態になってしまった今、彼等の夕食となるべきものがこの場にはただの一つもないのだ。

グズマが冷蔵庫の扉を乱暴に開ければ、中には調味料、僅かな乳製品、ジュースとピクルスの瓶しか入っていなかった。
乾麺のパスタが数束、手付かずの状態で残ってはいたが、それに絡めるソースがないのではどうしようもない。

「もうこの際、外へ食べに行ってもいいかもしれないな」

濡らした雑巾で床を念入りに拭いていた父がそう呟く。母は両手を合わせて「そうね、そうしましょう」と楽しそうに微笑む。
さて困った、とグズマは思いながら、彼等の提案に自分が巻き込まれないようにするための最善手を考え始めていた。

確かに自分はこの家に戻る覚悟をしていた。拒まれても仕方ないと、半ば諦めの心地でドアを叩いた。けれど彼は招き入れられ、彼等の息子に戻ることが叶っている。
それ自体はもう、彼にとって嫌悪するべきことではなかった。寧ろ安堵してしまえる程には、彼はもう子供らしい反抗を捨て始めていた。
けれど「何年も会っていない」という大きすぎる確執をなかったことにして、いきなり両親と仲良く食事に出かけることなど、まだ、できる筈がなかった。
いずれはそうなっていくのかもしれなかったが、その日はこんなにも早く訪れるべきではなかったのだ。彼にはまだ時間が必要だった。

「オレはもう食ってきた」という嘘の言葉が、彼の喉から零れ出ようとしたその直前、ささやかな彼等の箱庭に、コンコン、と控えめなノックの音が響いた。
はい、と父がドアを開ければ、見知らぬ女性がドアの隙間から困ったように微笑んでいた。
その腕には大きな鍋が抱えられていて、グズマは見ず知らずの女性に心から感謝することとなった。
きっとその鍋の中身は、この箱庭の住人の夕食となるべきものであるに違いない。

「急にごめんなさい。ミネストローネを作りすぎてしまって……」

「まあ、助かります!丁度、シチューの鍋を落としてしまったところだったの」

そんなにタイミングよく落とされる鍋もあったものではない。そうグズマは思いながら、けれど口には出さなかった。
彼の興味と関心は、既にこの、ミネストローネを持って現れた女性に向いていたからだ。
夕食の救世主となってくれたこの女性は、おそらくこの近所……ハウオリシティやリリィタウンの辺りに住んでいるのだろう。
内向的な母が新しい友達を作る姿をグズマは見たことがなかったため、思わずその女性を、食い入るようにじっと見つめることとなってしまった。

ミネストローネの鍋を父に預けて、重い荷物から解放されたことを喜ぶように彼女は大きく息を吐き、肩の凝りをほぐすようにぐるぐると首を回した。
そんな彼女はグズマの視線に気付くと、ぱっと花を咲かせるように笑った。
大きく見開かれた目、ふわりと溶けるように綻びた表情。波のように大きく打ち寄せてきた既視感は、さて、誰のどの姿と重ねるべきものだったのだろう。

「貴方、グズマくんでしょう?」

小さく頷けば、「やっぱり!」と続けてふわりと両手が胸元で合わせられる。嬉しそうに細めた目は黒とも茶色とも似つかぬ色をしている。
旅に出る前であれば一瞬で見抜けていた筈の、その笑顔の正体を、けれどグズマは掴みかねていた。
誰のどの表情に似ていたのか、この女性と重ねるべきは誰なのか。そう迷ってしまう程に、グズマはこの2か月で多くの人と出会い過ぎていた。
けれどその正体は、他でもないこの女性の口から零れ出ることとなった。

「わたし、数か月前にリリィタウンの近くに引っ越してきたの。ミヅキっていう11歳の子と一緒に暮らしているのよ。今は……ちょっと、遠くに出かけているみたいだけど」

……この女性が「彼女」の母親。事実だけを脳裏で反芻して、グズマは思わず笑ってしまった。
どうしたの?と不思議そうに首を傾げるこの女性は、何ら歪んでいないように見えたのだ。「彼女」のあの歪みがこの女性によってもたらされたとは、どうしても思えなかった。
やはり「彼女」はただ一人で壊れたのだと、グズマはいよいよ確信するに至ったのだ。

「オレ、ミヅキのことを知ってるぜ」

そう告げれば、彼女の目が大きく見開かれた。その驚愕の表情まで、やはり似ていた。

家族の歪みは、その中で生きている人にしか分からない。故にグズマのこの第一印象は間違っているのかもしれない。
けれど、たとえこの女性が歪み切っていたとしても、それでもそんなことは、「彼女」があの宝石の世界に閉じこもっていい理由にはならない。
彼女の家庭がグズマの家庭に似た歪を呈していたとして、どこかやはりおかしかったのだとして、そんなものは何の免罪符にもならない。

グズマも彼女も、誰しも、勝手にぶっ壊れていい筈がない。
グズマを大切に想う人の祈りを蹂躙したり、彼女を愛した人の願いを無視したりするようなことが、もう、あってはならない。そんなことは許されない。
そうしたことを今のグズマは理解している。彼はもう、自らが不自由であることを嘆かない。
自らの背中を押す、願い、祈り、後悔の温度と質量がどれ程のものであるのかを、身をもって知った彼は、もう、それら全てを捨てて自由になることなどできない。

『……でも、そろそろ不自由になることも覚えなくちゃいけないね。』
マーレインの言葉が脳裏を泳ぐ。彼の口にした「不自由」は、けれど実際に手の中へと下ろしてみれば、それ程、悪くないものであったように思う。
重たく苦しい荷物には違いなかったけれど、それでもきっと、かけがえがなかったのだ。

「今から、あいつに会いに行く。連れ戻せたら、一番に此処へ連れてくるって約束する。必ずあんたに会わせてやる。
……だから、あいつを思いっきり叱ってやってくれ。馬鹿やってんじゃねえって怒鳴ってやってくれ。あいつのことが大事なら、あいつを許さないでくれ」

グズマはそう告げて、ソファの上に放り投げていた鞄を掴み取る。母が「もう行ってしまうの?」とでも言いたげな、泣き出しそうな表情を浮かべる。
……こういった場合、何を言うべきであったのだろう。グズマは迷い、躊躇った。
言葉に窮していた彼と、言葉を発せない母との間に生じた沈黙を埋めたのは、しかし同じくらい彼を引き留めたかったに違いない、父の声であった。

「行ってこい。そして必ず戻ってくるんだ。
……言っておくが、次はすぐに出ていけると思うなよ。お前にはこの数年分の説教を、たっぷり受けてもらわなきゃならん」

楽しそうにそう告げて笑う彼は、きっとグズマを許していない。
暴力を振るわれたことなど一度もなかったが、だからといってそれは、彼等の中にそうした激情が微塵もないことを示しているのでは決してない。
憤怒を面に出すことの少ない父、叱ることを苦手とする母ではあったが、それでも、こうした手酷い裏切りを示したグズマに憤っていない筈がなかった。
彼等はこれからも長く、きっとグズマを許さないだろう。それでよかった。そうあるべきなのだと、もうグズマには解っていた。

母は一度だけぐすりと鼻を鳴らして小さく泣き、しかしすぐに笑顔をとりなして、ひどく懐かしい言葉を紡いだ。

「行ってらっしゃい」

「……ああ」

グズマは大きく頷く。父はふいと目を逸らす。歩幅をずいと大きくして、シチューの香りの残る箱庭を飛び出す。
「行ってきます」を言うには、彼はまだ面映ゆい。

ポケモンセンターで宿を借り、翌日、すぐにグズマはウラウラ島へと向かい、ラナキラマウンテンを登った。白い嵐は彼を拒まなかった。彼の歩みは阻まれなかった。
けれど真に彼の歩みを「阻んだ」のは、ラナキラマウンテンの険しい吹雪ではなく、その先に待つ、四天王であった。

どの四天王も、アローラ全土から集められた選りすぐりの凄腕トレーナーであったため、グズマはたった1人に勝利することさえ困難を極めていた。
当然、初回の挑戦で4人抜きを果たせることなど叶う筈がなく、グズマはこの寒い山の中で、特訓と挑戦を繰り返すこととなった。

特訓して、挑戦して、2人目か3人目で破れては、ポケモンセンターへと駆けこみ、ポケモンを回復させて、また特訓をして、翌日になれば再びリーグの門を叩いた。
そうしたことが3日、4日と続けば、四天王は彼の顔をすっかり覚えてしまった。
彼が何のためにポケモンリーグを訪れているのか、誰のために強くなろうとしているのか、そうした彼の背景を推し量るに十分な時間を、彼等はバトルの中で重ねていたのだ。
悔しそうに拳を握り締めて立ち去る彼の背中に、またささやかな祈りが乗せられていたことを、しかし夢中で戦っていた彼はおそらく知らない。

「貴方はもっと強くなります」
その力が正しく振るわれることを願って、わたしも全力で戦います。

「また来てね、絶対だよ!」
あなたがアセロラを負かしてくれるって、信じているから。

「アンタはまだまだこんなもんじゃないだろう?」
誰かを守るための全力、その神髄を見せてくれ!

「グズマよ、もっとだ。もっと極めてきなさい」
此処でずっと、お前を待っている。

挑戦した。破れた。ポケモンを回復させた。日が暮れるまで彼等と特訓を重ねた。夜になれば、また挑んだ。
ラナキラマウンテンの山頂にあるポケモンセンターのスタッフは、毎日のように顔を出す彼のことをすっかり覚えてしまった。
傷薬を大量に買い込むグズマに、ショップの店員はこっそりとおまけの薬を入れていた。カフェのマスターは、彼の姿を見つけると同時に、エネココアを用意するようになっていた。
その大きな頼もしい背中には、祈りが、願いが、後悔が、貼り付いていた。その旅路は、その挑戦は、もう彼だけのものではなくなってしまっていた。

それは7回目の挑戦だった。
ハラの繰り出した5匹目のポケモンが、アメモースの一撃を受けて倒れたのだ。

自らの勝利をどうにも上手く信じられず、唖然としていたグズマのボールをやや強引に奪い取り、ハラは手早くポケモン達の体力を回復させた。
勿論、そのようなことが四天王に許されている筈がない。だからこそ、そのルールに背いてまで彼が差し出した傷薬の重みを、グズマはとてもよく理解している。察している。
グソクムシャの体力が回復したことを確認し、そのボールを弟子の大きな手に握らせたハラは、豪快にその背を押してワープパネルへと導き、笑った。

「さあ、行ってきなさい!」

グズマは大きく頷いて、眩しい床を大きく蹴った。礼を言うにはまだ少し早かったのだ。


2017.2.4

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