54

雨を喜んでいた少女の、その小さな踵が描いた魔法陣は何処に行ってしまったのだろう。
粒を大きくした雨が流していったのか、それとも塩辛い海がさらっていったのか、あるいはポケモンや人が踏み荒らしていったのか。
あの日、彼女を見送ってから、グズマもすぐにこの場を去っていたので、残された無骨な魔法陣がその後どうなっていたのか、推測することしかできない。
けれど現実の光景として、今、この黒い砂浜にあの魔方陣はなかった。1か月以上も前のことなのだから、当然であった。

さて、そんな黒い砂浜に打ち寄せる波に素足を濡らし、ダダリンと共にはしゃいでいるのは「彼女」ではなく、彼女よりもずっと幼い姿をした少女、アセロラだった。
舵輪を模したダダリンの一部がくるくると水を弾くように回転する。飛び散る海に、近くで日光浴をしていたニャースが悲鳴を上げて飛び退いた。

「おいおい、ニャースを苛めてくれるなよ。あとでこいつらのご機嫌を取らなきゃなんないのはおじさんなんだからさ」

波の打ち寄せない遠方から、やや大きな声音で咎めの言葉が飛んでくる。子供のように両足を砂浜へと投げ出して、クチナシは腰を下ろして背を丸めている。
傍らで、額に青い宝石を宿したペルシアンが大きな欠伸をする。グズマがその眠気に釣られそうになっていると、アセロラとダダリンが波打ち際から駆け戻ってくる。

「そういえばおじさんは、ポニ島の祭壇でミヅキとバトルをしたんだよね?」

「ああ、そうだよ。ねえちゃんの島巡りの証、最後までウラウラ島のとこだけ空いていたからさ。
いくら強くても、島巡りを終えていない子にラナキラマウンテンを登らせる訳にはいかなかったからねえ」

ミヅキ、という名前にペルシアンがぴくりと反応した。グズマの方をギロリと睨み上げるこのポケモンもまた、あの少女の強さに手酷くやられてしまったのだろうか。
そうした、雪辱を極めた目つきであるように思われて、グズマは思わず苦笑した。お前もやられちまったのかと、そう声を掛けたくなってしまった。

「どうだった?ミヅキ、強かったでしょう?」と楽しそうに語り掛けるアセロラに、クチナシはふっと小さく笑って「ああ」と力ない相槌を打った。
それ以上を口にせずともよかったのだ。何も言わずとも、彼女の強さなど知れたことであったからだ。今更その実力を執拗に確認する気は毛頭なかった。

「彼女」に敗れたのはクチナシのペルシアンだけではない。アセロラのダダリンも、グズマのグソクムシャも、等しく彼女のアシレーヌの前に倒れている。
誰も、彼女から勝利の栄光を奪い取ることはできていない。彼女は誰よりも強く、それ故に孤独という装甲を纏うことが叶っている。
誰も彼女の装甲をぶっ壊すことのできないまま、時だけが流れ続けている。

「でもまあ、ああいう爆弾みたいな子にはあれくらいがお似合いさ。強くなるしかない子が強くなるのは当然のことだ。おじさんはそんなことにいちいち驚いたりしねえのよ」

ただ、アンタには驚かされちゃったなあ。そう付け足してクチナシは眩しそうに目を細める。
強くなるしかない子が強くなるのは自然なこと、強くならずとも生きていかれた筈の人間が、それでも強さを求めるのはどうにも不自然なこと。
得る必要のない力を得たところで、肩が凝るだけだ。クチナシは暗にそう指摘している。
彼が余計な力や絆の類を片っ端から手放して、寂しいところで寂しく生きることを至福としている人間であることを、かつて彼に世話になったグズマはよく知っている。
スカル団があの寂れた町で息をしていられたのは、このクチナシがまっとうな正義感というものさえも余分とみなして手放して、身軽に生きていたためであると、解っている。

風船のような人間だった。中に詰め込んだ空気さえも「重い」と疎んずるようなところのある男だった。
きっとクチナシは、持たなくていい力を求めているグズマを嗤っているのだろう。救わなくていい人物に手を伸べようとしている彼に呆れているのだろう。
そんな風に読んでしまったから、グズマは「なんだよ」と軽く悪態づく。そんなものでこの自由な男は揺らがないと、解っていながら言葉を紡ぐ。

「ガラじゃねえことしていやがるなって、腹の底では笑っていやがるんだろう?」

「ああそうさ、ガラじゃない。でもそんなにいちゃんに祈ろうとしているおじさんの方がもっとガラじゃない。
優しい言葉なんてかけてやらねえよって、応援なんかしてやらねえよって、そういう、心持ちだった筈なんだがなあ」

祈り、などという言葉がこの男から飛び出したことに、グズマは少なからず驚いていた。
この驚愕こそ「ガラじゃない」が故の感情であるのだと、解っていたから何とかその驚愕を表情に出さないよう努めたのだが、
クチナシにはその一瞬ですっかり見抜かれてしまったらしく、「ほらね」と拗ねるように告げて、けれど楽しそうにふっと息を吐いてみせる。
そんな「ガラじゃないおじさん」へのフォローは、思わぬ方向から飛んできた。

「全然、おかしなことじゃないよ!だって今のグズマさんを見ていると、祈りたくなっちゃうもんね。頑張れ!って、言いたくなっちゃうもんね」

そんな言葉にも「ふざけたこと言いやがって」と悪態づいてみれば、少女はぱちくりとその大きな目を見開き、「誤魔化しても駄目だよ!」と甲高い声音で叫んだ。
アメジストのようだと思った。子供の目は何故か大きく見えるものだ。子供は、大人が「眩しい」として目を逸らすようなものをも、その大きな目で見ているものなのだ。

「だってグズマさんの背中には、願いとか祈りとか後悔とか、沢山、くっついてるもの。アセロラ、そういうの見えちゃうの!」

グズマは思わず後ろを振り返った。アセロラの指摘した願いも祈りも後悔も、見えなかった。
そんな彼の行為にアセロラはクスクスと笑いながら、「自分の背中は見えないよねえ」と含みのある声音で告げて、再び黒い砂浜へと駆け出した。
裸足で砂を蹴る少女の足跡は「彼女」のそれよりも少しばかり、小さかった。

クチナシはその足跡を見届けてから、気怠そうに立ち上がり、ポケットに手を差し入れる。グズマも勇んで大きくボールを振りかぶる。
実りの遺跡からは少し離れていたが、……それでも、守り神は見ていたのかもしれなかった。

高すぎる塀で囲まれたポータウンには、相変わらず、霧雨がしんしんと降り続けていた。
屋敷に足を踏み入れれば、まだ残っているスカル団の下っ端が、わっとグズマの方へと駆け寄って来た。
今のグズマは彼等に居場所を与えることも叶わない。無力な男である。けれどそんな彼を下っ端は慕い続けている。グズマには彼等の崇敬を振り払うだけの冷酷さがない。

2階に上がってすぐのところにある扉をノックすれば、すぐに「なんだい?」と返事が返ってきた。
「入るぜ」と告げてからドアノブに手を掛ければ、向こうから小さく驚愕の声が上がった。
ドアを丁寧に開けること、適切な力でノックをすること。それらはまだグズマには慣れない行為であり、動作はやはりぎこちない。
けれどもう、彼はプルメリが陰でこっそりと直してくれていた、この屋敷の窓ガラスやドアを、乱暴に扱うことができなくなっていた。
そうした時間だったのだ、グズマの、ここ1か月半余りの旅というのは。

中でハイパーボールを磨いていたプルメリは、先程聞こえた声に違わぬ驚愕の表情でグズマを見ていた。
けれど「よお」というグズマのぎこちない挨拶を聞くや否や、堪え切れなくなったように吹き出して、そして、声を上げて笑い始めたのだ。
彼の一番の理解者であった筈の、この女性の突然の爆笑にグズマは驚き、狼狽えた。彼女は、彼女だけは自分を否定したりしない筈だという、その思い上がりが揺らぎ始めていた。
けれどやはり杞憂だったようで、プルメリは「ごめんよ」と謝りながら、グズマを否定する言葉ではなく、今の彼を肯定する言葉を紡ぐのだ。

「随分と男前になったから、びっくりしていたのさ。いい顔をするようになったねえ、グズマ」

眩しそうに目を細めるプルメリの姿が、先日のクチナシの姿に重なった。

心の熟した大人というのは、自分を見る時、決まってこうして目を細めている。
大人はあまり、その目をいっぱいに見開いて人を凝視したりはしない。
凝視されたくないから、自身の根底を見抜かれたくないから、自分から目を逸らすのだ。見抜いてくれるな、と祈るのだ。
子供の目が丸く大きいのはそうした理由なのかもしれないと、グズマは少しだけ思った。
まだそう長く生きてはいない人間は、見抜かれることを恐れるような、重く淀んだ過去を持たないのだろう。
見抜かれることは傷付くことであるという、そうした経験に乏しいのだろう。

……もっとも、それは一般的な子供に言えることであって、「彼女」の場合は少しばかり事情が異なるような気がしていた。
彼女は自ら、傷付きに行っているように思われたのだ。

「かっこいいよ、ボス。きっとミヅキも惚れるだろうさ」

「……おいおい、馬鹿言っちゃいけねえなあ。あいつがオレに惚れようが知ったことじゃねえよ。オレはあいつが大嫌いなんだ」

グズマがその口で粗暴な「大嫌い」を彼女に紡ぐことが叶ったとして、……それでもきっと、彼女の煤色の目は細められないだろう。
彼女は目をいっぱいに見開いて、グズマのそうした刃をも甘受するのだろう。
目を見開くこと、人を見抜くこと、見抜かれること、傷付くこと。そうしたことに潜む危うさを、きっとあのふざけた子供は全部、全部解っている。
解っていて、だからこそ、彼女は目を見開いたまま「大好き」を繰り返していたのだ。グズマを慕い、ルザミーネを慕い、氷の中で眠り、ウルトラホールの中に逃げたのだ。

「彼女」はきっと、自らに刻まれた傷をもう数えてはいないだろう。
だから、一つくらい増えても同じことだ。グズマが心無い言葉で彼女に罵声を浴びせたとして、それでも「彼女」の目はきっと細められないのだろうから、構わない。

大嫌いなあいつに言ってやりたいことが、山ほどある。

「実はあたいも、マーレインとクチナシに言われて、鍛え直しているんだ。あいつら、結構スパルタでね。おかげで随分と強くなった気がするよ。
……もしかしたら、あたいの方が先にミヅキのアシレーヌを負かしちまうかもしれないね」

「へっ、言ってろ!先にあいつをぶっ壊すのはオレだ。お前の出る幕はねえよ、プルメリ!」

するとプルメリは益々目を細めて、彼のそうした戯言を許すように頷いた。グズマは彼女の非言語的な祈りに気が付いてしまった。
気が付かない振りをすることができなかったから、大きく頷き返して拳を握り締めた。

何故、人はこうも祈りたがるのだろう?


2017.2.2

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