ウラウラ島には2つの山がある。雪の降りしきるラナキラマウンテンの険しさに比べれば、こちらのホクラニ岳はまだ穏やかな山である、と言うことができるのだろう。
険しくないルートを通って山頂へ向かえるよう、そこへ続く道は綺麗に舗装され、緩やかな坂を形成していた。
けれどその緩やかさが災いして、道のりはとても長い。ラナキラマウンテンを登る方がまだ楽なのではないかとさえ思わせる程に、登頂には膨大な時間がかかるのだ。
故にアローラの人間は、自分の足で愚直に山を登る、などということは決してしない。
リザードンの力を借りるか、あるいは麓から出ているバスに乗るか、この二択だ。グズマは当然のように後者を選んだ。
よく揺れるバスは彼をホクラニ岳の天文台前へと運び、彼はそこで、ウラウラ島での試練を一つこなすこととなった。
マーマネによって授けられたデンキZは、トパーズのような煌めきをもってグズマの手の中に佇んでいた。コロ、と少しだけ手の平で転がせば、益々それは光るのだった。
この、そこまで話し上手ではなさそうな少年も、おそらくは「彼女」を知っているのだろう。
けれどグズマは会話の主導権を上手に握る術をまだ知らなかった。威嚇以外の手段で自ら口を開くことに、まだ少しばかり躊躇いがあったのだ。
そんなグズマとマーマネとの間に、気まずい沈黙がぬっと降りていたのだが、試練の部屋に入って来た一人の男性が、その沈黙を陽気な声音で割いてくれた。
「やあグズマくん。試練達成、おめでとう!」
彼、マーレインはこの天文台の所長であり、パソコンの預かりボックスの管理者でもあった。
かつてはウラウラ島のキャプテンまでも務めていたことをグズマは知っており、彼が多芸な実力を持つ人間であることだってよくよく解っていた。
けれどそうした、目まぐるしい程の肩書きを有する彼は、凄まじい輝きを放ちながら奔放に振る舞うことを許されている筈の彼は、しかしどこまでも謙虚に、静かに生きていた。
もっとも、彼のそうした笑い方が、彼の謙虚の表れであったのか、それとも彼という人間が持つ本来の気質によるものなのか、それは解らない。
その静けさが真実であるのか装甲であるのかを見抜ける程、グズマはマーレインのことをよくは知らない。
「マーくん、グズマにミヅキの話をしてやってくれないか。君の目に、ミヅキはどんな風に映っていたんだい?」
そのマーレインは、グズマがこの天文台を訪れた理由を、息をするように言い当てる。
まさかハラは、元キャプテンであるこの男にまで自分のことを話したのだろうかと、グズマは少しばかり訝しんだが、
その疑念が表情に出ていたのだろう、マーレインは困ったように眉を下げて、「ククイが教えてくれたんだよ」と弁明の言葉を紡いだ。
ああ、口を滑らせたのはあいつだったのかと合点がいき、そしてククイの言葉を思い出して、グズマは一人、笑う。
『キミが何を知りたいのか、何をしようとしているのか、ボクにはあまり分からない。キミが話したくないのなら、ボクも敢えて訊くことはしない。』
あれは、狡い大人の為した狡い嘘だったのだ。
グズマがドアをぶっ壊すことなく、大人しい足取りで研究所へと入ったあの瞬間から、ククイはグズマが何のために、誰のために動き始めていたのかを察していたのだ。
分かった上で、それでもククイはグズマに手を貸した。リーリエのためではなく「彼女」のために動くグズマに、あんな大金を握らせた。
ちっ、とグズマは久し振りに大きく舌打ちをした。大人は子供に気付かれないように、子供の背中をそっと押すのがとても得意なのだ。そうした、狡い援助の仕方をするのだ。
あまりにも遠回しな支援は、グズマに礼を紡ぐことを緩やかに、けれど確実に禁じている。
だからグズマは「狡い奴だ」と悪態づくことしかできない。ククイを小さく恨むことしかできない。子供はまだ、大人の手の平から逃れることができない。
「ミヅキ……彼女はとても強かったよね。それにポケモンのことが大好きみたいだった。勿論、ポケモンも彼女のことを心から信頼していたよ」
「そうだね。彼女とポケモンの間には確固たる絆が見えた。とても眩しく、容易に切れはしないだろうと思わせるに十分な、強く太い絆だった。
けれど彼女は、人と人との間にそうした絆を張ることが上手くできていないみたいだった」
そんなグズマの前で、子供であるマーマネは純粋に「彼女」への尊敬の念を、大人になってしまったマーレインは複雑な面持ちで「彼女」への危惧の念を語る。
大人は子供の感性を否定しない。肯定した上で、それでも自分の言いたいことをしっかりと告げるのだ。
そうした大人の確固たる指摘に、彼を慕うマーマネは「そうだね、そうだったね」と容易に共鳴の意を示す。グズマは子供である彼の柔軟性に、少しばかり驚かざるを得なかった。
「それに、無鉄砲なところがあったよね。ホクラニ岳の山頂から、西の崖に向かって飛び降りようとしていたんだ」
「……そう、そんなこともあったね。彼女はとんでもないことを平然と、笑顔のままにやってのけてしまっていた。そうした「危なっかしさ」なら、当時からずっとあったように思うよ。
まるで空を飛ぼうとしているみたいだった。飛べない自分に嫌気が差しているようだった。崖下でキテルグマに抱き留められながら、彼女は彼女自身を憎むように笑っていた」
空を飛べないという当然。海になれないという当然。炎に触れられないという当然。小石が輝けないという当然。人は一人では生きてなどいかれないという当然。
グズマやマーレインには当然のこと、きっとマーマネにも当然だと解っていること、11歳の子供でも理解して然るべきであること。
それらを彼女は理解しようとしなかった。理解したくないと笑って駄々を捏ねていた。
ぶっ壊れていやがるなあと思った。一人で勝手に壊れていった彼女の悲しい笑みは、けれどどこまでも明るく陽気な、キラキラと輝くものだった。
だからこそ彼等は彼女がああなってしまうまで、彼女の歪みから目を逸らしていた。……勿論、彼等に非は全くない。彼女が上手く騙し過ぎていたのだ。そういうことだったのだ。
「ボクは、彼女にはあの穴から出てきてほしいって思う。自分の殻に閉じこもっていても何も解決しないって、ボクはよく解っているから」
マーマネのそうした訴えに、マーレインは「マーくんは優しいね」と大人らしい笑みを浮かべる。
頼りない笑みを湛えながら、その実、この男の本質はどこまでも大人の形をしていたのだ。
「実のところ、ボクはあの場所に足を運ぶのは、マーくんとはまた別の理由なんだ」と、彼はグズマを見つめて困ったように首を傾げる。
傾げて、そして脇にあるテーブルに佇むマグカップをそっと掴み上げ、冷え切ったコーヒーに少しだけ口を付ける。グズマには馴染まない香りがした。大人らしい香りであった。
「ボクは自分が彼女を連れ戻せるとは思っていない。キャプテンですらないボクと、強すぎる彼女の道は、あまりにも遠いところにあったからね。
ただ、彼女が元気でやっているかを確かめているだけなんだ。強情を貫きすぎて向こうで倒れていないか、見守っているんだ。それくらいしかボクにはできないんだよ」
そうだったのか、とマーマネは円らな目を見開いて驚く。彼の驚愕を許すようにマーレインは笑う。
「誰なら彼女を連れ出せるんだろうって、ずっと考えていた。探していたんだ。でもボクが見つけるより先に、その「誰か」はボクとマーくんのところへ来てくれた」
君のことだよ、とマーレインは口にしない。ただ、ククイに似た種類の笑みを湛えてグズマを穏やかに真っ直ぐに見つめるだけだ。
ああそうだろうな、オレのことだろうなあ。そう思う。思うけれど彼が敢えて口にしないから、グズマもとぼけた振りをして「さあて、どいつのことだろうなあ?」と笑ってやる。
マーマネがくすりと小さく笑った。マーレインは肩を震わせてただ穏やかに笑った。大人と子供では、笑い方さえも違うのだ。
残りのコーヒーを飲み干してから、「そういえば、」とマーレインは付け足すように告げた。
「ククイがね、『君がいい目をするようになった』と嬉しそうに話していたんだよ」
……あいつが嬉しくなさそうなことなど、これまで一度もなかったようにグズマは記憶していた。
けれどククイと長く知り合っているこの男には、常に笑顔を湛えて豪快と繊細の間を綱渡りするように生きている彼の、もっと小さな心の機微まで解ってしまうのだろう。
その結果が、常に嬉しそうで楽しそうな彼への「嬉しそうに」という形容にあり、グズマには彼が嘘を言っているようにはとても思えなかった。
マーレインの言葉は、いやな美しさを持ってはいなかったからだ。
「……オレだって、できるならいつまでだってスカしていたかったさ。
だがそうも言っていられなくなったんだ。あいつが馬鹿なことをやったせいだ。オレがいい方向に変わった訳じゃねえよ」
吐き捨てるようにそう告げた彼に、マーレインはすっと目を細める。
鋼色の目だった。整えることをしていない柔らかな金色の髪が、彼が小さく首を傾げることによりふわ、と波打った。
そのささやかな金色の波は、次の瞬間、グズマに吹き付けた、荒波のように強烈な温度を宿した言葉の、前触れであったのかもしれなかった。
「そうだよね、スカしている場合じゃなくなったんだ。君にとって、今の時間は少し不自由かもしれないね。……でも、皆そうなんだよ。皆が「スカしている場合じゃない」んだよ」
「!」
「守るべき相手、育てるべき弟子、慕うべき人、養うべき子供、そうした誰彼もの中で生きるボク等は、スカしていることなんかできなかったんだよ。
そうしなきゃ、生きていかれないんだ。いくらアローラが自由な土地だからといっても、そこのところは全く不自由だよね」
解る。
マーレインの言っていることが、今のグズマには解ってしまう。彼の言葉の意味しているところを、グズマは読めてしまう。
解りたくなかったこと、けれど解らなければいけなかったことが、正しい形で彼の心に降りている。いつの間にか、理解することが叶っている。
「ボク等は誰かに認められて、誰かに許されて、誰かに求められて叱られて褒められて、そうやって生きて行かなきゃいけないんだ。自由になんてなれっこないんだ。
そういうものを全て捨てて生きていられた君やミヅキくんは、実はとても幸いだったんだよ。……でも、そろそろ不自由になることも覚えなくちゃいけないね」
誰にも認められず、理解されず、拒まれたから拒み返して、傷付けられたから傷付け返した。
そうして孤独を極めきった彼や「彼女」の姿に、この男は自由を見ている。あんな息苦しい自由があるものかと、しかしグズマはもう憤ることができない。
「ミヅキくんが戻ってきたら、一緒に、話をしよう。君やミヅキくんが考えていることを、大人にも聞かせてほしい。
頼りないかもしれないけれど、一緒に考えることはできるから。誰も君達を一人になんかしないから。君達から逃げたりしないから」
解っている。一人になったのも、逃げたのも、グズマ自身であり、「彼女」自身だ。そういうことが解ってしまった。
「悔しいが、厄介になるかもしれねえなあ」と目を逸らしつつそう告げたりはしなかった。そうした弱音を吐ける程、グズマはまだこの男に心を許してはいなかったのだ。
代わりに大きく頷いてマーレインを見据えれば、彼はふわりと陽に溶けるように笑った。
「うん、やっぱりいい目だ。ミヅキくんが君にいてくれてよかったね」
2017.2.2