51

海が見える喜び。
そう名付けられた8番道路を、グズマは大きな歩幅でさくさくと歩いた。打ち寄せる波の音は馴染み深く心地良く、子守歌のようであった。
アローラの子供は皆、海の音を聞きながら眠り、育ったのだ。

「なあ、お前はこの道、嫌いだったんだろう?」

一人で道を歩きながらグズマはぽつりとそう零す。右手をぎゅっと握り締めれば、皮膚の下で火傷の跡がささやかな痛みを訴えた。
「うん、大嫌い!」と、甲高い「彼女」の声音を想像してみる。
彼女はどんな顔で大嫌いと紡ぐのだろう。どんな声音でアローラの海を拒絶するのだろうそうすることで彼女の心はどのように波打つのだろう。
解らない。あの小さな口から大嫌い、などという言葉が零れ出たことは、少なくともグズマの知る限りでは一度もない。

ヴェラ火山公園の山頂でカキと言葉を交わした頃から、グズマは自らの喉元でくすぶらせていた想いを、……正確には「彼女」に向けた言葉を、声に出すようになっていた。
声を出すことは長らく彼にとって威嚇の手段であり、彼を大きく見せるための虚勢に過ぎなかった。言葉は真に彼のためだけにあった。誰かのために震わせる喉を彼は持たなかった。
つい最近まで、本当にそうだったのだ。

『お前は一人になんかならねえよ。』
ではいつ、彼の喉が他者に明け渡されるに至ったのかと思い返せば、……きっとあの黒い砂浜で「彼女」が魔法陣を描いた日、きっとあれが最初だったのだろう。

「イリマもスイレンもカキも皆、お前みたいな奴のことを心配していやがったぜ。まったく迷惑なガキだなあ、お前は」

思ったことを口にしてみる。伝えるべき言葉をアローラの潮風に飛ばしてみる。大きな少年の小さな言葉は、漣の音が飲み込んでなかったことにしてくれる。
だから彼は少しばかり楽しくなって、やや饒舌に言葉を紡ぐ。
自分のための言葉、誰かのための言葉、それを威嚇以外の手段で用いることにまだ彼は慣れない。彼はまだ面映ゆい。
だから少し練習していってもいいのではないかと思った。ささやかな彼の特訓を聞く者は、アローラの海を置いて他にいなかった。

ミヅキですか?懐かしいなあ。彼女、とっても強かったんですよ!」

シェードジャングルでグズマを待っていたマオは、きのみをぐしゃぐしゃにすり潰しながら、懐かしむようにそう告げて笑った。
甘いような苦いような、植物特有の匂いがグズマの鼻先を掠める。このような野性的かつ豪快な料理で本当にぬしポケモンは現れるのかと、少しばかり不安になる。

「あいつは、変なことしていなかったか?」

その言葉に、マオは驚いたように手を止めて彼を見上げた。
ぱちぱちと大きく瞬きをした後で、「あたしだけじゃなかったんだ……」と、陽の差さない密林にぽろりとそんな呟きが零れ出た。
「彼女」の歪みは、どうやら此処でも余すことなく落とされていたらしい。
優秀な期待の新星が垣間見せる、歪な行動、歪んだ発言を、そこに潜んだ危うさを、
しかし気のせいだとして誰にも打ち明けなかったとして、彼女に真の「宝石」を見ようとしていたとして、しかしそれは至極当然のことであるように思われた。
だからこそ、彼女の「よかった……」という安堵の言葉に、グズマは眉をひそめることをしなかった。無理もないことだ、と思ったのだ。

「コソクムシがいる砂浜、あるでしょう?あそこで海の水を飲んでいたんです」

「……あんなもん、飲めたもんじゃねえと思うんだがなあ」

「そうですよね!あたしもそう思いました。だからびっくりして駆け寄って、大丈夫?って訊いたんです。
そしたらミヅキ、笑いながら『やっぱり海にはなれませんね。』なんて言うんですよ?更にびっくりしちゃいました」

知っている。彼女が躊躇いなくアローラの海を飲み込むような人間であることは、グズマとて、その目で実際に見てよく分かっている。
「喉が渇いちゃった」と告げてざぶざぶと黒い波に靴を沈め、両手で砂の混じった海水を掬い上げてはごくごくと飲み込んでいた。
塩辛い水を飲み下せば更に喉が渇く、だから海の水は飲むべきではない。
そうした常識を、海に囲まれたアローラでは子供でも知っているようなことを、けれどあの少女は理解しない。カントーには海に面した町がアローラほど、多くない。

「でも、海になんかならなくたって、ミヅキは十分かっこよかったんです。とても素敵だった、キラキラしていた!ミヅキはあたしの憧れなんですよ」

前のめりになってそう告げるマオの方が、ずっとキラキラした目をしていたものだから、
グズマは苦笑しつつ、「……へえ、キャプテンでも誰かに憧れたりするんだなあ」と、今までの気のない返事とは少し違った相槌の打ち方をした。
するとマオは声を上げて笑いながら「あはは、グズマさん、あたし達を買い被りすぎですよ」と、軽く窘めるように口にした。

輝かしい地位を手にしている人物でも、誰もに認められるような強さを備えた存在でも、成功者と呼ばれる部類の人間であったとしても、
グズマと同じように葛藤し、絶望し、苦悩するのだと、どんなに安定と祝福を手に入れようとも、人はそうした重い感情と戦っていかねばならないのだと、
そういうこと、当然のことを、グズマはようやく知り始めていた。
彼の「遠回り」は実を結び始めていた。そのことにグズマ自身はまだ気付いていない。

「でも、そういうこと、遅すぎたんです。あたし、あの時すぐに言えなかった。
ミヅキはそのままで十分、キラキラしていてかっこよくて、素敵だよって、あの時、言ってあげられたらよかった」

「……」

「そうしたらミヅキは、あたしに何か言ってくれたかもしれないのに。言ってくれればあたしは、もっと真摯に彼女と向き合ったのに。
向き合えていれば、もっと話ができていれば、あの子は誰にも何も言わないまま、あんな暗くて寂しいところに閉じこもることだってきっとなかったのに」

真摯に「彼女」と向き合えていれば、彼女は一人になることなどなかったのだとマオは語る。自分に足りなかったのは言葉であったのだと、小さなキャプテンは自身を責めている。
グズマはカキにそうしたように「アンタのせいじゃない」と言葉を紡いだ。
彼の尽くしたぎこちない、言葉の形をした誠意は、けれど確かにマオの心に届いていた。「ありがとう」と、彼女を微笑ませるに至っていたのだ。

その直後、グズマの背後でがさりと物音がした。ぬしポケモンが姿を見せようとしていたのだ。
ハイパーボールを強く握り締めてぐるりと振り向く彼を、ラランテスは鋭く大きな鎌で歓迎する。「頑張って!」と、若いキャプテンの声援が木漏れ日を震わせる。

「アンタが頑張っているところを、神様にも見てもらわないといけないだろう?」と、ライチは命の遺跡前でバトルを行うことを決して譲らなかった。
グズマが「此処でいいじゃねえか」とコニコシティで眉をひそめた時も、頑としてそれを拒み、渋るグズマの腕をぐいと引いて町を出たのだった。
二人の激しい、懸命かつ真摯なポケモンバトルを、アローラの海が、潮風が、神が見ていた。
この瞬間、この青年がささやかな赦しを得ていたことを知る者は、この神を置いて他にいない。

「勘違いしないでほしいんだけど、あたしやハラさんは、決してミヅキを蔑ろにしていた訳じゃないんだよ」

互いのポケモンを回復させてから、二人は並んで海沿いの道を歩いた。潮風を楽しむように目を細めたライチは、太陽に向けて大きく伸びをした。
神の御膝元を歩く、その足取りはまるで散歩を楽しんでいるかのように軽かった。神を正しく畏怖しているグズマの足取りは、そこまで軽くはなれなかった。

「ただ、あの子はとても強くて頼もしい子だったから、最小限の関わりしかしなかったのさ。しなくても大丈夫だと思っていたんだ。
寧ろ、あの子に必死についていく、非力なリーリエのことが心配だったんだ。ハラさんだって、同じ気持ちだったんじゃないかな」

「オレだって力のある団員より、力のない団員の方を心配しちまうから、似たようなもんだろう。アンタや師匠が悪かった訳じゃねえよ」

アンタは悪くない。
これまでグズマが幾度となく繰り返してきたその言葉に、けれどライチは動揺しなかった。
僅かな驚きの跡で、豪快に笑いながら「スカル団のボスに励まされる日が来るなんて思いもしなかったよ!」と、からかうようにそう告げるのみであったのだ。
大人であるライチはグズマのそうした変化を歓迎している。大人であるライチは「彼女」だけを案じることなどできない。
その複雑な事情を、けれどグズマはまだ完全には理解できない。彼は子供を捨て始めていたけれど、まだ、その高い背に相応しい大人の姿をしてはいない。

「ねえグズマ、辛くないかい?皆の願いを、誰も叶えることのできなかった祈りを、その背中にのせて歩くのって、存外、息苦しいものだろう?」

「彼女」を想う誰彼もの願いを、自らのものとして背負うこと。「彼女」を想う誰彼もの自責の念や後悔を、「アンタのせいじゃない」と言葉を尽くして奪い取ること。
どちらも、これまでのグズマの人生には露程も経験したことのないものであった。
だからこそ彼は、そうした願いを拒まず受け取ることを選べている自分に、そうした言葉を紡がざるを得なくなっている自分に、驚いていた。
彼自身でさえ、驚いているのだ。第三者であるライチがそのような驚きと疑念を呈したとして、それは当然のことだったのだろう。

「……そうだな、息苦しい。だが構わねえよ。オレは息が止まっても歩いてやる。
アンタやキャプテン達の重たい願いを押し付けられてんだ、こんなところで折れちまう訳にはいかねえだろう?」

けれどそうした不自然な自己を「ふざけている」と突っぱねて、否定してしまうことはもう、できなかった。
何故なら彼の島巡りは、もう半分を超えようとしていたからだ。彼は既に、何人かの願いを、祈りを、後悔を、引き取ってしまったからだ。もう戻れない。戻れる筈がない。

「あんたが島巡りを始めたって聞いた時、正直、あんたのことだから直ぐに音を上げると思っていたんだ。でも違ったね。あんたは強くなったし、これからももっと強くなるよ。
……どうだい?誰かを助けるための力ってのは、何かをぶっ壊すための力よりもずっと強くて、素敵だろう?」

ライチのそうした言葉は、しかしまだ少年の心地を宿したグズマには、どこまでも恥ずかしいもののように思われた。
故に彼は「へっ、知るかよ!」と、吐き捨てるように大声でその言葉を弾き飛ばす他になかったのだ。彼のささやかな反抗心を、ライチはくすっと小さく笑って許した。
彼がもう十分すぎる程に、他者の願いや祈りを背負っていることが解っていたから、ライチは敢えて、自らの願いを口にすることはしなかった。


2017.1.30

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