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せせらきの丘でグズマを待っていた少女、スイレンは、身の丈程もありそうな長い釣り竿の先をぴょこぴょこと揺らしつつ、緩慢な瞬きと共に彼を見上げた。
背の低い少女だった。「彼女」よりも更に低いのではないかと思われた。

「成る程、そういう訳でミヅキさんの旅路を追っておられるのですね」

「悪いかよ」

「いいえ!その気持ち、スイレンにはよく分かります」

歌うようにそう告げてから、少女はポケットに手を差し入れてライドギアを取り出す。
泉の中から現れたラプラスにひょいと飛び乗った彼女は、「どうぞ、ぬしポケモンはこの奥です」とグズマに手を伸べた。
大の男を引き上げられる程の怪力をこの少女が有しているとはとても思えなかったため、グズマはその厚意だけ有難く受け取り、少女の手を実際に取ることはしなかった。
代わりにラプラスの甲羅に捕まる形で、なんとか乗ることに成功する。小さく吐いた安堵の溜め息を、けれどスイレンは聞き逃さなかった。
「ふふ、お疲れ様でした」と嬉しそうに口にするので、グズマはいよいよバツの悪そうに顔を背けることしかできない。

「誰かの見た景色を味わいたくなるのは当然のことですよ。それがグズマさんの大切な人であるなら、尚更」

「……待てよ、誰が大切だって?」

ミヅキさんのことです。大切なんでしょう?
チャンピオンの間に行きたいんでしょう?彼女を連れ戻したいんでしょう?だからそのための力をつけるために、こうして頑張っているんでしょう?」

スイレンは少女である。大人とするには背の足りなさすぎる、子供を極めた姿をしている。
けれどキャプテンとして数多のトレーナーを見送ってきた彼女には、そうした面倒見のよい気質やさりげない慧眼というものが人並み以上に育っているようであった。
そうした彼女は、見た目だけは立派な大人の形をしているグズマの、幼い心地をいとも容易く見抜いてしまう。
彼女はきっと、随分前にこの丘を訪れた「彼女」が、歪な形をしていたことにだってきっと気付いている。

「スイレンはキャプテンです。ミヅキさんのことだけ考えている訳にはいかないんです。でも貴方はもっと自由に、ミヅキさんのこと、想えますよね」

子供のような無邪気さで、大人のように達観した物言いをする。
ラプラスからひょいと飛び降り、坂道を小さな歩幅で駆け下りるその姿はどう見ても子供である。
けれど己の「キャプテン」という職務を全うするために、個人の想いが妨げとなることを理解し、懸命に押し殺そうと努めているその心は、どこまでも大人の形をしている。

「貴方はスイレンよりもずっと強くなります。なっていただかなくては困るんです。だってそうなってくださらないと、わたしの願いを託せないんですもの」

グズマとは真逆な意味で、アンバランスな生き方をしている少女だった。アンバランスであることしか許されなかった少女であった。
けれどグズマも「彼女」も、強いられて歪となった訳でない。望んで歪んだのだ。そうした、どうしようもない人間であったのだ。
立派に生きているこの少女の後ろを歩いていると、そうした自分が悉く矮小なもののように思われたのだ。そしてグズマのそうした認識は、きっと真実であったのだろう。

誰もが懸命に生きていた。けれどスイレンの懸命な生き方は正しく実り、グズマと「彼女」の懸命な生き方は間違った暴走を遂げた。
ただそれだけの単純なことだ。人が道を踏み外すのに、大それた理由や悲惨な過去が必ずしも付いて回る訳では決してない。
ただ、踏み外したのだ。そこに慈悲の余地などまるでなかった。解っていた。

「わたしにできなかったことを、貴方に託します。貴方ならできると信じて、祈ります。そんな人、きっとこれからの島巡りの中で沢山、沢山、貴方のことを待っていますよ」

けれどこの立派な少女は、穏やかに微笑みながらグズマに慈悲を向ける。グズマはそうした彼女を直視することができない。
けれど、そうも言っていられなかった。何故なら泉の奥で、ぬしポケモンと思われる大きな影がぬっと浮き上がり始めていたからだ。
もう癖になってしまった舌打ちと共に、グズマは相棒の入ったボールを構えた。スイレンはひらひらと手を振りながら、すぐ後ろで彼の健闘を見守っている。

ヴェラ火山公園の山頂で行われた試練の面妖さは、どうにも筆舌に尽くし難いものがあった。
至極真面目な顔で、どう考えても笑いを誘う、破天荒な「間違い探し」を示してくるキャプテンに、何度怒鳴りたくなったか知れない。
……が、グズマとて己が挑戦者である身分であることくらいは十分に弁えていたので、その度に拳を強く握り締めることで耐えた。
そうしたふざけた試練を持ちかけておきながら、現れたぬしポケモンは笑えない程に強いのだ。
先程のせせらぎの丘で受け取った「ミズZ」がなければ、グズマのポケモンでさえ勝利は危うかっただろう。

ミヅキの話が聞きたい、と言っていましたね」

大量の傷薬でグソクムシャとアメモースを回復させながら、グズマは「お、おう」と返事をした。
カキはアローラの青い空を見上げてすっと目を細める。「彼女」のことを思い出しているのだろうか。それともまた、面妖なことを言わんとしているのだろうか。
思わず身構えてしまいそうになったが、カキの口からは至極まっとうな、良識に忠実な言葉が出てきたので、グズマは強張らせていた肩の力を僅かに抜くことができた。

ミヅキはポケモントレーナーとなって間もない少女であるようでした。……しかし、既にガラガラの存在を知っていました。
けれど実際に現れたガラガラを見ると、とても驚いたような、愕然としたような表情になっていました。あの時の沈黙が何を意味していたのか、オレには解らなかった」

「……そりゃあ、アンタが破天荒な試練を持ちかけるからだろう」

「いや、そうではなく、ガラガラの骨に炎が宿っていること自体に驚いていたようでした」

ガラガラは緑の炎を持っている。アローラに住む人間にとって、それは常識のようなものであった。とりわけアーカラ島でその事実を知らない人間はまずいないだろう。
けれど外の土地からやって来た「彼女」にとって、それは常識ではなかったのだ。彼女はアローラでの常識に驚き、アローラに馴染み切っている緑の炎に驚いた。
……彼女はもしかしたら、グズマやカキの知らない、ガラガラのもう一つの姿を知っているのかもしれなかった。

「そして彼女は何を思ったのか、その炎の中に手を差し入れた。『炎がとても綺麗で宝石みたいだったから。』と、彼女は真面目な顔でそう言っていました」

グズマの脳裏に金色の髪を持つ美しい少女が浮かび上がった。
「炎に触って火傷をしていたんです」と泣きながら語っていた彼女の、嗚咽混じりのその息遣いを思い出せる程に、その記憶はまだ鮮明な状態でグズマの中に残っていた。
あの時は、「炎」というものがただの、マッチやライターの先に佇む赤や青の炎だとばかり思っていたが、まさか緑の、しかもガラガラの炎であったとは考えもしなかった。
ああ、こんなところでもあいつはぶっ壊れていやがったんだなあと、グズマはまた一つ少女を想い、苦笑する。苦笑すれば、何故だかあいつを許せる気がした。

「だがその後がもっとおかしかった。『人は炎に触れられないのだ。』と告げると、こちらを強く睨み上げて、とんでもないことを言った。
『でも貴方は触れられるんでしょう?触れられないのは私が余所者だからなんでしょう?』と。……あまりにも衝撃的な言葉だったから、今でも一言一句違わず、覚えています」

炎に触れられないという絶望、普通はそれが当然のことである筈なのに、それを「絶望」としてしまった彼女の、歪み。
グズマは「彼女」の心を思いながら、ガラガラの炎に手を差し入れた。驚きに刮目するカキの前で、グズマはすぐに手を引っ込め、風圧で冷やすように大きく腕を振り回した。
たった1秒程度の短い時間だったが、それでも緑の炎が宿す熱さを感じ取るには十分だった。やはり、熱かったのだ。

「貴方まで、彼女のようなことをしないでもらいたい……!此処には人の火傷を治す薬はないんです、下まで行かないと、」

「オレだって火傷をするのに、あいつは何を勘違いしていやがったんだろうなあ」

熱を持った指先がヒリヒリと痛む。流石に火傷の痛みで泣くような精神は持ち合わせていなかったが、痛いという直接的な感覚を抱いてしまうのはどうしようもない。
あとで冷やさないといけないな、と思いながら、グズマは顔を上げて、そして気付いた。

「……おい」

少年のような表情をしていたのだ。
キャプテンとしての責務も、踊りを極める者としての矜持も、全て忘れ去った状態の、ただ一人の少年としての表情。それが今、カキの顔に貼り付けられていた。
愕然としていた。そこに自責の念を見ることは簡単にできた。鏡を見ているようだとグズマは思った。
彼は黙っていた。静かだった。息を飲むことさえしていなかった。山頂に吹き付けてくる風の音が沈黙を淡く割き続けていた。

「オレも、手を入れるべきだったのだろうか?」

馬鹿なこと言ってんじゃねえと、しかしグズマは怒鳴りつけることができなかった。そうした自責の心地、濁った葛藤の心地を、グズマは痛い程によく理解していたからだ。

「オレも、貴方のような強さが欲しい。ミヅキの心を理解し、その上で彼女を導くための乱暴なやり方を躊躇うことなく選び取れる貴方のことが、とても羨ましい。
オレも、貴方のように炎の中へと手を差し入れていたなら、オレだって火傷をするのだと、あの時、ミヅキの前で示せていたなら、……何か、変わっただろうか?」

「……アンタがそこまで体を張る必要なんかねえよ。アンタのせいじゃない、あいつがぶっ壊れていやがったんだ。あいつのせいだ。アンタも、ガラガラも、悪くねえよ」

それはグズマにとって悉く馴染み深い感情で、けれどまっとうに育ってきたのであろうキャプテンには悉く馴染まない感情で、
……だからこそ、その淀んだ苦悩に心を落とそうとしている彼を、そのままにしておけなかったのだ。
グズマは彼の荷物を奪い取るための言葉を紡いだ。彼自身のための言葉ではなく、カキのための言葉をその喉から絞り出すに至ったのだ。
それは彼が初めて紡ぐことの叶った、ぎこちない誠意の形であった。彼は言葉を尽くすことを覚え始めていた。

幼い誠意は「ホノオZ」の形を取り、煌々と彼の手の中に宿り続けていた。
緑の炎を操るキャプテンから授けられた石が赤色をしていることが、グズマには少しばかり、おかしかった。


2017.1.30

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