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彼女はよく、この部屋で夕食を振る舞ってくれた。

大抵の場合、おそらくはこのエーテルパラダイスで働いている腕利きのシェフが作った、とんでもなく美味しい料理が、平たく大きなお皿にちょこんと乗ってやって来た。
それを私は慣れないナイフとフォークでぎこちなく食べながら、彼女に「もっと上手に使えるようにならないとね」と窘められるのが常だった。
「ごめんなさい」と笑いながら、私は彼女に少しずつ、食器の使い方を教わっていった。
ナイフに強い力を入れずとも、刃の当て方と動かし方を工夫するだけで、容易く野菜のステーキやベジーバーグを切ることができるのだと知った。
一つずつ、できることや知っていることを増やしていく私を、彼女はその度に褒めてくれた。褒められれば、私は勿論嬉しかった。

一度だけ、エーテルパラダイスの広すぎる厨房へと案内されたことがある。

「一緒にプディングを作りましょう」

まるで私のような、悪戯心に満ちた笑みを浮かべた彼女は、そう言って厨房の冷蔵庫を勢い良く開けた。
ラッキーの卵と、ミルタンクのミルクと、宝石のように白いお砂糖を取り出した。彼女が予め調べてくれていた材料は4人分だったので、容器を4つ棚から持ち出して並べた。
白いワンピースの上から、白いエプロンを身に付けた。後ろのリボンは彼女に結んでもらった。
彼女のリボンも同じように結びたいと口にすれば、彼女は困ったように笑いながらくるりと私に背を示し、私のささやかな我が儘を叶えてくれた。長いブロンドは、そのままにした。

卵とミルクと砂糖を混ぜるだけの代物であった筈なのに、プリン(彼女は「プディング」だと頑なに言い張っていたのだけれど)を作るのは殊の外、骨が折れた。
蒸す、という工程がどういったものであるのか、私も彼女も知らなかったのだ。
「火にかければいいのかしら?」と、大きなコンロの上にプリンの容器をそのまま置こうとしていた彼女を慌てて止めてから、私は無い知恵を絞って必死に考えた。

一つ目の容器は、フライパンの上で熱し過ぎて真っ二つに割れた。
二つ目の容器は沸騰したお湯の中に入れたのだけれど、陽気の中に激しく沸騰したお湯がざぶざぶと入ってしまい、とてもではないが食べられなかった。
三つ目は容器に蓋をして、中に水が入らないようにした。これなら問題ないだろうと思い、綺麗に固まったそれを取り出したのだけれど、熱すぎて床に落とし、粉々になった。
残り一つとなってしまったところで、通りかかったビッケさんが困惑と呆れの入り混じった複雑な笑顔で「蒸すというのはこうするんですよ」とやり方を指南してくれた。
蒸し上がったそれを、時間をかけてゆっくりと冷やした。食べられるくらいに冷え切った頃には、もう夜の9時を回ってしまっていた。

たった一つだけ綺麗に出来上がったそのプディングを、私はお礼としてビッケさんに渡した。
ルザミーネさんはその横でとても驚いた顔をしていたけれど、暫くの沈黙の後で私と同じように笑ってくれた。

「受け取ってちょうだい。割ってしまった容器の後片付けも手伝ってもらってしまったし、貴方がいなければこれは出来上がらなかったのだから」

ビッケさんは困惑と躊躇いの色をその目に宿して苦笑していたけれど、やがて「ありがとうございます」と、私のママに似た、陽だまりのような笑顔を浮かべて受け取ってくれた。
片付けを終えた私と彼女は、真っ白のエプロンを抜いだ。お揃いのエプロンを脱いでも、私と彼女の身に纏う色は全く同じだ。ただそれだけのことがどうしようもなく嬉しかった。

「ビッケ、送ってあげて。わたくしはこれから少ししなければならないことがあるの」

「ええ、解りました。後で紅茶をお持ちしますね」

風も吹かず、気温だって常に一定であるこの空間は、しかしガラス張りの天井を有しているために、太陽の明るさと星空の眩しさはこの島の外と同じように降り注いでいる。
加えてこの島の周りには、この島以外の明かりが皆無だ。故に星がとても綺麗に見える。私が此処にやって来た時には細かった月も、徐々に丸くなり始めていた。
満月は明日かしら、それとも明後日かしら。そんなことを思っていると、隣を歩くビッケさんが口を開いた。
その手に、大事そうに私と彼女の作ったプリンの容器を抱えて。

「貴方が来てから、あの方はとても楽しそうです。まるで坊ちゃまとお嬢様がお戻りになられたみたい」

「え?……あはは、なあんだ。私はその二人の代わりだったんですね」

あっけらかんとそう告げれば、彼女は驚いたように足を止めた。
「……貴方は、」と続ける、その声音は冬の寒さに凍える子供のように震えていて、夜のせいかもしれないけれど、彼女の顔色は青ざめているようにも思われた。

「ご自身が誰かの代わりとして見られていることを、解っていたのですか?」

「そうですよ。でもあまり気になりません。どんな形であれ、ルザミーネさんと仲良くなれてとても嬉しい。私、ルザミーネさんやこの白い場所のこと、大好きになれたんです!」

絶句する彼女は、いよいよぴくりとも動かなくなってしまった。
瞬きすら忘れたようなその姿に不安を覚えていると、彼女はその穏やかな表情をなかったことにするかのような、泣きそうな目をして眉を歪めた。

「もう、此処に来るのは今日で最後にしませんか?貴方は此処にいるべきではありません」

「え、……どうして?私、何か悪いことをしてしまいましたか?」

「いいえ、違うんです。貴方のためなんです。貴方があの方を好きでいられるうちに、此処でのことを忘れてしまいなさい。
こんなことを言う私を憎んでいいから、……貴方を追い出そうとしている私を、嫌ってくれて構わないから、」

「嫌いになんかなりませんよ!」

彼女の言葉を塞ぐ形で、私はその続きを鋭く禁じた。

「私は、誰も嫌いになんかなりません。貴方が私を嫌っても、ルザミーネさんがどんなに酷い人だったとしても、私は嫌いになりません」

私は彼女が両手にしっかりと抱えていたプリンの容器を掴んで、ぐいと彼女の胸元へと押し付けた。押し付けて、笑って、踵を返して駆け出した。
途中でくるりと振り返り、「また明日!」と告げて手を振った。白いワンピースは裾がそれ程長くなかったので、軽快に走るための妨げにはならなかった。
キラキラと星の雨が降っていて、それを見上げれて笑えば私の、ぐずぐずと掻き回された複雑な感情などなかったことになった。

貴方が私を嫌ったとしても私は傷付かない。ザオボーさんがどれだけ私を邪険にしようと知ったことではない。ルザミーネさんが私に誰を重ねていようと構わない。
この幸せな家族ごっこが、いつまでも続けばいいと思っているけれど、途中で彼女が飽きてしまうなら、私がぽいと捨てられてしまうなら、それはしかし、それでいい。
だって私は、私の大好きな世界で輝いていたい。

「……代表は排斥が得意でね。大好きなものしか内側へは招かんのですよ」

帰り道の白い船の上で、ザオボーさんはぽつりとそう呟いた。思わず隣に駆け寄り続きを促すようにその横顔を見上げれば、彼はこちらを見下ろしてニヤリと得意気に笑った。
周りの海は悉く黒い様相を呈していたけれど、この船は白いままだった。真っ黒な海に浮かぶ真っ白な船は、まるで宝石のようだと思った。

「君も代表に似ております、大好きなものしか受け付けられない。だがその方法は大きく違うようだ。
……君は、拒めないのだね。君は大好きなものに囲まれて生きるために、全てを大好きになろうなどという馬鹿げたことを考えているのだね」

まったく難儀なことですねえと、彼は細い肩を竦めてみせた。私は馬鹿げていて、難儀なのだと、そう認めれば少しだけ楽しくなった。
私はこの人に嫌われているのかしら、と思う。そうだとしたら少しだけ悲しいけれど、それでも別にいいや、と思う。
構わない、貴方が私を嫌ったとしても私は貴方のことが大好きだから。私はそうやって生きてきたのだから。

「そんなにも、何もかもに愛を振り撒いていては、君自身が干上がってしまいますよ?」

「いいえ、私は寧ろ……「干上がらないために」皆を大好きでいるんだと思います。誰かを怖がったり嫌ったり憎んだりすると、喉がカラカラになって、苦しくなるから。
……私、おかしいですか?もしかしたら、人を嫌う方がずっと幸せになれるんですか?」

するとザオボーさんは声を上げて笑い始めた。折れそうに細い背を少しだけ丸めて、同じく細く薄いお腹を抱えて、少しだけいつもより高い声音で笑っていた。
こんなにも楽しそうに笑う彼を見たのは初めてで、私のおかしさが彼を笑わせることに成功したのであるならば、おかしいままでいいのではないかと思えたのだ。
寧ろそれがよかったのだ。

「いやおかしいねえ、おかしいさ。だがそんなことは君に限ったことじゃない。わたしもビッケも、代表だって狂っております。
君の狂い方も代表の狂い方も、それぞれ君達の個性なのですよ。勿論わたしの狂い方だって、わたしの立派な個性です。みすみすお子様に譲り渡したりなどしませんよ」

私達は狂っている。私達は一様におかしい。それはとても楽しいことであるように思われた。
まるで彼等の世界の中に私がいるかのような、そうしためでたい錯覚を抱きそうになったのだ。
いつの間にか、乗船場が直ぐそこまで来ていた。

「ふふ、じゃあ私とザオボーさんもお揃いなんですね」

「お揃いですって?ああまったく、馬鹿げたことを言うものじゃありませんよ。さあ、到着しましたから早くお行きなさい。いつもの軽業はどうしました」

そういえば、今日は船の手すりに足を掛けて飛び移るのを忘れていた。それ程の衝撃と歓喜だったのだ。貴方が、私にくれた言葉というのは。
けれどそう伝えることはどうにも憚られたので、今日だけは行儀よく船を下りてから、くるりと振り返り、彼に向かって大きく手を振った。
「私、おじさんのことも大好きですよ!」と、そう告げれば彼はニヤリと得意気に笑い、彼らしい、狂った個性の滲む言葉を口にした。

「はいはい、ではわたしは存分に君を嫌っていることにしましょう。君はたとえわたしに邪険にされても、わたしを好きでいるのでしょうからねえ」

貴方が私を嫌ったとしても、私は貴方のことが好き。

常軌を逸したこの思いは、私にしか持ち得ないものであるのだと、そうした「異常な存在」になってこそ、ようやく私はこの世界を回せるのだと、傲慢にもそう思い上がっていた。
ルザミーネさんの「誰か」の代わりになる。彼女に愛されるために彼女を大好きになる。そんな狂ったことができるのはきっと私くらいだ。そう、本気で思っていたのだ。
私はいつだって、私にしかできないことが欲しかった。


2016.11.25

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