48

長く訪れていなかったリリィタウンは、けれどグズマの知る面影を完全に残していた。アローラの街並みは、そう目まぐるしく変わり続けるようなものではないのだ。
ただ、どっしりと構えてそこに在る。そうした在り方、アローラでの常識は、しかし「彼女」にとってはとても窮屈なものに映っていたのかもしれない。

クチバシティの乗船場から外へと出る時、彼はカントーの人間の足並みが驚く程に早いことに気が付いていた。
アローラの人の流れと、カントーの人の流れでは、その速度に大きな差があるのだ。人の流れに飲まれないよう、グズマは肩の緊張を解かぬまま、歩幅を短く素早くしていた。
アローラでいつもそうしているように、大きく緩慢な歩幅であるくことは、あの場所ではひどく、難しかった。
たったそれだけのこと、けれどグズマの心に大きく残り過ぎていた違和感。
アローラで大きく緩慢に歩くことの叶うという、ささやかな幸福に気が付いてしまった時、グズマは「彼女」の純な歪にほんの一瞬、触れることができた気がしたのだ。

けれど此処はアローラである。カントーではない。「彼女」の望んだ全てが此処にはなく、彼の望んだ全てが此処に在る場所だ。
二人の安息の地は重ならない。二人の平穏は相容れない。そのことに気が付いてしまった。

けれどその事実に悪態づくことができなかった。彼はもう、子供でいることができなかった。誰かを想うとはそういうことなのだ。
一人の世界を描き続けているだけでは、子供の狭い視野のままでは、知りたいと願った人の心も、喉の渇きを訴えるように追いかけ続けた強さも、何も、見える筈がなかったのだ。

「ほれ、お前のものだ、受け取りなさい」

そんな、子供のまま大きくなってしまった彼に島キングが握らせたのは、11歳の子供が持つべき「島巡りの証」であった。
あまりにも濃い密度でグズマに吹き付けられた「悔恨」という名の懐かしさは、彼の呼吸を止め、心臓をぐらりと揺らし、目元をかっと熱くさせた。
しかしそうした動揺の全てを悟られないように、彼は眉をひそめて「はあ?」と素っ頓狂な声を上げるだけに留めている。
勿論、それが彼の精一杯の虚勢であることにハラは気が付いている。けれどそれを指摘することはせず、ただ豪快に笑うのであった。
釈然としない表情のままの彼を見上げて、まるで小さな子供にするように彼の背中をぽんと力強く叩いた。

「グズマよ、人を知りなさい。沢山の人と関わることで、人生は豊かになるものですぞ」

「豊かに……なんて、そんな悠長なこと言ってられねえだろうが!」

何を言っているのだ、と思った。それはほぼ憤りと同じ形をした焦燥であった。
この島キングは、チャンピオンの間にウルトラホールを開けてその中に閉じこもった、たった11歳の子供のことが心配ではないのだろうか?
そんな筈がないと思いながら、それでもそうした「遠回り」を差し出す彼にグズマは苛立ちを募らせる他になかった。
その遠回りを自分は受け入れてしまうのだろうと、解っていたからこそ苛立っていたのだ。

「いいえ、必要なことだ。お前に足りないもの、あの子に足りなかったもの、きっとこの旅で理解できることだろう。遠回りに見えることにも、意味があるのですぞ。
さあ行きなさい、他のキャプテンや島キングには既に話を通してあります。お前が行かなければ、彼等はきっとがっかりするでしょうなあ」

人畜無害そうな穏やかな笑みを浮かべながら、けれどしっかりとグズマの逃げ道を塞ぐことは忘れていない。
彼が島巡りを行わなければ、彼はもう何度目になるか解らない「見限り」を、キャプテンや島キングから受けることになってしまう。
グズマにとってそれが耐え難い屈辱であることを、この島キングはとてもよく解っている。解っているからこそ彼は、最も効果的な道の塞ぎ方をしている。

真に大人であったハラが、子供のまま足掻き続けているグズマを導くことなど造作もないのだ。グズマが彼を見限りさえしなければ、容易いことだったのだ。
そしてグズマは逃げることができない。自らのためではなく、「彼女」のために、「彼女」をぶっ壊すための力を得るために、逃げる訳にはいかない。

「けっ、分かったよ。さっさと終わらせればいいんだろう?そうすりゃ遠回りにもならねえだろうからなあ!」

大声で悪態づいた彼は、リリィタウンの乾いた地面を勢いよく蹴って歩き出した。大きな歩幅で緩慢に歩く、その大きな手には、島巡りの証がしっかりと握り締められていた。
下らない、と思う。面倒だ、とも思う。けれどそうした言葉をグズマは口には出さなかった。
淀んだ言葉を奏でてしまえば、彼の心にぽっと照らされた、ささやかな「期待」と「高揚」の明かりさえ、汚されてしまうような気がしたからだ。

「……妙なことになっちまったなあ」

だからそうした淀んだ言葉の代わりに、そんな呟きを零してみた。
ざあっと、リリィタウンに生えるヤシの木をアローラの潮風が激しく揺らした。グズマは思わず目を細めた。
日差しの暑さも、煙たい土埃も、海の青も磯の香りも、彼が11歳であった頃と何も、何も変わっていない。

大きな子供の小さな島巡りが始まった。
「彼女」がアローラのチャンピオンになってから、僅か10日後のことだった。

「いらっしゃい、グズマさん。ハラさんから話は聞いていますよ」

ハウオリシティの外れにあるトレーナーズスクールでグズマを出迎えたのは、メレメレ島のキャプテン、イリマであった。
大柄で目つきの悪い男に対しても、イリマは柔和な笑みを崩すことなく真っ直ぐな言葉を向ける。
眩しい笑みだ、優しい顔だ。アローラでは特に珍しくもないその笑顔が、けれどグズマに向けられているというだけで悉く稀有なものに思われてしまう。
そのおかしさを解っているから、グズマは呆れたように眉をひそめる。そんな彼を許すようにイリマは肩を竦めてまた、笑う。

「けっ、大の大人が島巡りなんざ、とんだ笑いの種だろうよ」

「……ふふ、そうかもしれませんね。ですがそうした「笑いの種」に縋ってしまいたくなる程に、ボクもハラさんも、皆さん、匙を投げているんですよ」

投げている、のところを強調するかのように声を大きくしたイリマは、手元のハイパーボールを大きく振りかぶって、アローラの高い空へと放つ。
このアローラにおいて、ヤングースと、その進化形であるデカグースは何ら珍しくもないポケモンであったのだが、
アローラ全域にその生息地を持つだけあって、彼等の生命としての底力は凄まじいものがある。
長くアローラで生きてきたグズマには、そのことがよく解っている。解っているからこそ、彼はグソクムシャの入ったボールを握る手にぎゅっと力を込める。
高揚と期待、そして少しの不安。ポケモンバトルを始める前のこの感情の渦巻きは、彼がポケモンを手にしたずっと昔の頃から同じであった。
馴染み深い震えだ、彼にとっては当然のものだ。

「さあ、貴方がぬしポケモンに挑める力を持っているのか、確かめさせていただきます!」

「はっ、いいぜ!あっという間に終わらせてやらあ!」

ボールから現れたグソクムシャの頼もしい背中を視界一杯に収めるこの瞬間、彼は自身が強くないことも、強くならなければならないことも忘れていた。
彼は真に、……これは彼に限ったことでも、このアローラという土地に限ったことでもなかったのだけれど、ポケモンを愛していたのだ。
排斥されようとも、強くなれなくとも、認められなくとも、それでもポケモンという存在は、ただ傍にいてくれるだけで彼の力となり、希望となった。かけがえがなかったのだ。

道を一人で歩くこと、一人でカントーへと渡る船に乗ること、それらはグズマにとってどうにも覚束ない、不安と緊張を伴う行為であった。
けれど一人でポケモンリーグを訪れること、一人でポケモントレーナーと対峙すること、これらを彼は恐れない。恐れる理由がない。
何故ならそうした時、彼はポケットの中にいる存在を意識していたからである。自分は一人で戦うのではないのだと、そう思うことができたからである。
彼がポケモントレーナーであり続けた意味は、こうしたところにもあったのかもしれない。

なあ、お前もそうだったんだろう?だからウルトラホールの向こう側にまで、ポケモンを連れていったんだろう?
お前だって、一人になりたくなかったんだろう?

相手の出方を窺うデカグースに、何の遠慮もなく「であいがしら」をお見舞いする。
勝ちたい、という純な祈りは、一人と一匹の間で共鳴していた。

一歩も通さぬ、という気概で立ち塞がるポケモンリーグの四天王と、島巡りをする子供を支え、実力を認めて送り出す役割を担うキャプテンとは、存在意義が根本的に異なっている。
キャプテンは、挑戦者である子供が弱ければある程度手を緩めて戦う。圧倒的な力でねじ伏せるようなことは決してしない。
キャプテンは子供達を導くために存在するのであって、子供達の心を折るために存在している訳ではないからだ。

けれど逆に挑戦者が強ければ、彼等は本来の力を全力で出す。手加減をしなくてもいい、という状況は、彼等の目を輝かせ、キャプテンという役職を忘れさせる。
その結果がこの、地面が抉り取られた凄惨なバトルフィールドにあり、
つまるところグズマというトレーナーは、イリマにとって「我を忘れる程に全力で挑める相手」であったのだろう。
土煙にゴホゴホとむせるグズマとは対照的に、イリマは爽快感溢れる笑みで「いやー、楽しかったですね!」と叫ぶように口にした。
破れたのは彼の方である筈なのに、彼の方がずっと楽しそうに微笑んでいたのだ。

「お見事です、グズマさん。貴方は強い人だったのですね」

額に滲む汗をワイシャツの袖口で拭いながら、柔和に放たれた真っ直ぐな言葉を、しかしグズマは一笑に付した。
それは今おそらく、彼が最も言われたくない言葉であったからだ。
とりわけキャプテンという、輝かしい、確固たる地位を持つ少年にそのように言われても、何の有難みもなかった。彼の神経が逆撫でされるだけであったのだ。
そしてグズマもまた、イリマとは別の意味で真っ直ぐな人間であったから、その苛立ちを隠すことができない。その不快な心地を飲み込んで、なかったことにすることができない。

「そんな訳があるかよ。本当に強けりゃキャプテンくらいにはなれていただろうさ」

「ええ、でもキャプテンであるボクは、四天王に勝つことさえできませんでした。
助けたかった筈の相手に手を伸べられないような中途半端な強さ、……そんなものに、果たしてどれ程の意味があるのでしょうね?」

グズマさん、貴方はボクみたいになってはいけませんよ。
そう付け足して尚も柔和に笑うイリマに、グズマは息を飲んだ。愕然とした。
輝かしい地位を手に入れた宝石たる存在に、憂いなどないものだと思っていたからだ。


2017.1.29

© 2024 雨袱紗