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メレメレ島の東、サニーゴの生息する青い海の傍にその研究所は建っていた。
乱暴にノックすることが躊躇われる程に、そのドアは痛んでいた。ぶっ壊す、などということをせずとも、いずれ壊れてしまいそうな甘すぎる修理だったのだ。
研究以外のことにあまり頓着していないらしいこの屋敷の住人は、快活の過ぎる声音で返事をし、ドタバタと大きな足音を外にまで響かせてから、勢いよくドアを開けた。

「おや、久し振りじゃないか!」

「……おう」

まるで旧友に見せるかのような、太陽のような笑みをグズマに向けるこの男性、ククイは、何の躊躇いも見せずグズマを研究所へと招き入れた。
もう少し警戒してもよさそうなものだが、とグズマは少しばかり呆れ、それとも大したことなどできないだろうと侮られているのだろうか、と考えては僅かに苛立つ。
そうした淀んだ感情でグズマの心は構築されていた。彼の生き様においてそれは当然のことだったから、彼はそのことを悲観しなかった。
この生き方しか知らなかったのだから、悲観のしようがなかった。

「折角来てくれたんだ、ゆっくりしていくといいよ!」

「……あのなあ、アンタと世間話をするために来た訳じゃねえんだよ」

「まあいいじゃないか、そこのソファに座って待っていてくれ!エネココアは切らしているから、代わりにパイルジュースを持ってくるよ」

得意気に笑った口から覗く白い歯が、屋内だというのに妙に眩しく思われて、煩くて、グズマは顔をしかめるように目を細める。
けれど彼のそうした、子供を極めた反応など、子供を忘れぬまま上手に大人になることの叶ったククイには何の打撃にもならない。

くるりと踵を返して地下へと駆け下りるククイを舌打ちで見送り、グズマはソファに腰掛けた。
彼のその動作を待っていたかのように、研究所内を走り回っていたヌイコグマやイワンコが、ぱっとその瞳を輝かせてグズマの方へと駆け寄ってきた。
膝をよじ登ろうとするイワンコを抱き上げれば、ヌイコグマが「狡い」と抗議するように一鳴きする。
グズマは困ったように笑いながら、躊躇いがちにヌイコグマの頭を撫でる。けれどそれだけでは満足ならなかったのか、やはりヌイコグマは何か言いたそうに彼を見上げるのだ。

「……お前は触られるの、嫌なんじゃねえのか?」

「それは誤解だよグズマ。ポケモンにだって個性はあるんだ。人の膝の上に乗ることが好きなヌイコグマがいたっていいだろう?」

彼の言葉に答えを示したのはヌイコグマではなく、パイルジュースを持って駆け上がって来たククイだった。
全速力に近い疾走でパイルジュースを運んでいるにもかかわらずその中身が一滴も零れていないのは、彼の巧みなバランス感覚の為せる技である。
そんな彼を横目で見ながら、呆れたようにグズマは「そうかよ」と肩を竦め、ヌイコグマをそっと抱き上げる。ヌイコグマは嬉しそうにグズマの腕へとしがみ付く。

ポケモンという不思議な命は、スカル団のボスであるグズマを恐れない。大柄で目つきの悪い彼がポケモンに拒絶されたことは、ただの一度だってない。
ポケモンはそうした人の表面を見ない。人はそう簡単にポケモンを騙すことなどできない。

テーブルの上にパイルジュースが勢いよく置かれる。それはククイの憤りを示している訳では決してなく、そういう男なのだ。
「豪快」と「繊細」とを同じ天秤の上に乗せて、ふらふらと指で突いて揺らしては楽しんでいるような、そうした人間なのだ、ククイという男は。
そんな彼が向かいのソファに腰掛け、飲むといいよと促してから、グズマは「……どうも」と小さく告げて、よく冷えたパイルジュースに口を付ける。
アローラの暑い日差しに打たれていた身体には、頭痛を催してしまいかねない冷たさではあったのだが、寧ろグズマにはそれがよかったのだろう。

「さて、君の用件は何となく解っているよ、ミヅキのことだろう?」

「いや、まあそうなんだが……あんたのところに居候しているのはミヅキの方じゃねえだろう」

「おや、リーリエに用事だったんだね!でも残念ながら、彼女はもう此処にはいないんだ」

思わぬ言葉に、グズマはパイルジュースを飲むために開いた口を、その場でぴたりと凍り付かせることになってしまった。
ククイは申し訳なさそうに眉を下げて、「アローラを出て行ったんだよ」と追い打ちをかけた。

あの子供がいつも守っていた、美しいブロンドに緑の目を持つ少女。彼女こそが、アローラの初代チャンピオンのことを誰よりもよく知っている筈だった。
ミヅキ」と「リーリエ」は共にいる。それはアローラを旅する彼女を見ていたなら、誰もが大きく頷くような、否定しようのない事実であった。
あの子供の傍に誰よりも長くいたのは、他の誰でもない、あの少女だった。
故にあのふざけた子供がチャンピオンの間にウルトラホールを開け、その中に引きこもる、などという愚行を働いた理由について、彼女なら、確信をもって答えられる筈だった。
そう信じていたからこそ、グズマは会いたくもない人物の元へと、こうして足を運ぶに至ったというのに。

「君が会いたいというのなら、そうだね……」

彼は暫く考え込む素振りをした後で、自分のジュースをごくごくと一気飲みした。
そいてそのままガシャン、と乱暴にグラスを置く。僅かに残った甘い雫がグラスの壁面をつるりと滑る。
黄色いジュースの気配を残した唇を舌で拭い取ることさえせず、彼はそのままにやりと笑い「4分だ!」と、いつものように右手を掲げて大声を出す。

「4分、待っていてくれ!君がリーリエに会えるよう手配しよう!それまでいなくなってはいけないよ、いいね?」

「はあ?おい、待て、」

訳が分からないまま、説明を乞うように紡がれたグズマの制止を、ククイは満面の笑みでなかったことにして再び地下へと駆け下りた。
追いかけようにも、彼の膝の上にはイワンコが陣取っているのでどうしようもない。深く溜め息を吐いて、まだ半分ほど残っているジュースに口を付ける。
あいつはいつでもあんな調子なのか、と、左腕にしがみついているヌイコグマに視線で尋ねてみる。
ヌイコグマはそうしたグズマの心を読んでいるのか、もしくは単に機嫌がいいだけなのかは解らないが、嬉しそうに鳴き声を上げてグズマの指先にじゃれつき始めた。

何故、アローラを出て行った?あの綺麗な少女は、あいつがあんなことになっているのを知らないのか?
それとも、知っていたからこそアローラを出たのか?彼女はとうとうあの馬鹿を見限ったのか?

相変わらずの全速力で階段を駆け上がってきたククイの、その手には茶封筒が握られている。
強く握り過ぎて少ししわになっているそれを、彼はにっこりと笑ってグズマに渡した。
得体の知れないものを受け取るつもりはない、と視線で示せば、大人になることの叶っているククイは、そんなグズマの視線にも心を乱さず、笑顔を崩さぬままに告げる。

「そのお金で船のチケットを往復分、買うといい。カントー地方のクチバシティという場所だ、間違えちゃいけないぜ!」

「……はあ?おいおい、何言っていやがる!こんなもん、はいそうですかって貰える訳がねえだろうが!」

「まあいいじゃないか、気にしなくてくれ!大人の厚意は素直に受け取っておくものだよ。
リーリエにはクチバシティの船着き場に来るようにと連絡しておいたから、キミはチケットを買って船に乗るだけでいい。簡単だろう?」

茶封筒の中を覗き込めば、確かに遠くの地法に赴くには十分すぎる金額が入っていたため、グズマは顔をしかめることさえ忘れて驚き、唖然とすることとなってしまった。
ポケモン博士を務める傍ら、新米トレーナーに指導をしているこの男が、面倒見のいい性格をしていることには何の不自然さもないのだが、
今回に限ってはその「面倒見の良さ」が、見かけは立派な大人であるグズマに向けられているという、その一点こそが彼の厚意を異常たらしめていた。
それ故に彼は驚き、躊躇い、不安になり、けれどそうした心の揺らぎを隠すために、わざと大きな声を出さなければならなかったのだ。

「箱入りのオヒメサマが、オレなんかにそう易々と会ってくれんのか?」

「おっとグズマ、リーリエを侮蔑めいた言葉で形容するのはやめてもらおうか。ボクとバーネットの大事な娘なんだ」

へえ、とグズマは目を細めた。ククイにしては珍しい「複雑な笑顔」だと思ったからだ。
そこに確かな叱責と憤怒の色を見ることは簡単にできた。グズマにさえ容易く見抜かれてしまう程に、彼の笑顔はあまりにも下手だったのだ。

「キミが何を知りたいのか、何をしようとしているのか、ボクにはあまり分からない。キミが話したくないのなら、ボクも敢えて訊くことはしない。
でもこれだけは言わせてくれ。ポケモン博士としてではなく、一人の人間として」

ククイは微笑んだ。眩しい笑みだった。美しい表情だった。
美しい人を想うとき、その人もまた美しくなるのだ。綺麗な人に綺麗な思いを馳せたなら、その表情は至極洗練された、美を極めたものになって然るべきなのだ。
そうした真実をククイのその顔は体現していた。難儀なこった、と彼を馬鹿にすることなど簡単にできたが、しかしグズマは彼の言葉を嗤わなかった。

「リーリエを傷付けてくれるなよ」

グズマの表情は美しくない。何故なら「彼女」は美しくなどなかったからである。そして彼もまた、「彼女」に綺麗な思いを馳せることなどできなかったからである。
それでいい、構わない。きっとグズマと「彼女」には、美しくないくらいが丁度いい。
小石が自ら輝き出すなどという喜劇は、もうすっかり観飽きてしまった。


2017.1.26

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