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「あんた、これからどうするんだい」

寂れたポータウンの屋敷で、床に散らばった窓ガラスの破片を履き集めながらプルメリはそう尋ねた。
ペンキを粗く塗り過ぎて凸凹になってしまった屋敷の壁、そこに凭れ掛かりながらグズマは「知るかよ」と吐き捨てるように口にする。
プルメリは彼のそうした態度を特に気にする風でもなく、ささやかな笑みを浮かべて目を伏せる。

「……まあ、あんたには帰る場所も、養ってくれる人もいるから、特に悩む必要もないのか」

この男にとってスカル団は自己表現の手段であり、彼が輝くためのステージに過ぎなかった。
ステージを追われても、この男には生きる術がある。帰るべき場所も、縋るべき人も存在している。
プルメリは、彼がそうした悉く恵まれた環境にいることを暗に指摘している。そのことに気が付かない程、グズマは鈍く出来ていない。

けれどプルメリは、グズマに申し訳なさを抱くことを期待していたわけでは決してないのだ。
ただ「此処でしか生きていかれない連中はあたいの他にも沢山いるから、無理に屋敷を追い出すことはしないでほしい」という、
そうした趣旨の懇願を示すことさえできれば、一先ずはそれでよかったのだ。
プルメリとて、スカル団を失った彼の傷に、塩を塗るような真似はしたくなかった。
それにこの懇願は、今日、グズマに伝えるべき要件のための前座に過ぎない。彼女の本題は此処から始まろうとしている。

「ただね、帰る前にちょっと見てほしいものがあるんだ」

プルメリはそう告げて、ポケットの中から1枚の写真を取り出した。
グズマは言われるがままに壁から背中をひょいと浮かせて、彼女の手元を覗き込み、そして、瞠目した。

「……」

青を基調とした空間の真ん中に、立派な椅子が備え付けられていた。その上には使い古されたピッピ人形がぽつんと佇んでいた。
椅子の真後ろにぽっかりと空いた穴がウルトラホールであることに、彼はあまりにも早く気が付いてしまった。

「ラナキラマウンテンにポケモンリーグが出来ただろう。そこのチャンピオンの間の様子だよ」

闇を極めた黒雲がぐるぐると渦を巻いていて、その向こうにうっすらと人影が見えた。小柄なその影は、性別さえも解らない、ただ黒く曖昧なものでしかなかった。
けれど彼にはその人影が誰であるのか、解ってしまった。こいつは誰だ、と目を凝らす必要さえなかったのだ。

「あたいはこの5日間、毎日のようにポケモンリーグに通っていてね、運が味方してくれたのか、2回だけ四天王全員に勝つことができたんだ。
でもミヅキに会うことはできなかった。アシレーヌに追い返されたんだ。……あいつは、その穴から出てきさえしなかったよ」

アシレーヌとは、「ミヅキ」が連れていた水ポケモンである。
彼女は10匹以上のポケモンを育て、パソコンに預けたり引き出したりして島巡りを続けていたが、アシレーヌだけはパソコンに入ることなく、いつまでも彼女の傍に在った。
彼女と戦ったことのあるトレーナーなら、誰でもアシレーヌのことを知っている。彼女が繰り出す一番手は、決まってこのポケモンだったからだ。

「あたいはこいつに恩がある。スカル団の連中もあいつのことを心配している。でもあたいじゃ駄目だった。力が足りなかった。
それに万が一あいつのアシレーヌを倒せたとして、……きっとあたいの言葉は届かないだろう」

彼女と苦楽を共にしてきたアシレーヌの、彼女に対する忠誠心は並一通りのものではないのだろう。アシレーヌは彼女のために、チャンピオンの座を守り続けているのだろう。
トレーナーを慕うポケモンは、時に理屈以上の力を見せる。強すぎる信頼関係を結んだポケモンとトレーナーは、時に大きすぎる力を手にして暴走する。
「その力を振るうことが、本当にお前の愛するトレーナーのためになるのか?」
そうした内省を経ないまま、迷わないまま、ポケモンは強さを増し続ける。その暴走は、余程のことがない限り止まらない。並大抵の力では、止めることなどできない。

故にポケモンリーグを訪れ、四天王を勝ち抜き、チャンピオンの間にまで足を運ぶ程の実力者であったプルメリが、
けれどたった一匹のアシレーヌに対して手も足も出ないままに敗れ、追い返されてしまったとして、それはある意味当然のことであったのかもしれなかった。
たった一匹を倒すことも叶わない程に、アシレーヌの、彼女に対する想いは強かったのだと、ただそれだけのことであったのだから、プルメリに過失があった訳では決してなかった。
それでも彼女は悔しそうに「あたいじゃ駄目だった」と口にする。その言葉の本当の意味に、グズマは気付きたくなくとも気が付いてしまう。

「なんでオレにこの話をした」

「言わせるのかい?まったくあんたは相変わらず馬鹿だねえ」

解っている。プルメリが何を言いたいのか、グズマにはとてもよく解っている。
けれどそうした推測を確信に変えるには、やはり相応の言葉が必要なのだ。推し量った先を見据えて動き出せる程、グズマは勇敢な人間ではなかった。
彼はその実、とても臆病に出来ていたのだ。推測が確信に変わらなければ前へと進めないのだ。

「あんたの言葉ならあるいは、って思っちまったんだよ。これはあたいとスカル団の、皆の願いだ。どうだい、やってくれないかい?」

もっともその臆病は、彼が大人になり切れていないが故のものでは決してない。それは彼の性分であり、仮に彼が大人になれたからとて、容易く消し去れるようなものではない。
プルメリはそれを解っている。だから苦笑して「馬鹿だねえ」と言いつつも、求められればしっかりと言葉を用意する。
求める前から全てを告げることはしないけれど、それでも彼を支え続けてきた一人の人間としての最善を、プルメリはとてもよく解っている。

さて、そんな彼女に確信を差し出されてしまったグズマは、どうしたものかと目を伏せて、考えた。
アローラを震撼させたUB事件をあっという間に解決し、初代ポケモンリーグのチャンピオンに上りつめた彼女。誰からも愛され、誰よりも輝いている筈の、たった11歳の彼女。
それが今、どうして「こんなこと」になっているのか。誰よりも光を浴びるべき彼女が何故、何処よりも暗い場所に佇むことを選んでいるのか。
それらを判断するための材料が、グズマには圧倒的に不足していた。浮かぶ可能性はどれも推測の域を出ず、断言するには情報も自信も、何もかもが足りなかったのだ。

あいつは本当に、オレがやって来ることを望んでいるのか?本当はオレのことなど、忘れてしまっているのではないのか?
もうあいつには、どんな言葉も誰の想いも、届かないのではないか?そういうところにあいつは行ってしまったのではないか?遅すぎたのではないか?
オレが此処へ足を運んだとして、あいつは姿を現すのか?オレはあいつのアシレーヌを倒せるのか?そもそも四天王全員に勝つことなどできるのか?

また、手を掴み損ねるのではないか?

グズマを支配する不安は波の形をしていた。一つの不安が寄せては返り、また次の懸念を連れてくるのだ。
それらを看過することも、気丈に受け止めることもできずに、彼の臆病は程度を増した。全ての不安を一つずつ拾い上げて解決していくには、彼の生きた時間は忙し過ぎた。
彼は自らが処理できる感情の量を見誤っていた。見誤ったまま体ばかりが大きくなってしまった。不安に襲われる彼はまだ、やはり子供の形を取るしかなかったのだ。

「……あいつを引っ張り出して、その後は?どうするつもりなんだよ」

そうした不安を処理する術を知らない彼は、突き放すようにそう尋ねるしかない。
それが解っているから、プルメリは彼のそうした言い方を咎めない。彼女がグズマに呆れ、彼を窘めたことは数あれど、彼を否定したことはただの一度もない。

「どうもしないさ。どうにもできないよ。あの強い子が抱えた弱さなんか、あたいらが束になったところでどうこうできるようなものじゃないんだ。
でも、それでもいいじゃないか。何もできなくても、どうしようもなくとも、あたいらは集まっているだけでよかったじゃないか」

「……」

「なあグズマ、あんたは救われなかったかもしれないけどね、あたいはスカル団に救われていたのさ。そんなこと、他の連中だって同じように思っているだろうよ。
あんたにはその力があったんだ、人を集める力、人に縋られる力、人を一人にしない力だ。……その力、ミヅキにも使ってやってくれないかい」

彼は恵まれていた。不安になれば彼の背中を誰かが押した。彼が欲すれば誰かが手を引いてくれた。彼は守られる権利と愛される場所を有した男であった。
彼は幸いであった。だからこそ、その幸いが育てた彼の無骨な優しさが、多くの人に居場所を与えるに至ったのだ。
スカル団はそうした組織だった。上に立つのはやはり、プルメリではなく、彼でなければならなかったのだ。
プルメリは、同じことをミヅキにもしてみせろと言っている。あんたならやれるだろうと背中を押している。後は彼が進むだけであった。けれど。

「話を、聞かなきゃならねえ奴がいる。ポケモンリーグに向かうのはその後だ」

「ああ、いいさ。どうせあたいじゃ手も足も出ないんだ。あんたの覚悟が決まるまで待つことにするよ」

手荒な真似だけはするんじゃないよ、と念を押せば、グズマは小さく舌打ちをして歩き出した。割れた窓から飛び出して、大きく壊れた屋根から下へと豪快に飛び下りた。
霧雨の中、遠ざかる大きな後ろ姿にひらひらと手を振って、プルメリはどうか、と一瞬だけ祈り、そしてすぐに箒を持ち直した。

彼にしかできないことがあるように、彼女にしかできないことだってあるのだ。彼の下に立つのは、やはりこの女性でなければならなかったのだ。
そのことを、プルメリ自身もある程度心得ている。彼女は自らの輝きに対する、自己の評価と他者からの評価を完全に一致させている。彼女の認知は、歪んでいない。
だからこそ彼女は、グズマを除いたスカル団の全員が此処を去るまで、この役目から下りることはするまいと、誰に告げるでもなくそう、誓っている。

割れた窓ガラスの処理は、あと三枚分、残っている。


2017.1.26

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