39 (With M)

夜の砂漠は悉く、人の視界を奪うことに特化していた。そもそも強く吹き荒れる砂嵐のせいで、今、自身が何処に立っているかを把握することさえできないのだ。
目を、はっきりと開くことができないのだ。

だからグズマは端から正面を見ず、細く僅かに開いた目を足元の砂へと落とし、ただひたすらに歩き続けた。
それだけでよかった。周りを見渡す必要などまるでなかった。彼はこの砂漠を知り過ぎていた。先程の少女の言葉は正しかったのだ。
飽きる程にこの砂漠を訪れていたのは、彼自身への戒めに他ならない。彼はいつだって恐れていた。畏れていたのだ。
彼の暴力性を最も強く受けていたのは、他の誰でもない、彼であった。

それでも他者を傷付けてしまうのはこの男の性でもあり、長く身体に染み付いたその癖は最早どうしようもなかったようで、
めっきり静かになってしまった彼女が、自身の後ろに存在していることを確かめるように、彼は幾度かあまりにも強くその手首を掴み直し、その度に爪を立てて彼女を傷付けた。
その度に少女はクスクスと、まるで痛めつけられていることを喜ぶように小さく笑った。おかしな奴だと思ったが、その手は決して放されなかった。

「グズマさんのこと、大好きですよ。貴方といると、私が一人だってこと、忘れてしまいそうになるんです」

さて、そんな彼に乱暴に手首を掴まれ、引きずられるように歩いていた少女は、相変わらずの笑顔を湛えながら、唐突にそんなことを口にする。
愛されている筈の存在が、愛されていることをすっかり忘れて「一人」などと戯言を奏でている。
その様こそ、彼女の「頑張っている姿」よりも余程滑稽なものであった。その滑稽な心地は、一笑に付すべき、馬鹿げた、下らないものであったのだ。
覚えたての卑下を得意気に振りかざしているのだろう、そんな風に考えて取り合わないようにすることなど簡単にできた。子供の喚きなど、真剣に捉えるべきものではないのだ。

けれど、そうした「子供」への対処を弁えていなかったグズマは、何より自らがそうした子供の心地を十分に残していた彼は、少女のそんな言葉にひどく驚き、狼狽してしまったのだ。
背中を、冷たい刃物で撫でられているような心地だった。気味の悪さに眉をひそめた。恐怖さえ覚えてしまった。
そうした心臓を撫でる不穏な心地を、グズマは「ふざけるな」という憤りで上から勢いよく塗り潰し、歪な顔で笑ってみせた。笑えば、どうとでもなるように思われたのだ。

「一人だあ?スカしたこと言いやがって。お前にはめでたい頭のオトモダチも、お前を慕うオヒメサマもいるじゃねえか。それの何処が一人だってんだ?」

「そういうところが一人なんですよ、グズマさん。貴方はきっと解ってくれますよね」

オトモダチやオヒメサマと共に在ることを許されている筈の少女は、けれど何処までも孤独を見ていた。
寧ろそうした彼等と共に在ることにこそ自らの孤独があるのだと、一人でないのに一人なのだと、そうした訳の分からない絶望の心地を口にして、けれどやはり、笑うのだ。
ぶっ壊れていやがるなあ、と思った。その「壊れ方」がどこまでも悲しい形をしていることに、彼は少しずつ気が付き始めていた。

一人でないこと、愛されていること、それは必ずしも幸福なことではないのだ。そうした心地ならグズマは嫌という程によく知っていた。
満足のいかない結果に対してあまりにも優しく賞賛されること、そもそも頑張ることさえも不必要なものであるとみなされてしまうこと、
どのように生きるべきだ、という指針を与えられないこと、強さの意味を教えてくれないこと、世界がどこまでも小さく閉じていること。
劣悪な家庭環境であるという訳では決してなかった。ただ、冒険心と野望を年相応に持ち合わせていた彼には、少年を極めたまま大きくなってしまった彼には、相性が悪すぎた。

ただそこにいてくれるだけで、かけがえがない。

究極の愛であるかのように思われるその理念が、2番道路に佇むあの小さな家の中、彼の首を緩やかに閉め続けていた。息苦しくて、耐えられなくなって、彼は家を飛び出した。
彼のねじれの根源は、あの小さな家で与えられ続けた「愛」にこそあったのかもしれなかった。

そうしたことを考えながら、彼は砂嵐の中でふと足を止める。振り返れば、真っ直ぐにこちらを見上げた少女と視線がぶつかる。
「道、解らなくなっちゃいましたか?」と、楽しそうに、それでいて少しばかり不安そうに尋ねるものだから、乱暴に否定の言葉を吐き出して再び前を向く。
小さな少女に背を向けて、大きな歩幅で歩き出す。一歩、二歩と続ければ、彼は後ろの少女に掛けたかった言葉を夜の砂漠の中に溶かして、忘れていく。

お前も悔しかったのか?お前も自らの努力を、勝利を、敗北を、苦汁を、無価値なものだとみなされたことがあったのか?
愛されていたからこそ、孤独を極めたのか?お前は、自他共にその価値を認める何かを探すために、島巡りなんて下らないものをしているのか?
価値を得るためにどうすればいいか解らなくて、そうしたことを誰も教えてくれなくて、愛情を与えられたからこそ遣る瀬無くて、だからそうやって、一人で足掻いていやがるのか?

『異常なことをしなければ私の価値は手に入らない。危険なことをしなければ誰も私を覚えてくれない。私は、私にしかできないことが欲しい!』
あれはお前の、心からの言葉だったのか?

「グズマさん見てください、オアシスですよ!私達、砂漠を抜けられたんですね!」

砂嵐の中を歩きながらぐるぐると巡らせていたそんな思考は、しかし少女が唐突に上げた声によって勢いよく破き取られてしまった。
グズマは慌てて顔を上げ、先程まで自身の頬を叩きつけていた砂嵐が完全に消えてしまっていることに、ようやく気付いた。

凄いですね、ありがとうございます、もう一生出られないままかと思いました、グズマさんがいてくれて本当に良かった。
子供らしい歓喜を極めた金切り声で、どこまでも純な言葉を繰り返しながら、けれどその眩しい笑顔はグズマから一瞬たりとも逸らされなかった。
忙しなさと愚直さを絶妙なバランスで持ち合わせた少女だった。その小さな口から飛び出す鮮やかで忙しない言葉、その全てが今はグズマただ一人に向けられていた。

彼にとって此処は馴染みのあり過ぎる場所であり、もう何年も、何百回と訪れているこの砂漠を抜けることなど造作もなかったのだが、
少女にしてみれば此処は迷宮であり、彼女にとって砂漠というのは現実離れした、どこまでも異常なものであった。
彼女には、彼がこの夜の砂漠の中で、何を目印にし、どんな確信をもって歩みを進めていたのか、まるで見当がついていないのだろう。
故に、迷うことなく大きな歩幅で真っ直ぐ歩いた彼の技量が、どうにも人間離れした、素晴らしすぎるものに思われたとして、それは当然のことであったのかもしれなかった。

「おら、さっさと行け。これに懲りたらもう此処へは入るなよ」

歓喜、感謝、驚愕、尊敬。彼女から発される鮮やかな言葉、その言葉が示す数多の感情。それらを余すところなく受け止めて笑うには、今の彼はあまりにも子供であった。
だから彼は少女の頭を軽く拳で殴り、そのように忠告することしかできなかったのだ。それが今の彼に為せる最善であり、限界であった。

「あ、待ってくださいグズマさん!お礼にあげたいものがあるんです」

踵を返して立ち去ろうとしたグズマを彼女は呼び止め、鞄から小さなビニール袋を取り出し、グズマの大きな手に強引に握らせた。
厚紙に包まれたその中身は、アローラに住む人間ならば誰もが知っているマラサダであった。
色合いからして甘いマラサダであると推測できるそれは、夜の砂漠を歩き通した中ですっかり冷え切ってしまっていた。
けれど冷えたところでマラサダの美味しさはあまり損なわれないことを、アローラの人間であるグズマはとてもよく解っていたため、
冷え切ったマラサダを「お礼に」と渡すこの少女の行為を、無礼な、礼儀を欠いたものであるとは全く思わなかった。寧ろ、嬉しかったのだ。
故にグズマは素直にその「いいもの」への喜びを露わにした。……そして、少しばかり訝しんだ。

「いいのか?お前が食べようと思って買っておいたものじゃねえのか?」

「元々、私が食べるために買っていたものじゃないんです」

さも当然のようにそう口にして、少女は「だって」とやや早口で理由を語ってみせる。
至極楽しそうに、嬉しそうに、マラサダを持っていた訳を紡いで、浴びせて、取り繕うように笑う。

「大好きな人達が大好きなマラサダは、やっぱり大好きな人に食べてもらいたいでしょう?
大好きな人に会えたらいいな、マラサダを渡してあげられたらいいなっていう、願掛けのつもりで毎日、買っているんですよ」

あまりにも綺麗な理由だった。美を極めた理屈であり、少女が自らのそうした言葉に酔っているようにさえ思われた。
だからこそグズマは「そうかよ」と相槌を打つことができなかった。

これは大人の顔だ、美しい理屈をまくし立てるときの奴等の顔だ。

大人になり切れていない彼は、そうした美しい理屈を嫌という程に聞かされて育った彼は、瞬く間にそう確信できてしまった。
大人と子供の境に立つ彼だからこそ、拾い上げることの叶った違和感であった。
けれど彼女がそうした「美しすぎる理屈」を慌ててまくし立てなければならなかった、その理由を、やはり子供であるグズマは理解できない。
彼女がどのような意図をもって、そのような綺麗事を奏でたのか、確信をもって断言することができない。できないから、推測するしかない。

「……」

けれど彼がそうした推測の元に口を開こうとした頃には、少女はもう、踵を返してカプの村の方角へと駆け出してしまっていた。
おい、と呼び止めようとして、やめた。声を上げるために吸い込んだ夜の空気があまりにも寒かったからだ。
あの氷の部屋を思い出させるような、喉に突き刺さるような冷たさだったからだ。思わず肩を抱き、空を見上げれば、月が随分と高く昇っていた。夜が更けていたのだ。

子供は、いつまでも寒いところにいるべきじゃない。さっさとポケモンセンターで宿を借りて、休むべきだ。たった11歳の子供の休息を奪いたくはなかった。
ぐっすり眠って、元気になって、あのような綺麗事をまくし立てず無邪気に真っ直ぐに旅を続けて、誰にも負けない強さを手に入れて……。
そうして彼女は、「彼女にしかできないこと」を手に入れるのだろう。
彼女の旅路にグズマが介入する必要など何処にもない。何処にもないと、解っていながら彼は少女の歩みへと思いを馳せた。馳せずにはいられなかったのだ。

『私も怖いところが好きなんです!』
朗らかにそう告げた彼女と次に顔を合わせることがあるとして、その場所が「何処」であるのか、グズマにはおおよその見当が付いていた。

数日後、彼はもう一度彼女に会うために、その場所へと足を運ぶことになる。


2017.1.23

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