31

ショックで錯乱した母様は、ウツロイドと融合して襲い掛かってきました。
彼女はあまりにも冷静な様子でボールを投げ、指示を出すことなく、じっと母様を見つめていました。
その煤色の瞳が、眩しそうにすっと細められたような気がして、わたしはにわかに恐ろしくなりました。
けれど恐ろしくなったからといって何かできる訳でもなく、ただ、早く終わってくださいと、母様を助けてくださいと、祈ることしかできませんでした。

母様は彼女を抱き締めるために戦いました。彼女は母様を拒絶するために戦いました。
煌めく宝石の世界で為された、たった一度きりのポケモンバトルは、そうした、どこまでも悲しいものだったのです。

「助けて、ソルガレオさん……!」

そんなわたしの呼び声に、ソルガレオさんは応えてくれました。
元の姿に戻り、穏やかな目でわたしを見つめた母様に、昔の優しかった母様の面影を重ねることはあまりにも簡単にできました。
ウルトラビーストのことばかり考えていた母様は、けれどようやく、元の優しい母様に戻ってくれたのかもしれません。
そんな風に思いたくなったのです。希望を抱きたくなったのです。
気を失う前の優しい眼差しを、わたしは、わたしの都合のいい幻覚だとすることができませんでした。どうか本物であってくださいと、祈るばかりでした。

母様も、グズマさんも、わたしも彼女も、ウルトラビーストの世界から戻ってくることができました。
駆け付けてくださったハプウさんがいなければ、わたしはあの祭壇で何をすべきか解らず、ただ立ち尽くして無為に時間を過ごしていたことでしょう。

最後まで、わたしは何もできませんでした。
僅かな力で母様を止められると思い上がり、拙い言葉で彼女を救えると思い上がった挙句、誰にも報いることができませんでした。
こんなわたしとソルガレオさんが一緒にいたところで、わたしはソルガレオさんに、狭く窮屈な、つまらない世界しか見せてあげることができないでしょう。
……そう思ったわたしは、彼女にソルガレオさんを託すことにしました。
わたしには最後まで何の力もありませんでしたが、ソルガレオさんには素晴らしい力があります。きっとソルガレオさんなら、彼女の力になってくれる筈です。

「ソルガレオさん……ううん、ほしぐもちゃん。これからはミヅキさんと広い世界を見るのよ。
強いポケモンさんに全力で挑む勝負、いろんなトレーナーさんとの胸躍る交流……。ミヅキさんなら、いろんな世界を貴方に教えてくれますから!」

紡ぐ言葉は、歓喜と安堵に震えていました。
だって空虚ではなかったのです。ほしぐもちゃんに紡ぐ言葉だけが、しっかりとした形と温度のまま、届いたのです。
わたしの言葉が、すり抜けることも弾き返されることも捻じ曲げられることもせずに、真っ直ぐにほしぐもちゃんの心へ届いているのだと、確信することができたのです。
母様に紡いだ言葉も、彼女に捧げた言葉も、弾き返され、捻じ曲げられ、なかったことにされて……。異常な人物には、異常な人物の言葉しか届かなくて……。
わたしも少し、疲れてしまったようです。

「わたしは……かあさまの傍に、いますから。あの様子、心配ですし……」

彼女はハイパーボールを握り締めたまま、わたしを真っ直ぐに見つめました。
わたしは思わず目を逸らして、すっかり暮れてしまった夜空を見上げました。そしてそのまま、踵を返して駆け出しました。
お礼を言うことも、別れの言葉を紡ぐことも、謝ることさえできませんでした。
これ以上、わたしが此処にいてはいけないような気がしたのです。彼女の何もかもを傷付けたわたしは、もう、彼女の前に立つことさえ許されないように思われたのです。

貴方に出会わなければよかった。
そうすれば貴方は、出会った頃の貴方のような笑顔で、今も笑えていたかもしれないのに。

わたしから解放された彼女は、ウラウラ島に新設されたポケモンリーグに向かっていたようです。エーテルパラダイスに戻ってきた兄様が教えてくれました。
ポケモンリーグについてわたしが知っていることは少なかったのですが、強いトレーナーさんに挑む場所であるということくらいは理解していました。
彼女は更に、己の強さを磨きに行ったのです。

『力なんて何の役にも立たない。一人で生きていけるなんてちっとも名誉なことじゃない。』
日記にそう書き殴っていた彼女は、一度はそう言って、自らの力の象徴であるポケモンさんを手放した彼女は、けれど再びポケモントレーナーとして強くなることを選んだのです。
全てを諦めた筈の彼女は一体、何のために強くなろうとしていたのでしょう。彼女があの高い山を登る意味は、一体、何処にあったというのでしょう。
わたしにはそれが、彼女の、自らを痛めつける行為のように思われました。
そんなに辛いならやめてしまえばいいのに、疲れたのなら休めばいいのに、と思ったのですが、
そうしたわたしの思考を責めるように、『やめたい。でもやめたら皆は私を忘れるんでしょう?』という日記の文章が、記憶の中で暴れました。

彼女は全てを諦めたにもかかわらず、歩みを止めることができないのです。止めること、休むことは彼女にとって、自らの死よりも恐ろしいのです。
あんなにも強くて勇敢で優しい彼女が、どうしてそんな風に苦しまなければならないのでしょう。
悲しい人だと思いました。彼女を苦しめる何もかもに憤りさえ覚えました。
わたしは、彼女を苦しめたわたしのことも、歪んだ認知でしか世界を見ることが叶わなかった彼女のことも、嫌いになりかけていました。
彼女が苦しみながらも「大好き」と紡ぎ続けてくれたにもかかわらず、わたしはこんなにも早く、その言葉を憎もうとしていたのです。

わたしは利己的な人間でした。酷い人間でした。
言葉や想いばかりを大仰に振りかざして、沢山の人を振り回して、巻き込んで、苦しめた、何の力もない人間でした。

けれどそんな酷いわたしに、目覚めた母様は笑いかけてくれたのです。

ビッケさんが献身的に介抱してくださったおかげで、母様は少しですが、話すことができるようになりました。
最初こそ、目覚めた母様があまりにも優しく微笑んでくれたことに、わたしは驚き、狼狽していました。
昔の面影を残してこそいるものの、まるで先日までとは別人のようになってしまった母様の正気を、わたしは少し、……いえ、かなり疑っていたのです。
けれど数日、そうした母様と一緒にいて、胸が潰れそうな程の懐かしさに溢れる時間を過ごしていると、
不思議なことに、あの悲しい日々こそが幻だったのではないかと、わたしや兄様は長い夢を見ていたのではないかと、そんな風にさえ思えるようになってしまったのです。

わたしも兄様も、母様のことが大好きでした。母様がウルトラビーストのことばかり考えるようになるまでは、ずっと、仲のいい家族でした。
ですから、母様があのように豹変した原因や、昔の母様に戻ってくれた理由が解らずとも、その変化に理屈がなくとも、構わなかったのです。
ただ、愛している。家族というのはそうしたものだと、兄様もわたしも解っていました。
だからわたしは、母様のしたことを窘めつつ、けれど母様を見限ることは決してしませんでした。言葉の通じるようになった母様を憎む道理など、ありませんでした。

……後日、ビッケさんの調査で、母様があのようになった原因が明らかになりました。
ウツロイドと呼ばれるウルトラビーストは、神経毒を生き物に注入して寄生するという性質を持っていました。
寄生された相手は、ウルトラビーストを守ることに専心してしまい、人間的な倫理や良心の及ばない程の、暴力的な衝動に任せて振る舞うことを余儀なくされてしまうようです。

母様は昔から、ポケモンのことが大好きでした。ウツロイドの毒を受けたことによって、その愛情がよくない方向に働いてしまったのでしょう。
エーテル財団は長い間、ウルトラビーストの研究を続けていたようですから、母様は数年前からずっと、ウツロイドに毒されていたことになります。
長い間、母様は一人で苦しみ続けてきたのです。
けれど母様の苦しみが明らかになったからといって、母様が沢山の命を苦しめたことが許される訳ではありません。
母様も、そのことはよく解っているようでした。まるで幼い子供のように、ごめんなさい、ごめんなさいと、目に涙を溜めながら謝っていました。

「一緒に償いましょうね、かあさま。わたしもにいさまも、もう逃げたりしませんから。かあさまを一人にしたりしませんから」

母様の意識は、鮮明と不鮮明の間を行ったり来たりしていました。わたしはそんな母様に、何度も同じ言葉を繰り返しました。
母様のしてきたことは直ぐには許されない、ということ。償うためにはきっと長い時間がかかる、ということ。
それでも一緒に償うだけの覚悟がわたしにはあること。貴方はもう一人になったりしない、ということ。
何度も何度も繰り返しました。言葉を紡ぐことは、もう、苦痛ではありませんでした。
わたしの拙い言葉は、けれど確かに母様に届いていたからです。そう信じられたのです。嬉しかったのです。

けれど母様の容態はとても不安定で、これ以上の回復を図るためには何か策を練らなければいけませんでした。母様の身体に残った神経毒を、取り除く必要があったのです。
そのための手がかりは本の中にありました。昔読んだ本に、人とポケモンが融合し、その後、分離にも成功したという事例があったことを思い出したのです。

埃を被った本棚の本を全て引っ張り出し、わたしはその話を探しました。50冊を超えた辺りで、やっと見つけることが叶いました。
その本を執筆した研究者は今もカントー地方に住んでいて、ポケモンの預かりシステムを管理する仕事をしている、という情報を得ることができました。
カントー地方、という地名を聞いてすぐに、わたしはカントー行きのチケットを、メレメレ島の乗船場で購入しました。

わたしは随分と焦っていたようです。急き立てられるように動いていたことは否めません。
けれど、どんな僅かな可能性であろうとも、構いませんでした。だって、嬉しかったのです。
わたしが母様のためにできることがある。何もできなかったわたしが、初めて何かをすることができるかもしれない。そう思えたのです。嬉しかったのです。

兄様は、母様の代わりにエーテル財団をまとめる役割を引き受けてくださいました。
わたしではどう足掻いてもできない仕事でしたから、兄様が自らその役割を引き受けてくださるのはとても有難いことでした。

兄様の分まで、母様と一緒にいようと思いました。母様の回復を、絶対に諦めないでいようと、わたしは眠りについた母様の傍で静かに誓いました。
そのために強さと勇敢さが必要であることを、わたしはとてもよく解っていました。彼女のような強さと勇敢さを、と、いつだって思い続けてきました。
私の理想とする姿は、いつだって彼女の形をしていました。笑顔の絶えない、出会った頃の彼女の姿をしていました。その背中には、金色の翼が生えていました。
母様の神経毒が解かれても、わたしの幻覚は一生消えないのでしょう。解っていました。
その幻覚が、無力なわたしの罪の証であることだって、弁えていました。

……その知らせは、カントー行きを明日に控えた、よく晴れた日の午後にやって来ました。
彼女が、ポケモンリーグの初代チャンピオンになったのです。


2017.1.4

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