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1階のエントランスホールを奥へと進むと、中には大きな屋敷があった。私の家よりもずっと豪華で高級そうなその空間へと、彼女は私の手を引いてやって来た。
部屋はやはりその外観に違わぬ白さだった。道も壁も天井も、全てが白い。繊細な装飾は金色をしていて、まるで彼女の髪の色のようだと思った。

奥の部屋へと通された私は、やはり白く広がる空間でどのように息をすればいいのか解らず、困り果てていた。
此処には風がない。髪が強風に乱れることもないし、昼間なのに空調が整い過ぎているせいか汗一つかかない。悉く無機質な空間だと思った。
美しすぎて、恐ろしかった。

ああ、きっとそのせいなのだと思った。私はこの空間を、そして此処に馴染み過ぎた彼女を恐れているのだと、認めれば少しだけ楽になった。
私の首を絞めていた感情の正体に辿り着けたことで、少し息がしやすくなった。

新しいポケモンに出会う時は、ドキドキする。
素敵な出会いに気分は限りなく高揚しているけれど、相手がどんな生き物で、どんな技を繰り出してくるか解らない状況というのは、少なからず不安で、怖いものだ。
得体の知れないものは恐ろしい。未知のものには不安が寄り添う。つまりは私がこんなに苦しんでいるのも、そうしたことが理由だったのだろう。
この白い空間や美しすぎる彼女と、本来なら私は交わることなどきっとなかったから、「此処」が未知の空間であるから、恐れているのだろう。
端役が入ることの叶わない、主人公の舞台裏を覗き見ているから、だから、こんなにも恐ろしいのだろう。これはそうした「畏れ多さ」が生む不安だったのだ。

そう思うことにした。それが正解でも間違いでも構わなかった。どちらでも、私が此処ですべきことは変わらないと心得ていたからだ。
普通の人ならこの恐ろしい人を前にすれば、逃げるのだろう。恐れおののくのだろう。
だから私はその逆を選べばいい。そうすれば私は「普通」の枠から飛び出せる。私にしかできないことが、きっとこの綺麗な人との時間の先にある。

座り心地の良すぎる椅子に、彼女はそっと私の肩を押して座らせた。
白い床へと跪き、私を見上げて「大丈夫よ」と微笑む彼女から、しかし私はもう目を逸らさなかった。もう覚悟は決まっていたのだから、逸らしようがなかった。

「どうして私を此処へ連れてきたんですか?」

「震えている子を追い返すことなんてできないでしょう?」

すっと、彼女は両目の宝石を細めて微笑んだ。
何かの花の香りがしたような気がした。メレメレの花園に漂う香りとは大きく異なる、冷たい場所で咲くような花の香りだと思った。

「わたくしが怖いかしら?」

躊躇うことなく大きく頷けば、彼女は本当に嬉しそうに笑った。2階の、あの白い温室では見ることの叶わなかった、少しばかり愉快な表情だった。
この宝石のような女性はこんな風にも笑うのだ。

「だから私、貴方のことを知ることにしました」

「……ふふ、おかしな子ね。怖いわたくしのことをどうして知りたいと思うの?」

「貴方のことが怖いと思うのは、貴方のことを全く知らないからだと思ったから。……貴方を知れば、貴方のことだってきっと好きになれると思うんです」

私のような普通じゃない人のことを、大人の世界では「博愛主義者」と呼ぶらしい。難しい言葉だったから、その言葉を紐解くことはしたくない。
どうせ私は時が経てば大人になり、難しい言葉を使わなければならなくなってしまうのだから、まだ平易な言葉が許される今は、私の心に正直な単語や言い回しを使っていたい。
そして、そうした平易な私の平易な心に従い、平易な言葉で私の信念を語るなら、きっと、こういうことになるのだろう。

私は誰も嫌いたくなんかない。私はこの大好きな土地で出会うことの叶った皆と仲良くなりたい。誰も恐れたくはないし、誰も憎みたくなんかない。
だから私は、この女性を、この白い空間を恐ろしいと思ってしまう私を許せない。
だってそんなことは誰にだってできる。私は恐怖に、そのありふれた感情に甘んじたくない。

「……わたくしのことを好きになろうとしてくれているの?どうして?」

先程も、再会した時も彼女は私に質問をした。私はその度に迷いなく答えるように努めたけれど、今回の問いに答えるのはとても難しいことであるような気がした。
私の「信念」の理由を問うているこの女性は、そうした私の心を揺らそうとしているのかもしれなかった。
構わない、と思った。私は揺らがない。

「ザオボーさんが私とハウを此処に招待してくれました。ビッケさんも私達を歓迎してくれました。職員さんもとても親切でした。それに貴方が……私の名前を呼んでくれました。
この不思議な場所にいる皆は、とても素敵でかっこよくて、キラキラしていて、優しい。
だから私は皆を好きになりたい。そのためにこの場所を、貴方のことを知りたい!」

きっと私は此処を去るべきだったのだろう。

ザオボーさんが私を此処に招待してくれたのは、彼の窮地に私が偶然居合わせたからだ。
ビッケさんが私達に優しい言葉をかけてくれたのは、そうすることが大人の世界の礼儀であるからだ。
職員さんが親切にしてくれたのだって、そうすることがエーテル財団という組織の株を上げることになるからだ。

彼等は神秘的かつ厳格な大人の世界で生きている。だから私達は優しく追い返されたのだ。
私は再び、このキラキラとした深い海を越えて、島巡りの続きを再開するべきだったのだ。そうして私はこの財団のことを、この女性のことを忘れていくべきだったのだ。

けれど、好奇心の過ぎる私は此処に残ってしまった。彼女の、主役を極めた輝きに焦がれすぎて、立ち去るタイミングを完全に失ってしまった。そうして、彼女に捕まった。
そんな私はきっと間違っていたのだろう。構わない、と思った。
たとえあの船から飛び出さなかったとして、この組織のことを忘れられたとして、それが限りなく正しい道であったとして、けれど私はそれを選ばない。
時が戻ったとしても私はあの船の手すりに足を掛けるだろう。それでいい、構わない。たとえ間違っていたとしても、貴方のことを知りたいという私の気持ちは揺らがない。

「貴方も、貴方の大好きなものに囲まれて生きていたいのね……」

驚いたような、少し間の抜けた声音が彼女の口から飛び出した。
彼女が私の言葉の「どれ」に驚いたのか、私にはよく解らなかったけれど、解らないなりにも私の言葉に納得してくれたのだろうと、そのように認識すれば一層、呼吸が楽になった。
「いいわ」と了承らしき言葉を告げて、彼女は私の手を引き、立ち上がる。
背の高い彼女に引っ張られるようにして立ち上がった私に、彼女は金色のカーテンの隙間から覗かせた顔を、至極嬉しそうにふわりと緩める。

私のママと同じくらいの年齢である筈の彼女は、しかし私と10歳程しか違わない、大人のお姉さんに見えた。しみもしわもその肌にはなかったし、声だって少女のように若かった。
もう何年もの時が、彼女の中で凍り付いているかのようだった。彼女はそこまでしてようやく、彼女自身を愛することに成功しているように思えた。
こんなにも完璧な女性の中に、こんなにも洗練されていた組織の中に、私は何故か「危なっかしさ」を見ていたのだ。

……もっとも、それは子供である私のただの勘に過ぎなくて、本当にそのような危うい人物であり、危なっかしい組織であるのかは、まったくもって解らない。
そうした判断ができる程、私は彼等のことを知らないのだ。だから、知らなければならない。
その結果、彼女やこの組織が危ういものだったとしても、私はきっと皆を好きになれる。だって私はそうやって生きてきたのだ!
この人達だけが例外だなんて、そんなことある筈がない。

主役の座に立てずとも、その傍らの最も暗い闇に立つことくらいは許されて然るべきだ。
無能で無力な私にだって、それくらいの権利はある筈だ。端役に願えることなど、所詮、その程度だった。

ミヅキさん、貴方の好きな色は?」

そうした決意を認めてくれたのかそうでないのかは解らないけれど、彼女はその笑顔のままにそんなことを訪ねた。私は反射的に「銀色!」と答えてしまった。
「どうして?」と尋ねられることが解っていたので、訊かれる前に私は笑顔でその理由を告げようと口を開いた。

「キラキラしている色が好きなんです」

「あら、そうなの?……そうね、わたくしも銀は好きよ。だから貴方にいいものをあげるわ」

彼女は、お姫様が眠るようなカーテン付きのベッドの方へと歩み取り、その隣の棚の引き出しをそっと引いた。
「引き出しを引いた」ことさえ見なければ解らないような、あまりにも静かな音は、その棚が寸分狂わぬ形に整えられた、完璧な品であることを証明しているかのようだった。
彼女はその引き出しの中から小さな銀色の指輪を取り出し、それを私の眼前に差し出した。

「銀製のものはこれしかないのだけれど、受け取ってくれるかしら?」

「え、ど、どうして?こんなに高そうなもの、受け取れません!」

「構わないわ、わたくしはどうせ嵌められないの。貴方の小指にならぴったり入る筈だから、ね?」

「わたくしはどうせ嵌められない」ような指輪を、どうして彼女は綺麗な棚の引き出しに収めていたのだろう。
私の右手の小指に嵌められた、その小さなリングは、本当は誰が嵌めるべきものだったのだろう。私はこの綺麗な女性の「何」の代わりにされようとしているのだろう。

「貴方が愛せるようなわたくしになるわ。だから貴方も、わたくしが愛せるように美しくなってね、約束よ?」

けれど彼女がこれを受け取ることを望んでいるから、これを受け取れば、私もこの人を好きになれるような気がしたから、私はそれを受け取り、自分の小指に嵌めた。
冷たいリングは私の指の温度を吸って、少しずつ元の冷たさを、氷のような温度を忘れかけていた。

「貴方がわたくしのことを嫌いになった時に、返してちょうだい」

彼女はそう告げてからふわりと微笑んで、私がこのリングを手放す理由を鮮やかに奪った。
その美しい両手が私の小指を包んだけれど、その温度は私の指にやって来る前のリングのように冷たかったから、思わず「ひゃ」と声を上げてしまった。
そんな私を驚いたように見て、彼女は少女のようにあどけなく笑った。

私はその日、これまで書き溜めてきた冒険の記録を、帰りの船の上から、海へと放り投げた。「普通」の旅路が綴られたものなど、もう要らないように思われたからだ。

私が、私ではない何かになれてしまう予感がして、どうしようもなくわくわくした。
あの白い空間で、銀色の指輪を嵌めた私はいよいよ、私にしかできないことを見つけられる。
そうした予感に心が躍った。海は私の高揚を映したように荒く波打っていた。


2016.11.21

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